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よろしくお願いします。
3月。
最近は凍てつくような寒さが和らぎ、日の入りも遅くなってきた。
近所の公園にある梅林は、毎年この季節になると満開の梅の花を咲かせ、上品な甘い香りで包まれる。
寒々しい日々の中にも春の訪れを予感させる、そんな季節。
私は新たな門出のため、自宅の大掃除に勤しんでいた。
私はこの春から、生まれ育った家を離れて生活を送ることになるのだ。
幼い頃から過ごしてきた自室には、25年分のありとあらゆる思い出が詰まっている。
お気に入りだったゲーム機や人形、小さくなった服をひとつひとつ確かめながら処分したり、残したりと選別していく。
昨日は何とかクローゼットが終わったので、今日は本棚に取り掛かることにしよう。
本棚は強敵である。何しろ誘惑が多いのだ。
集めている漫画やかつてお気に入りだったアイドルが表紙を飾る雑誌、学生時代の教科書、参考書など。
漫画をパラパラとめくっては、面白くなって読みふける……。
そんなことを繰り返して早数時間。
本棚の下段、分厚い本だけを入れていた棚に並んでいた『それ』を見つけた。
私はケースに包まれた分厚い本を持ち上げ、ケースから抜き出す。
クリーム色の装丁には金色の『卒業アルバム 北井門小学校』という文字が風格を持って中央に鎮座している。
「懐かしいな……」
ぽつりとつぶやきが漏れた。
小学校に通っていたのは、もう10年以上前の話だ。
今思うとあの頃は1日1日が長く、毎日が新しいことの発見で、ワクワクして楽しかった。
同級生たちと鉄棒したり、縄跳びしたり、鬼ごっこしたり、ゲームしたり……受験や就職を一切気兼ねせずに過ごした唯一の時代だったように思う。
年齢を重ねて大人になると世界は何かと面倒なものになる。
特に人間関係については、大人の世界は厳しく、無関心で、非情だ。
たとえ間違ったことをしても正す人がいない、他人との関係に大きな遠慮が生まれる。
子供時代も円滑な交友関係については、それなりに考えるべきことはあったが、大人になって社会が広がるとより複雑さを増す。
【適切な距離】を間違えると嫌われたり、勘違いされたりするものだ。
めんどくさい衝突を避けるようになる。誰でも嫌われるのは嫌なのだから。
本当に自分のことを思って行動してくれる人は、年を重ねるごとに得難くなっていく。
だからこそ、この当時の友人たちと今でも仲良くできることは、すごく貴重で大切なことだと思う。
引っ越してからも連絡を取り合う大切な友人たちを思い浮かべた。
柄にもなく感傷に浸りながら、アルバムをパラパラとめくっていく。
写真の中に、今でも仲の良い友人たちを見つけては懐古する。
そして当然だが、幼い頃の私も写っている。
小学生時代の私はいつも、母にしてもらったおさげ髪に小さなリボンをつけていた。
我ながらいい笑顔で写っていると思う。
クラスの中でも平凡な層に位置していた私は、集合写真の時は決して写真の中心に写っていることはない。
ただ、背は低かったので、いつも一番前の列だった。
関わりの少なかった同級生の名前を思い出しながら、集合写真と個別の名前が入った写真を見ていると、懐かしい顔を見つけた。
最前列の左端にいる私の、斜め右上にいる男の子。
「……近藤 颯太」
指で写真の下に書かれた名前をなぞる。
男子にしては長めのまっすぐ伸びた黒髪に控えめだけれど、優しそうな笑顔。女の子がうらやましく思うほどのぱっちりとした大きな二重の目。度のきつそうな分厚いレンズの眼鏡。
彼は珍しく6年生で転入してきた子で、写真の中でもどことなく距離があるように感じられる。
そもそも彼が写っている写真自体も少ないのだ。
卒業式の日の集合写真でも、彼は私の斜め後ろでおとなしそうに真顔で写っていた。
「……ふふ」
思わず、当時を思い出して笑みがこぼれる。
実は、私と彼はただのクラスメイトというだけの関係ではなかった。
当時の彼と私には誰にも言えない、2人だけの秘密があったのだ。
彼は、私のヒーローだった。
あれは私たちが6年生になったばかりの頃のこと。
始業式の日、私の在籍していた北井門小学校6年1組に転校生がやってきた。
それが近藤 颯太だ。
親の転勤が原因で都会からやってきた彼は、同世代の男子の誰より大人びていて、瞬く間にクラス中の注目の的になった。沢山の人が話しかけていく。しかし彼は当たり障りなく対応しては、本ばかり読んでいて、私は笑うところを見たことがなかった。
挨拶すれば、落ち着いた声で挨拶を返してくれる。その程度で、対してかかわりのない私たちの関係は『ある日』を境に一変することになる。
そう。彼が私のヒーローになった日から……。
ありがとうございました。