一章
一章
少女が少年を拾ってから数年。月日は人間を成長させ、少年は青年となった。
お互いを信じ、頼り頼られた二人。
少年は、果たしてその後どのようにして成長したであろうか。その答えは王宮の訓練用にと解放された庭に響く鈍い音で知ることが出来た。
騎士や騎士見習いの者達が己を鍛えんと互いに切磋琢磨し稽古する中に一人の少年はいた。かつて単なる貧民街の孤児であった少年は、塵や泥に塗れ鈍く輝いていた金髪が陽光により光を辺りにもたらす程の輝きで、人々の醜い面だけを見て育ったがゆえに錆のように濁っていた赤色の瞳は純度の高い宝石のように紅に煌めいている。骨と皮しかなかった身体には程よく筋肉と脂肪がつき、健康的な体躯をしている。すらりと伸びた背は同年齢の青年たちと同じくらいか、やや少し上くらいだろう。初めて青年を見るものには彼が貧民街の出身であることは到底見抜けないほど、垢抜けていた。
その表情は明るく、静けさを湛えている。
今は他の騎士たちと同様に自らに課した鍛錬を一人黙々とこなし剣を振り続けている。やがて、正午の鐘が鳴り響き騎士らが昼餉の時間かと鐘のある城の上を振り仰ぐ合間にも少年は些細な時間さえ惜しいのだと言わんばかりに片付けもそこそこにその場を後にする。誰とも話さぬまま、誰とも視線を交わすことないままひっそりと少年はその場から消える。声をかけようとしていた緑の少年の存在など気づいていない。気付く暇もないほどのせわしなさだった。
騎士団用にと宛がわれた建物へと足を向け、身に着けていた甲冑とその中に着てすっかり汗ばんだ服を脱ぎ、己の着替えが入っているかごから必要なものを取り上げて身に纏う。
騎士の鍛錬を終えた少年が纏うのは、軍服でも私服でもなく侍従服。
彼は足早に立ち入るものが限られている回廊へと踏み入り、王宮の離れを目指す。何度も何度も通いなれた道なのか、わき目もふらずに奥の建物へと足を運び使用人に会釈をする。目的の部屋へと向かう前に己の部屋で簡単に汗を拭き、身を清めた後で主である少女のもとへ向かい居住まいを正して声を掛け、扉に手を掛ける。
樫の木で作られ、美しく装飾を施されている、けれどどこかぼやけた印象を持つ扉を。
「姫」
「あら、おかえりなさい」
相手の返事を待たずに扉をあけると己の主がふんわりと笑って出迎える。
ああ、黙っていれば花のような天使のようなと数多の詩人に謳われるの印象なのに、と幼いころから知り合いその本性を知る少年は失礼なことを考えて少女をみると彼女は花のかんばせを曇らせ眉を寄せた。
「なんだか……失礼なこと考えてない?」
「いえ、別に」
「ふぅん、まあいいけれど」
少年の言葉に納得したのか、していないのか。ふい、と顔をそむけてその勢いのまま少女は少年を出迎える前に行っていた作業に戻る。真剣な顔をして何をしているかと思えば、紙―地図のようだ―を広げて眺めている。少年は少女の今日の予定を思い出し、溜息を吐く。そのまま、急に砕けた口調で少女の愛称を呼ぶ。
「………ルディ?」
「なあに」
「今の時間は本来歴史の授業だよね。その先生が別荘に行っていて休暇中だから今の時間なら自習時間だと思ったんだけど、なんで地図を広げているのかな」
「あら、そんなの」
にっこりと少年に視線を合せルディと呼ばれた少女―ルーディアナ―は勝ち気に微笑む。続くだろう言葉を予想して、少年―ラティルス―は少し困ったように眉を寄せた。
「全部覚えたって言うんだろ? でも、宿題はやらなきゃいけないじゃないか」
「貴方がやってくれるもの」
「……ああ、そう」
いっそ傲慢ともとれる彼女の返事にラティルスは深く深く溜息を吐く。今更ルーディアナが年齢にふさわしい勉強を必要としていない事は知っている。家庭教師も、彼女の聡明さに気付かないわけがなく、一定の学問を学んだ彼女には到底年齢にふさわしくない、ラティルスが理解もできないような問題を次々と説かせていることも知っている。なのに彼女がわざと宿題を残しているのは学問に接してこなかった彼のためのものなのだということも。それを家庭教師も結果として理解し黙認していることも。
そうでもないとあんなに丸々遺して家庭教師が怒らないわけがないのだ。
彼女の返事も傲慢ではあるが彼女なりの気配りからくる傲慢さであると知っているし、家庭教師だって実は少年が宿題をやっていると知っているのだけれどそれでも。形骸化したやり取りをいまだ続けてしまうのは、ラティルスが勤勉で融通のきかない正確であることに加え、彼女が少年のための教師をつけることが許されていないからだった。
豪奢な内装の部屋を見渡して少年は憂鬱な気分になる。
与えられるだけの存在でいることは、心苦しい。
ラティルスにとって、とても豪奢に見えるこの部屋は、本来の彼女の立場からすればとても質素なものだった。
ほんの数年前は豪奢どころか質素な部屋にさえ住めず、贅沢な食材どころか質の悪い食材さえまともにありつけず、品の良い衣装どころか普通の衣装さえ纏う事は難しく、親切どころか同情さえ貰ったことの無いラティルスとしては息苦しく思うばかりだ。ルーディアナには大恩があるし、並ならぬ好意さえ抱いているけれど何せ慣れない。
宿題を自分にやらせるのは自分に勉強をさせるため、そんなことを何も言わずに実行されては感謝の言葉を上手に伝える方法を少年は知らない。何せ自分はそんの数年前まで言葉もろくに知らぬ孤児だった。それにそもそも、言う事すら彼女に許可されていない。彼女にとっても現状が不本意なものだからだ。
それがラティルスにはどうしようもなく歯がゆい。
「ねえ、それよりも。貴方は今日も一人ぼっちだったの?」
別の話題になり気まずい空気が晴れるのではと安堵しかかったものの、騎士団での稽古のことをふれられてラティルスは渋面を作る。主と、自分の大切なものを守るため剣を習いたいと申し出たらあっさりと認可され慄いたことはいまだに新しい。侍従であり騎士であるという中途半端な立場であっても騎士団長も誰も、反対しなかった。
それでも、最初のころは皇女専属の護衛から騎士団へと入団したことからラティルスはわがまま姫の小姓となめられて騎士団内部では常に爪弾きにされている。今でこそ漸く一見何の弊害もなく受け入れられていようにみえるが、未だにそのことを踏まえてからかうルーディアナにラティルスは決して己に意志に反し一人のけ者にされているのではないと首を振る。自ら望んでこの状態に身を置いているのだ。
「慣れ合う理由が見つからない」
「だけれど、お友達の一人くらいは作りなさいな」
「無理」
未だ主に対する接し方にも慣れていない自分が友人など作れようか、否。とラティルスは文机の上の帳面に向き合う。仮にも王族へと用意された物。えらく座り心地が良くてえらく書きやすい机と椅子。彼女の好意に甘え文机に向かうことすらラティルスは嫌なのだがせめてもの抵抗として以前に床へと帳面を広げたらルーディアナが大層怒りを表したので譲歩の末の行為である。怒った当の本人はそんな事は忘れたとでもいう様に行儀悪くベッドに地図を広げている。
「明日」
何でもないようにルーディアナは突然話を変える。
そういえば先程からずっと今はもう殆どお互いに使わなくなった気易い言葉が、少年であった頃のラティルスがこの暮らしに慣れていないころに交わしていた言葉が使われている。彼女が無意識に自分へと頼ってくれている時の特徴なのだとラティルスは認識している。こういう時は決まって何かあると経験上知っている少年は帳面に文字を綴りながら視線だけをちらりと少女へと向ける。
「明日、神殿へ出向くわ。ついてらっしゃい」
言い切る少女の言葉に少年は驚いてペンを取り落とし黒く波打つ白い海に黒い水溜まりを作る。彼女がずっと悩んで、躊躇っていたことだ。
それをなんの前触れもなく告げられて慌てないはずがない。ラティルスは何かを言おうとして、それでもなにも思いつけなくて。結局少年は分無難な言葉を返す事にした。
「……御心のままに」
うん、と小さく頷く少女の声は散りゆく花びらのように儚いと少年は思った。
きっともう、こんなに弱々しく甘えた彼女の声を聞く事は叶わないことなのかもしれないな。感傷に浸り自分自身もそう、とだけラティルスは応えを返す。これから何が起きるのかなんて、今は何も考えたくなかった。
夢のような時間だった。
彼女のためだけに身を鍛え、彼女を喜ばせる為だけに幾らでも時間を使い、己の為したいことを存分に為せた日々だった。
子供でいられる時間が終わりに来たのだと、ラティルスは背中越しに彼女の温もりを感じながら覚悟を決める。ラティルスは祈りにも似た願いを心に刻み込んだ。
――この血肉の一片さえも、貴方の為に。
だからどうか、彼女が本当に望んだことを成し遂げられますように、といるかどうかもわからない神に少年は祈りを捧げた。




