序
欲しいものがあって承諾した。実力が足らなくて失敗した。
ただ、それだけ。
――それだけの話だった、のに。
どうしてこうなったのだろう、と少年は疲れ切った頭に益にもならぬ呟きを浮かべた。
序
その少年は貧民街に住むごく普通の子供だった。
強いて言えば庶民にしては珍しい霞みかかった金の髪色と燃えるような紅の瞳をもつ少々毛色の珍しい子供。人を殺したりという行為にまでは手をつけないけれど、掏りをしたり盗みを働いたり、同じ場所に住む子供と同じように生きている。幼いながらも機転が回り衛兵を出し抜いたりすることもある。少年は人を従えるような強さはなく、所謂貧民街の子供たちのまとめ役などという立場ではないが、年下の子供の面倒をよく見ているような子供だった。
特段秀でているわけでもなく、特段迷惑なわけでもなく。けれどもそのへんに転がっている子供よりは、貧民街の人間にもそれ以外の人間にも認知されているような存在。だからだろうか、いいやもしかすると偶然なのかも知れない。少年には到底予想もつかないが、ある日突然彼の眼の前に突然貴族の使者だという男が現れた。
その男は貧民街特有の小汚い路地裏で、重みのある革袋を少年の前に出して見せ、本来ならば彼の人生から一生縁遠い言葉を言った。
『人を一人、殺してほしい』
その男は少年が今までになく大量の金品を欲していることを知っていた。
そして、男の依頼を断るなど微塵も思っていない傲慢さが声からにじみ出ていた。
確かに貧民街に住む身寄りのない子供がまともに働いたのでは到底彼が目標とする金額に到達しないだろう。摺りや物乞いだけでは到底足りやしない。
本来ならば、その金貨を得るために大人も子供も関係なくすぐに食いつくだろう。
しかし少年にとって人を殺すことは亡き育ての親の教えに背くことであり禁忌であり、それ以前に人殺しは大罪である。
それでも恩ある育て親の教えを曲げてまで、少年は胡散臭い人間の提案を受け決意をした。
それは断れば自分が殺されるかも知れないという恐怖と、金品を欲する理由を知っている男が、自分の近辺や、自分自身にまで手を出すのではないかと考えたからだ。
この話を持ちかけられた以上少年の不利は決まっているも同然だ。
それに思い至らぬほど少年は愚かではなかった。
失敗しても、成功しても死ぬかも知れない。それでも、成功すれば家族の命は助かるかも知れない。
初めから断る選択のない取引に、少年はこくり、と一つ頷いて見せた。
その少年に男は革袋の中から何枚かの金貨を取り出して残りは結果を見届けた後だと告げる。その金貨だけでも少年が何十年も仕事をしなくても暮らして行けるほどの価値がある。はたして残りの報酬を受け取るまで自分は生きているのか、生きていたとしてもその革袋の何枚が果たして自分に寄越されるのかと背を向ける男をぼんやりと見送ったその時。
たぁん、と弾んだ音が聞こえた途端、男の背中はゆっくりと前のめりに倒れる。慌てて駆け寄って男の身体を確かめる。狩人や兵士が到底持たぬような、短い矢が刺さっている。それがどんなものでどのような作用をおよぼすのか、少年にはとんとわからなかった。わかるのは、男は泡を吹いて倒れており、白目を向いているということ。矢の刺さっている箇所の肌は血が出ていないものの紫色をしていること。既に生きておらず故意的に殺されたのだろうということは明白だった。
――全てが終われば、終わらなくてもせめて生きてさえいれば、大丈夫だなんてどうして思ったのだろう。
物言わぬ姿になった男を見て、少年は雪冷えのする山において行かれたような気持になる。あまりに唐突で、あまりに少年の絶望を育てるような死だった。
そうして、男は依頼人である貴族に殺されたのだと妙な確信をもつ。どうしてそんなことを思うのか、余りにも呆気なく目の前で人が死んでしまったからか、それとももしかすると育て親が「貴族は狡猾な獣だ。関わるな」とくどくどと言い聞かせていたのが不意に頭に蘇ったからかもしれない。
どうして。どうしてその教えを今まで忘れたのか。どうしてこうなったのだ。
きっと自分には、死しか待っていない。その考えは少年を恐怖に陥れるには十分すぎるほどだった。震える手を、衣服を掴むことで抑える。まだ、大丈夫。どうして男が殺されたのかなんて、わからない。きっと、不幸な事故なのだと言い聞かせる。大丈夫、例え男が自分の想像通り殺されたのだとしても逃げられる。流石に殺させたい獲物の近くで自分を殺すことはしないだろう。けれど自分が何か不審な動きを一つでもすれば殺されるかもしれない。このまま対象の人間を殺す振りでもして逃げればいい。大丈夫、何度も大人を撒いたことはあるのだと少年は必死に言い聞かせる。楽観的な思考を微塵も信じていないからこそ、自分に思い込ませる。
男に教えられた情報は僅かなもので、相手は自分と同じくらい幼い子供だと聞いている。殺せる、のだろうか。それとも殺すふりをして逃げられるのだろうか。
――どちらにせよ、やるしかないのだ。
目を付けられたのが運の付きなのだろう、と少年は暗雲とした気持ちになるが、それでもうなだれていた頭を上げる。
そして少年が希望の見い出せない仕事をする決意をした。
■ ■ ■
だから、今自分が捕えられているのは欲しいものがあって承諾し、実行に移してみれば実力が足らなくて失敗した。たったそれだけの結果だ。
殺すことも出来ずに逃げることも出来ずに捕獲された野良犬見たいな恰好で地べたに座るしかない今の自分が結果だ。
殺されると思いながらも男に言われたとおりの馬車のを襲い、扉を開けて短剣を取り出すよりも先に少年は傍に控えていた護衛に引きずり倒され、あっというまに縄で縛られた。
人はいつも理不尽という運命に侵されている。偶然と偶然が重なりあって幸福を得たり不幸になったり。人生とは、人が生きるということはいつだって簡単だ。弱いから虐げられ貧困に陥る。力があるから、知恵が回るから裕福になる。其れが世界の当然の事実だ。
今回だってそうだ。年の割には愚かではない方だと自分のことを思っていたけれども結局はこのざま、目先の餌に釣られた愚か者だった。無様をさらした己の愚かさを呪い、それが運命なのだから死ぬのだと、彼女の瞳を見た時に納得しその運命を享受しようとした。
だから、だからこそ。
仮にも命を脅かされたにも関わらず少女が目の前にいて、少女が自分に問うてくるのだけが不思議だった。
「――ねえ、生きたい?」
少女の問いは至極簡潔で、無邪気で。それ故にとても残酷なものだった。
絶対的優位に立つ者だけが言葉にすることのできる言葉。
歳はそう違わぬだろうに艶やかな輝く夜のような瞳と紅蓮の髪を持ち、最上の服を着て綺麗な物に囲まれて生きてきたであろう少女に、まるで血液みたいに不吉な色の瞳と如何にも手入れを行っていないとわかるばさばさでくすんだ金の髪をした小汚い服を着て粗末なものに囲まれ続けてきた少年は精いっぱいの強がりを以て言い返す。
死にたくはない。けれど、同じ年頃の贅沢に暮らしている子供に憐れまれたり蔑まれることだけは、少年の矜持が許さなかった。
「ころすなら、ころせよ」
「生きたくはないの?」
「ああ死んだ方がましかも知れないね。いたいのはいやだけど」
ことり、とあどけなく首を傾げる様を見て、少年は無性に苛つき、強く皮肉気に言い返す。勿論生きたいと云ったって生かす気なんてないのだろう。少女本人はともかくとして、周りは。無力な子供のささいな言葉でさえ護衛の気に障ったのか強く腕を押さえられ、馬車の床に顔を擦り付けられる。少女はその様を止めるでもなく、満足げに見るでもなく観察するように少年だけを見詰めていた。
圧倒的な立場の差だ。
この国ではどうか知らないが、貧民街での命は軽い。鞭を打たれすぎて死んだ男も寒空に放り出され凍え死んだ子供も病をうつされ狂い死んだ女も。毎日誰かしらが死んでいく。
――死にたいと言ってこのまま死ねるのならば、拷問にかけられたりあの男のように毒を打たれて死ぬよりよほどいい死にざまだ。
流石に、人を殺そうとしたことが露見して殺されないなどという甘えは少年の心にはない。
けれど、自分に暗殺をした人間に殺されるよりも、余程苦しまずに死ねるかも知れない。それはアル種、甘美な誘惑のように思えた。
少女を殺そうとしたのは少年が名前も知らない別の人間で、自分は雇われただけなのだけれど雇い主の顔さえ知らないのだから拷問にかけたって得るものなんて無い。貴族同士で暗殺をしようと言う人間がこんな餓鬼に正体をさらすほど愚かでは無いことも承知しているだろうから拷問なんて無駄なことはしないかもしれないが。あっさり死ねるならその方が良いに決まっている。
恐ろしく顔も分からない貴族が雇った誰かに殺されるよりも今、目の前の子どもが命じて自分を殺すほうがずっと良い。子供なりに考えているのだ。これでも、と少年は覚悟を決める。
――ただ………そう、ただ一つ。
母との最後の約束でもあり己に課したものでもある、たった一つ誇れる約束事を守れなくなってしまうのは辛かった。
己の無力が酷く歯がゆく、虚しい。そんな決意と諦観という矛盾を孕んで見詰める少年の視線を受けて、少女は口を開く。死を言い渡すのか、少年の無礼さを罵るのか。どんな言葉だろうと、それは少年にとって良くない言葉であるはずだった。
貴族の少女と、貧民街の少年。明確すぎる立場だが、彼女のその言葉は少年にとって思いもよらぬ一言であった。
「決めた。お前は生かしてあげる」
何を言われたのか、一瞬何も理解ができなかった。
「…………………………はぁ?」
「ごふまん?」
「ふまんもなにも。おかしいよ。だいたい失敗したんだから依頼したやつだっておれのこと殺しに来るだろうし」
到底起こり得ない、突拍子もない言葉を返されて、少年は瞬きをする。おかしそうに笑う少女に、己の境遇も忘れて生意気にも言い返した。
所詮、どれだけ物事を考えても子供は子供。少年の顔から決意の表情は消えていた。
「いやだわ、自惚れない方がいいと思うの。大方貴族の依頼がとか言われたのでしょうけれど、仮にあなたに依頼した人間が死んだとして。きっとその人は報酬の金貨をけちってあなたみたいな子供を選んだのね、そのあと殺されたのかしら? ならあなたは下っ端の下っ端で使えないと判断されたわけだし、今まで殺されてないということはこれからも殺されないでしょうし元凶の腐れ貴族さまは家の中でぬくぬくお過ごしでしょうからきっとあなたの顔も知れないし気にも留めないわ?どう? わたしの予想はあたっていて?」
「…………うぅ」
「見張られている、とちょっと賢いこどもならばおもうかしら。でも、こんな見ず知らずの子供にも命を狙われるくらい日常的に危険なわたしはこうして喋り続けている。安全な証拠よ。わたしが犯人ならあなたごとわたしを殺すわ」
「う…………」
次々と容赦なく放たれる少女の言葉に少年は思わずたじろぐ。そんなうまい話があるものか、とは思うがたしかに自分は貴族の顔も何もかもをも知らない。決意した事実が思い込みだと指摘され、少年は混乱した。
「ね、問題解決したのだもの生きていて問題はないわ」
「……………………えっ?」
たっぷりと沈黙を孕んだ後、驚きのあまり抜けた声を出してしまって少年は自分のことながらどきりとする。こんな状況で素っ頓狂な声を出せるなんて自分は図太いのだろうと思うけれどもそのあとに続いた少女の言葉に度肝を抜かれる。
――なんだ、この子。
失敗したとはいえ先程まで自分を殺そうとしていた人間にそんなことを言える彼女こそはなんと図太いものかと思いなおす。謝罪も言い訳も、命乞いも。僕は、彼女に何も言っていないのに、と少年は少女を見詰めた。
――何故。
そんな少年をおいてけぼりにするかのように少女は満足そうに口角をあげ、再度宣言する。
「生かしてあげる。その命私の為だけに使いなさい」
「…………………………………えらそう」
あんまりにもあんまりな言葉を云うものだから、つい少年はぼろりと本音を漏らす。それに気を悪くしたようなことはなく、上機嫌に少女は言葉を続ける。変な人間だと少年は今までと違う意味で警戒心を抱くことにする。殺されないならば、損をするのはごめんだ。けれど確かに、殺そうとした人間の望みを叶えなくてはいけないような気もした。
そんな少年に構わずに少女は小さな体でふんぞり返る。
「そうよ。あなたは馬車を襲って中にいる娘を殺せ、としか言われてないかもしれないけどこれでも私って偉いの」
「さっきから思うんだけどそんなに詳細にぼくと雇い主の経過が分かるほどおそわれてるわけ?」
「あら襲われたのは今日がはじめてだけどこんなの考えればすぐにわかるわ」
「頭が良いからだとでも言いたいわけ?」
「いやだ、あなたって捻くれてるのね。私に見惚れて失敗したくせに」
「誰が見惚れるか!」
「ふうん」
ぽんぽんと振り子のように会話が行き交い、意味深に少女は微笑んで少年は一気に不機嫌になる。自信たっぷりの少女は相手を不機嫌にさせるのが得意のようだ。確かに馬車に突入する際に少女を見詰め過ぎたのが失敗の最大の要因だが、それは相手があんまりにも小さかったからだ。それだけだ、と少年は自分に言い訳した。
――こんな貧民街に本当に金持ちの娘が一人で馬車に乗っているなんて思わないじゃないか。
少年がそう思ったところで、まんまと油断したから引き受けてしまったのだけれど。人一人殺す決意があると思っていたけれど、躊躇ったと言えば、そうかもしれないと少年は自分の認識を改める。
黙りこむ少年に構わず少女は続けて彼に話しかけた。
「そんなことはどうでもいいわ。とにかく私は裏切らない味方が欲しいの」
「ついさっき殺そうとしたぼくにそれを言うの」
「ふふ、わたしがねらわれる理由を貴方は知らないでしょう」
「そりゃぁ、ぼくは雇われただけの子供だもの」
「そんなにひくつにならないで、教えてあげる」
「聞いてないし人の話聞いてほしいんだけど?」
「わたしね、『輝きの眼』をおじい様からたまわったの」
「…………」
ぴたり、と会話が止まる。少年が応えることをやめたからだ。
少女の言葉の意味が理解できないからではない。
人の話を聞かない娘に閉口したわけでもない。
輝きの眼、という単語に少年は言葉を失った。
この国にある三つの宝物。おとぎ話のようなそれの中に輝きの眼というものがある。そして、それは。
皇族にしか見ることも触ることも出来ない品物で。
それを持っているというならば。
目の前の少女は。
「皇族……ルーディアナ、さま」
「あら、名前まで知っていただけて光栄だわ」
少女はまるで此処が宮殿でもあるかのようにひらりとスカートを翻しお辞儀をしてみせる。
――名前も何も。
今皇族には姫など一人しかいない。そんなことは貧民でも知っている。
もとより、この国に纏わる伝承は子守唄よりも広くひとびとに知れ渡っている。誰でも、貧民街に住んでいるような自分でさえも知っている。太陽の光を丸めてつくった神様の瞳、月の欠片を集めて刃にしたなんでも切ってしまう剣、全ての知識が詰まっている無敵の本。全てを以て争いを鎮めこの国を作ったという初代皇帝。三つのお宝が登場するおとぎ話は色々あるけれど、この話が一番有名だ。
ましてこの少女は学のない貧民街でも彼女の奇矯な行動と発言に知られて親しまれている。
たった十二歳という年の少女なのに。
今更ながらとんでもないことをしでかしてしまったと少年は震えあがる。
「そんなに怯えないで。味方になってほしいだけよ。たとえ断ったって殺す気なんてないから大丈夫」
にこりと微笑んだ彼女は無邪気な少女そのものだが少年はそれだけでは無いものを感じていた。そういうものには敏感だった。意識して言葉を改め、ルーディアナに質問する。
「味方、ですか………………?」
「そうよ。文字通りに、私を助けてくれる人が欲しいの」
「姫さまには沢山の忠臣がいるのではないですか?」
「それだけじゃ足りないの。そして、私にはそんな味方が欲しい訳じゃない。ただ、助けてくれるだけでいいの。見守ってくれているだけでもいい。絶対に私を裏切らない、そう言う人が欲しい」
「でも」
「だから、貴方が欲しい」
「だけど」
しっかりとした目に見据えられて少年はうろたえた。なぜ王族ともあろう人間が自分などを、たった今命を狙ったばかりの人間を望むのかわからなかった。餓鬼で得体が知れないのだというのに全く気にしない彼女が不思議たっだ。
まして、見守るだけでいいなどと。そんなものは誰にでもできるだろうに、何故自分なのであろう。
けれど、どうしてそこまで必死に望むのか。真剣な瞳が真っ直ぐに自分の瞳を覗き込む。ふと、彼女はどこか自分と似ているように思えた。
――まるで、何かを護るのに必死な。
それが答えなのだろうか。
その瞳に答えを見つけた気がして少年は自然と頭を下げていた。
力になりたい、と純粋に思えた。
己の所業も、先程までのやり取りも。そんなものはその瞳の前では無力だ。
彼女が望むものだけが、真実だと少年は思った。
跪き、手を取り、目線を合わせ少年は少女に跪く。育ての親に教えてもらった知識ではそれが精一杯だった。
けれど稚拙さに構わずに少女は年齢に似つかわしくない典雅さでうっすら微笑んでそのあどけない忠誠を受け入れる姿勢を整える。
まるでそれが当然であるかのように。
「私に貴方をくれるというのなら、貴方の名をちょうだい。私に、ルーディアナ・ユノ・ルクスに貴方の名前を」
「………………ラティルス。ただの、ラティルス。僕は、貴方のものになる。」
それが二人の始まりだった。
幼い主従の始まりだった。少年は言い慣れぬ言葉を絞り出し、それに応えるように少女の唇も動く。求めるものと、差し出すものは等しく同じだった。
まるでそれが運命でもあるかのように。
「「………忠誠を」」
それが、二人の始まりだった。
二人と、護衛だけが知っている、二人の世界の始まりは貧民街の片隅で痛切なほどのひたむきさと幼さを伴って始まったのだった。




