6.吹いてくる風はどこか涼しかった。
その後、ワタヌキが失踪したという噂は瞬く間に町内に広まった。片田舎の狭い世間では、老人が1人いなくなれば大騒ぎとなる。しかし遺体が白日の下に出てくることはなかった。
元々町内では悪感情を抱かれていた人物だ。以前は妻帯していたが大分前に離婚済らしく、身寄りもない。現在では定職にもついておらず、積極的に捜索を願い出る人間は皆無である。借金も大分抱えていたらしいので、大方夜逃げでもして姿を眩ませたのだろう―それが警察や近所の人々の見方である。
夕食の席で噂好きの母親が新聞に目を落としたままの父親に一方的に話しかけていたそうした内容を、俺は素知らぬ風で味噌汁を啜りながらも耳に掻きこんだ。噂の中でワタヌキの住居がどの辺にあるのか大体の場所も聞いたが、その同じ地区内に星崎先生の家もあると知ったのは後日のことである。近所であれば当然、老人の眼にも留まりやすかっただろう。先生にとっては不運だったというしかない。
警察が実際ワタヌキの失踪をどのように見ていたかは分からない。少なくとも俺や大野のもとに、刑事が事情を尋ねに来るようなことはなかった。おそらく星崎先生のもとへも行かなかったのではないだろうか。大人達から漏れ聞こえる噂に先生の名前が登場することはなかったし、あの日の翌日こそ姿を見せなかったものの2日後には先生は学校に復帰し、以前と変わりなく教職を続けていた。
変わったのは俺と大野の方だ。あの日以来、俺たちは秘密基地に足を運ばなくなった。
どちらから提案したわけでもなく、まるで暗黙の了解が成立したかのように自然とそうなっていた。“秘密基地”という単語さえ、最早口の端に上ることもなくなっていた。
幾ら人目に付きにくいとは言っても、小学生の大野が見つけられるような場所だ。何かの弾みで余人があの洞窟に辿り着くことは十分考えられたし、そこには死体という動かぬ証拠が置きっ放しだ。持ち込んだ私物も散らかしたまま出て来てしまったし、その中にはマジックで名前を書いたゲーム機なども含まれている。もし誰かに遺体が発見されたら、芋づる式に俺たちの関与が疑われるだろう。そう思うと気が気ではなく、一度洞窟付近の様子を見に行きたい欲求にも駆られたが、どうしても踏ん切りがつかなかった。あの洞窟のことを考えると同時に遺体の凄絶な表情が頭に浮かび、足がすくんだ。
3ヶ月弱の間夢中で通っていた秘密基地が、どうしようもなく遠かった。喪失感が胸を包んだ。
大野は俺よりも楽観的だった。あの洞窟は誰にも見つけられるわけがないと、根拠のない自信を持っていた。俺とは違い肝が据わっていたというべきか…しかしあのまま何事もなければ、やはり遠からずワタヌキの遺体は発見されていたと思う。何せ夏場だった。洞窟の中が幾ら涼しいとはいえ、土に埋めることもなく放置して来たのだ。遺体が腐乱し異臭が辺りに漂いはじめるのは時間の問題だったはずだ。近くを通りかかり疑念を覚えた誰かがあの周辺を本格的に捜索すれば、すべてが露見していただろう。
しかしそうはならなかった。そうなる前に、人智の及ばぬ偶然が働いた。
あの惨劇の夕方から1月ほど経ち夏休みも半ばに差し掛かった頃、俺たちの町は突如集中豪雨に見舞われた。道路が俺の踝辺りまでも浸水し、長靴を履かねば外を出歩けない始末だった。俺も大野も家族と共に小学校の体育館に避難した。そしてその豪雨は、山中には土砂崩れをもたらした。
元々あの山の土は柔らかく脆かった。崩壊はかなりの規模に及んだ。麓の家屋の中には何軒か土砂が流れ込んだ処もあったらしいが、幸い死者は出なかった。そして濁流は、あの洞窟周辺も飲み込んでいた。俺と大野が体育館で一夜を過ごしている間に、すべては地中に埋もれたのだ。秘密基地も、そこに置いてきた机やビニールシート、ゲーム機やCDプレーヤーも。そしてもちろん、ワタヌキの遺体も…
豪雨が過ぎてからしばらく、山は立ち入り禁止になった。荒れ果てた山肌のあちこちに巨大な杭のようなものが立ち、シャベルカーが土砂や倒れた樹木を持ち上げては運んでいく光景が遠くから望まれた。整地作業が一段落し立ち入り禁止が解けたのは豪雨から1月経った頃で、9月に入っていた。だいぶ土も掘り返されただろうが、ワタヌキの遺体が見つかって騒ぎになるようなこともなかった。
9月の中頃に一度だけ、休日に大野と連れ立ってあの山に赴いたことがある。復旧した山道に踏み込むと、周囲の様子は土砂崩れが起こる前とは随分違っていた。やはり緑が少なくなった印象を受けた。
あの小さな道祖神の祠も土砂に流されたらしく、姿を消していた。目印が無くなったので先生とワタヌキが対峙していた地点を見つけるのに随分苦労した。そこからかつて秘密基地があった辺りを仰ぎ見たが、一面むき出しになった土が均されているだけの不毛な斜面に様変わりしていた。洞窟を人目から遮っていた樹木群は跡形もなく消えたが洞窟そのものも地中深くに埋もれ、永久にその姿をくらませていた…
俺たちはそれだけ確認すると、山を後にした。自転車で家の近くまで戻った処で、道沿いのコンビニに立ち寄った。帰宅する前に少し考えを整理したかった。アイスバーを購入し、外に備え付けられたベンチに大野と並んで座った。
ワタヌキの遺体ごと洞窟が土砂に埋もれたことを、どう捉えていいかわからなかった。寂しさはなかった。あの場所に隔意を覚えた時点で、既に俺の中では秘密基地を失ったも同然だった。しかし先生や俺たちのしたことがこれで誰にも知られることがなくなったと、喜ぶ気にはなれなかった。代わりに圧迫感を覚えた。重量のある陰りに、心を侵食されたようだった。
大野はどう思っているのか尋ねたかったが、どうしても言葉がでなかった。2人とも無言のまま、機械的にアイスをかじっていた。
「あんたら、こんなとこで何してるの?」
突然声をかけられた。顔を上げると、梨絵が立っていた。3人とも家が近いから、生活圏は被っていた。このコンビニで偶然顔を合わせるのも、ままあることだった。
「随分久しぶりじゃない」
「学校で毎日会ってるだろ」
「だってあんたら、ここ最近あたしをのけ者にしてこそこそしてたじゃないの。一体何やってたのよ、教えなさいよ」
梨絵はここぞとばかりに詰め寄ってきた。女子の直感というものは馬鹿にできない、と内心で舌を巻いた。
「別に、なんものけ者になんかしてねえよ」
「嘘おっしゃい。そこまで隠すってことは、よっぽどいいことがあるのね」
「嘘じゃないって。今も宮代と、せっかく外出たのにやることなくて退屈だなって話してたんだよ、なあ」
「そうだよ、こそこそやることなんて何もないって。暇してんだぜ、俺たち」
冗談めかした声で大野の援護射撃をしてみた。梨絵は尚も疑わしそうに眼を細めていたが、それ以上追及するのも面倒だったようだ。
「そう、そんなに退屈してるのね」
「あ、ああ…」
「じゃ、可哀そうなあんたらに予定を作ってあげるわ。今からあたしの買い物に付き合わせたげる」
「なんでお前のやたら時間かかる買い物に付き合わなきゃなんないんだよ。嫌だよ、どうせ服とかだろ」
「その前にあたしもアイス食べたくなっちゃった。一口ちょーだいよ」
「自分で買え、つーか話を聞け!」
コンビニ前で言い争う大野と梨絵を横目に見ながら、俺は奇妙な懐かしさを覚えていた。
日差しは強かったが、吹いてくる風はどこか涼しかった。夏はもう終わっていた。
星崎先生は2学期以降も、何事もなかったかのように学校へ通い続けた。その様子は至って穏やかで、俺たち生徒に向ける暖かい笑顔も以前と何ら遜色がなかった。彼女が老人を一人死に追いやったとは、事情を知らなければ夢想だにできなかったろう。あの事件の後も俺や大野は先生と何度か言葉を交わした。しかし少なくとも俺は、以前のように胸を高鳴らせることができなくなった。
先生の笑顔が仮面でないはずはない。先生は俺たちが死体を隠したという事情を知らない。人を殺して放置してきたはずなのに、自分に警察の手が伸びる気配は一向にない。一体どうなっているのか。胸の内は恐慌を来さんばかりに混乱しているはずなのに、外面にはその綻びを一切見せない。
あの夕方の先生の所業も確かにショックだったが、何よりもその後“元の自分”を完璧すぎるほど完璧に演じる様に、俺の心は冷えていった。仮面がそこまで精巧なら、かつて俺が憧れたあの笑顔も造り物でなかったと、どうして言えるだろう…
星崎先生を最後に見たのは小学校を卒業する日だった。卒業式を終え昇降口を出た処で、自分のクラスの生徒達に囲まれる星崎先生を認めた。先生は眼に涙を浮かべながらも笑顔で、一人一人に別れと祝福の言葉を送っていた。俺は黙って目を逸らし、校門へ向かった。
ワタヌキの死は現在に至るまで明るみに出ていない。失踪の噂も次第に聞こえなくなり、やがて老人の存在そのものが町から忘れられていった。俺は大野や梨絵と共に地元の中学・高校へ進学し、高校卒業と同時に故郷を後にした。以来15年間、今度同窓会を通知するはがきを受け取るまで、帰省することはなかった。