5.大野の声は、寧ろ淡々としていた。
先生が去って幾ばくかの時が過ぎた。倒れたワタヌキは、一向に起き上がる気配がなかった。我に帰ると、緊張と暑さで全身汗だくだった。
「お、おい、どうするんだよ…」
俺は沈黙に耐えかね、大野に問いかけた。無責任な問いだったがこの時は混乱して、次にどう行動するべきかを考える気力さえなかった。大野は問いかけには応えなかったが、徐に動いた。秘密基地へと通じる例の”獣道”を滑るように降り、山道へと向かった。俺も慌てて後を追った。
服についた草や枝を掃うのも忘れて、俺たちはうつ伏せ多ままのワタヌキに歩み寄った。大野がしゃがみこんでまずワタヌキの鼻に手を近づけ、ついで首に触れてみた。
「ど、どうだ…?」
主語のない問いかけだったが、意味は取り違えようがなかったろう。大野も今度は首を一度降った後、明確な言葉を続けた。
「駄目だ、死んでる…いや」
大野はしばし宙を睨み、何やら考える素振りをみせた。
「ひょっとしたら今すぐ病院に連れて行けば、そせい、というのか?生き返る、かもしれないけど…そうするわけにもいかないだろう」
大野の言葉は残酷だったが、その通りだった。倒れている老人を病院に連れて行き万が一息を吹き返したら、星崎先生の凶行が露見してしまう。とはいえ、では一体どうするべきか。
先刻の先生の凶行は、明らかに衝動的なものだった。この場を去った時も後先のことなど考える余裕はなく、ただ恐怖に駆られて逃走したのだろう。しかしこのままワタヌキの遺体―もはや遺体と呼んでもいいだろう―を山道のど真ん中に放置しておけば、遠からず誰かに発見されてしまう。通報を受けたら警察も殺人事件として捜査を始めるだろうし、満足に隠蔽工作なども施していないのだからすぐ先生の犯行だと露見してしまう可能性が高い。先生が山へ向かう姿を目撃した人もおそらくいるだろう。
この時、星崎先生が自首するかもしれないという考えは俺の頭にはなかった。浅ましい姿が目に焼き付いていたが、それでも俺は先生を助けたかった。
大野は横たわったワタヌキをしばらく眺めていたが、1つ大きくうなずくと突然目の前の遺体に手を伸ばした。そして難儀しながらも遺体をひっくり返し、うつ伏せから仰向けの状態へと変えた。
空を向いたワタヌキの顔には死の苦悶がありありと浮かんでいて、俺は思わず目を反らした。大野の方はそんなものには注意も払わずに遺体の上半身を抱え起こすと、自分の両腕をワタヌキの両脇に差し込んだ。
「宮代、お前は脚の方を持ってくれ」
そう言われて、俺は戸惑った。大野の意図が読めなかった。
「脚を持てって…一体どうするんだよ」
「決まってるだろ。この死体を隠すのさ」
大野の声は、寧ろ淡々としていた。
「このままにしていたら誰かに見つかってしまうだろ。今の時間からだってこの道を通る人がいるかもしれない。そうしたら先生がまずいことになっちまう」
「そ、そりゃそうだけど…でも隠すって、どこに」
「あるじゃないか、丁度いい隠し場所が」
そう言って、大野は顔を上へ向けた。その視線がどこへ向かっているのか、俺は瞬時に悟った。つい先刻、俺達がいた方角だった。
そこは深い枝葉の奥に位置し、山道からは見えない。上からは下の様子を覗けるのに、下から見上げると緑が繁茂しているようにしか映らない天然のマジックミラー。現に俺達2人は3ヶ月近くをそこで過ごしてきたのに、誰にも見咎められることはなかった。俺と大野だけの王国…
秘密基地だ。
大野は老人の遺体を、秘密基地に隠そうと言っているのだった。
「そんな…でも…」
「いいからはやくしろよ!いつ人が来てもおかしくないって、言っているじゃないか」
有無を言わせぬ大野の口調だった。俺は反駁を飲み込み、言われるがままに遺体の両足を持ち上げた。
それまでにも大野の中には俺の理解が及ばないものがあることは薄々感じていたし、それらに羨望や苛立ちを覚えたことはあった。しかし恐怖を抱いたのはこの時がはじめてだった。
小柄な老人とはいえ、大人の遺体を小学生2人で運ぶのは困難を極めた。まして運びながら進んでいくのは、唯でさえ通りづらい"獣道"の斜面である。両手が塞がっているので満足に枝葉をかき分けることもできないし、辺りもどんどん暗くなっていく。途中で何度もバランスを崩して転び、何度も斜面をずり落ちた。俺も大野も、擦り傷と泥と汗に塗れながらも、その度に遺体を改めて持ち上げては、無我夢中で進んだ。
ようやく秘密基地の入り口に辿り着いた時には、すっかり闇が支配する時間になっていた。それでもずっと暗がりにいたので目が慣れ、辺りの様子がぼんやりと把握できた。ワタヌキの遺体に目をやるとその所々、服やむき出しの腕に泥が飛び跳ねているのがわかった。
「おい、もっと奥に運ぼう。こんな入り口近くに置いてたら、万が一ってこともある」
俺と同じように息を切らしながらも、尚も大野は冷静だった。
土の上に敷かれたシートを踏みつけ、その上に乱雑に散らかった漫画本やゲーム機、CDプレーヤーなどの脇をすり抜けながら、俺達は洞窟の最奥まで遺体を運んだ。奥に行くほど闇は一層濃くなり、視界は完全に閉ざされた。やがてシートが途切れ、足裏に土の感触が蘇る。
奥の壁ギリギリの土の上に遺体を安置する、というよりも投げ捨てると、俺も大野もそれ以上注意を向けることなく追われるように洞窟を出た。さっきまで何処よりも安らげる場所であったはずの"秘密基地"が、嘘のように余所余所しく感じられた。
俺たちはそのまま帰路についた。もう何をする気力もなかった。
「なあ、本当にこれでよかったのかな…」
真っ暗な山道を麓へ向かって並んで歩きながら、俺は大野にそう問いかけた。問いかけずには、いられなかった。
俺達は先生とワタヌキの背後にあった事情を、完全に把握したわけではない。おそらく噂に聞くワタヌキの発作が再び起こり何かの拍子で先生に目をつけた、ところが先生は本当に後ろ暗い秘密を抱えており、調べ上げたワタヌキは神様―道祖神の前で問い詰めるため今日あの場所に呼び寄せた…言い争いを漏れ聞いてあらかたの事情は想像できたが、あくまで想像でしかない。よもや先生本人に確認を取るわけにもいかない。あやふやな認識のまま、大それた介入をしてしまったのではないか。足場の不確かさが、一層不安を煽った。
「こうするしか、なかっただろう」
「そうかな…」
「じゃあなにか、あのまま死体を放っておいて、先生が捕まってもよかったっていうのか」
「そうじゃないけど…」
「なんだよ、はっきりしないな」
うんざりしたように、大野は1つ息を吐いた。それからこともなげに、こう続けた。
「ワタヌキのじいさんは相当な歳だ、ヨボヨボだしどうせもう何年も生きなかっただろう。それを少し早めただけで、先生がこれからの人生を棒に振るなんてやっぱり馬鹿馬鹿しいよ。なあ、そう思わないか?」
この言葉は狂気ではなく、幼いゆえの浅慮が言わせたものだったのだろう。
そう、信じたい。




