3
よろしくお願いします!
人参のグラッセ事件からしばらくは、特に何事もない日常を過ごした。
近藤君とは挨拶ぐらいで特に接触はなく、私はあの時お礼を言い忘れてしまったことにもやもやしていた。
給食では相変わらず毎日のように人参が出るので、毎日のように苦行は続く。
一応小さな人参は給食の時間中に飲み込めるようになってきたのだが、大きいものはやはり時間がかかるのだ。
そんな日常が半年続いていたある日、クラスを揺るがす大イベントが起きた。
「はい、皆さんは卒業まであと半年となりました。最後の席替えを行いたいと思います」
席替えはクラス委員の主導のもと、くじ引きで行われた。
私が引いたのは、なんと一番後ろの窓際。大人気の席である。
これで人参を食べるのに時間がかかっても、掃除の時間に机を動かす距離が短くていい。
嬉々として机ごと窓際へ移動する。
「あ、安居さん。隣の席なんだね。よろしく」
聞き覚えのある、落ち着いた変声期前の男子の声。
まさかと思って顔を上げると、そこにいたのは近藤君だった。
「よ、よろしく」
思わずどもりながら言葉を返す。
隣に近藤君がいると思うと、何となくドキドキと緊張してしまう。
授業中、私は近藤君を横目で覗いみる。
近藤君は真剣な表情で、黒板を見つめていたり、ノートを書きとめたりしている。
あ、そっか。近藤君、左利きなんだ。
今更だが、そんな発見に心がほんわかするのを感じていた。
午前の授業がすべて終わるとやってくるのは、みんながお待ちかねの給食の時間。
しかし、私は憂鬱以外の何物でもない。
今日は信じられないことに私が苦手とする人参が、筑前煮として一口大で登場する忌々しい日である。
例によって今日も人参だけを残して他を食べ進める。
筑前煮の人参は大きいし、いっぱい入っているのでとても嫌なのだ。
ほかの食材を食べ終わり、人参を残すところ5つまで追い込んだ時点で、昼ご飯の時間は後5分だった。今日も、間に合わない。
掃除の時間に突入しそうだと思ったその時、隣から小さな声が聞こえてきた。
「安居さん。それかして」
近藤君だ。
彼が指さしているのは人参が残った私のお椀。
「え、でも」
私も小声で返す。食べてくれるというのだろうか。
「いいから。早く」
慌てて私はお椀を渡すと、代わりに手には空っぽになった筑前煮のお椀を握らされた。
近藤君はそのまま人参をぱくぱくと平らげていく。近藤君の手にかかれば、あっという間に人参は滅んだ。すごい!!
「あの、ありが」
「安居さん! 人参が食べられたの!?」
「え、あの」
「みんな! 安居さんが時間内に筑前煮を食べきりました! 拍手!!」
様子を見に来た先生がそんなことを言ってしまって、私はクラス中に拍手されることになってしまった。
私じゃないとは言えない。
ちらりと隣を見ると、近藤君はにこにこ笑って、みんなと一緒に拍手をしている。
近藤君は私が見ているのが分かったらしく、口パクで『お・め・で・と・う』と言い、口元に人差し指を添える。
どきりと胸が高鳴った気がした。
その日の放課後、私は近藤君を呼び出した。
誰もいなくなった教室に私たちだけ。
心なしかいつもよりうるさい心臓音を感じながら、私は話を切り出した。
「あ、あの! この前も今日もありがとう。私、ずっと、この前のお礼が言いたくて。だけど、言う前にまた助けてもらっちゃった。本当にありがとう」
「いいよ。そんなの。僕が好きでしたことだから。ねぇ、安居さん。これから給食の時は、みんなに内緒で僕が人参食べてあげようか?」
「え、やつは毎日でるよ!? そんな、悪いよ! 頑張るし!」
近藤君の突然の提案に、私が慌ててそういうと、近藤君はクスクス笑っている。
「ふふ、『やつ』って! 人参を『やつ』って呼んでる人初めて見た。安居さんって本当に人参が嫌いなんだね」
「うん! 人参大嫌い! 人参のせいでウサギに指をかじられてから大嫌いなの」
「ウサギにかじられたのに、人参が嫌いなの? 人参、めちゃくちゃとばっちりだね。はははっ」
「なんでか、人参のせいだなって思ってて。それから、臭いとか味とか全部嫌いになっちゃったの」
「そうなんだ。じゃあさ、僕の提案受けたほうがいいんじゃない?」
近藤君に笑いながらそう言われて、言葉に詰まる。
「うっ、そりゃ、ありがたいけど、」
「じゃあ、決まりね」
「えっ、だめだよ。やっぱり」
「どうして?」
近藤君はきょとんとした顔で尋ねる。
「や、やっぱり、ずるはよくないし……」
「大丈夫だよ。大きい人参だけにしよう? いつも安居さんは、泣きそうになりながら、頑張ってるから応援したいんだ。また、庄野さんに意地悪言われたりしないか心配なんだ」
「麗華ちゃん? あぁこないだの掃除の話だね。確かに嫌だったけど……近藤君にいいことが何もないよ」
「いいんだよ。僕は、安居さんを応援したいんだ」
「…………お願いします」
悩んだ末、私は彼の提案を受け入れた。
それを聞いた近藤君は「うん」と頷いて、さっきみたいに人差し指をぴんと立てて、私の口元にそっと寄せる。
ティッシュペーパー1枚ごしぐらいの隙間に、近藤君の人差し指がある。
それを感じると、ドキドキする。顔が熱くなってきた。
そんな私を気にする様子もなく、近藤君はしっかりと私の目を見て言った。
「2人だけの秘密だよ」
近藤君はその日から、私にとって人参を蹴散らすヒーローとなった。
ありがとうございました。