4.薄闇の中でごくわずかに上半身を揺らしていた。
「おい宮代、起きろ」
俺を呼ぶ大野の声で、目が覚めた。瞼を開くと上から俺をのぞき込む大野の顔が、暗がりの中でぼんやりと見えた。
洞窟の入り口に眼をやると、さっきまで橙色に輝いていた外の景色には、いつの間にか薄紫の帳が降りていた。
「やべ、もう帰る時間か」
俺は慌てて起き上がった。夕食に遅れたら、母親から大目玉を喰らってしまう。
「それどころじゃないぞ。ちょっと、こっちに来い」
大野は囁くような小声でそう告げると、入り口へと向かい俺を手招きした。その態度からは妙に切迫したものを感じた。訝りながら、後に続いた。
洞窟を出るとすぐ、大野は入り口前の葉叢を指さした。“まるでマジックミラーのような”、あの葉叢だ。促されるままに近づいてみると、緑の隙間から下の山道の様子がよくみえた。外は既に薄暗かったが、視界に不自由する程ではなかった。
山道の脇、例の道祖神を祭る祠の真ん前で人影が2つ、向かい合っていた。その一方の姿を確認して、俺は目を見張った。星崎先生だった。俺たちの方に、はすかいに顔を向けて立っていた。先ほど廊下で会った時と同じ、白いブラウスに黒いスカートという服装だった。首のスカーフも確認できた。
対面するもう一人は男の老人だった。こちらはストライプの入ったポロシャツにチノパンという出で立ち。遠目にも小柄で骨ばっているのがわかり、大分歳が行っているように思えた。斜め後ろからの姿しか見えなかったが、薄い白髪に囲まれた頭の頂が見事に禿げ上がっていた。河童みたいだ、と咄嗟に思った。
「なあ、あいつワタヌキじゃないか」
大野が先生と向かい合った老人を指さしながら囁いた。言われてみれば、どうもそうらしかった。
ワタヌキというのはこの界隈では悪い意味で有名な老人だった。以前から町内を徘徊しては、ごみを捨てたり地べたに座ったりする人間を見つけると絡んで怒鳴り散らすという行為を繰り返していた。俺も以前ガムの殻を道端に捨てた処を見つかり、「何してんだこのガキ!」と突然怒鳴られたことがある。あの時は心底驚いた。
そこまでだったら多少行き過ぎの感はあるものの“お節介で口うるさい老人”の域を出なかっただろうが、この年の初め頃から近所の住人を尾行したり、他人の家の中に盗聴器を仕掛けたりといった奇行が徐々に目立ち始める。町内でたちまち悪評は広まり、この時点で少なくとも既に2度、警察沙汰にもなっていたようだ。俺も母親が父親に話しかけているのを横で聞いていて、これらの顛末を知った。
ワタヌキが尾行したり盗聴したりするのは、彼自身が気に食わなかったり怪しく思ったりした人物だったということだ。「あんな奴らは裏で禄でもないことをしているに決まってる、お前らが満足に仕事をしねえから俺みたいな善良な市民があいつらの悪事をあばかなきゃなんねえんだ!」と自分を連行する警察官に巻くし立てるのを、近所の住人が耳にしたとか。そこまで行くと、誇大妄想というしかない。
祠前の2人は何やら言い争っていた。というか、老人が一方的に星崎先生を攻め立てているようだった。距離はあったが、声は割合はっきり聞こえた。
最初はワタヌキが先生に対してあらぬ難癖をつけているのかと思った。既に書いた通り、あの老人の誇大妄想で迷惑を被っている人間は何人もいるのだ。しかしそれにしては様子がおかしかった。そもそも何故、星崎先生がワタヌキなんかとこんな山中で余人を交えずに会っているのか。
老人に強い口調で語りかけられる度、星崎先生は怯えたように身をすくめていた。それは奇妙な非現実感を伴った光景だった。俺が知る星崎先生は、いつも明るく颯爽とした大人の女性だった
隣にちらりと目をやると、大野も戸惑ったように斜面下の2人に視線を落としている。口を真一文字に閉じていた。大野が俺を起こしてここに呼んだ理由が分かった気がした。この居心地の悪さは、1人きりで耐えられるものではない。かと言って今さら見なかったことにしてこの場を去るには、下の2人が醸し出す雰囲気は剣呑過ぎた。
老人が、手に持っていた何かを前方に突き出した。その先にいた先生が、びくっと身を震わせるのがわかった。
「あんたがあの男から受け取った処は、こうしてちゃんと写真に撮ってるんだ。動かざる証拠ってやつだ、言い逃れはできねえぞ。神様の前で白状しろ。そのためにここまで呼んだんだ」
“神様”というのは道祖神のことらしい。
「…」
「だいぶ前からあんたがあの男と隠れて会ってるのは気づいとった。てっきり浮気でもしてんのかと思って調べてみたら、まさか売人からクスリを買ってるたあ、たまげたなあ」
「え」と驚愕の声をあげたのは、大野だった。横目で見ると、慌てて口を塞いでいた。
俺はといえば、ここで出た“クスリ”という言葉が何を意味するのか見当がつかず、本気で首を傾げていた。後で大野からその隠語が示す意味を説明されて仰天したのだから、思えば能天気な子供だった。
幸い、大野の漏らした声は下の二人には気づかれなかったらしい。
「あの男があんたの学生時代の同級生だってことはもう調べがついてんだ。卒業してからもずっと付き合いがあったのか?」
「…いいえ」
「じゃあいつ頃、あんたの前にまた姿を現したんだ。正直にいえ」
老人の声は次第に威圧的になっていった。まるで容疑者を尋問する刑事のような調子で、当人も悦に入っているのがありありとわかった。
「…3年前、突然家を訪ねてきたんです。驚きました。高校時代だって、別に親しい間柄でもなかったのに」
その先生の応えを聞いて、胸の中に氷のような冷たさが広がった。2人の会話をはっきりとは理解できなかったが、先生がワタヌキの言い分を認めたのは明らかだった。
先生は問われるままに話し始めた。相手の勢いに飲まれ、抵抗する気力もないようだった。場の精神的優位を、完全に老人に握られていた。
「彼は自分が麻薬の売人になったと告げ、私に買わないかと持ち掛けてきました。驚いたし、もちろん断りました。麻薬なんてとんでもない、と」
「しかし実際、あんたは手を出した。今でも続けてるんだろ?」
「…あの男はそれから、繰り返し私の前に姿を現すようになりました。断っても断っても、自分の商品を勧めてきたのです。警察に通報しようかとも思ったけど、バックに暴力団がいることを度々示唆され、怖くてできませんでした。「そんな大げさなものじゃないよ、少し元気になるだけだ。栄養剤と変わらないよ」と何度も囁かれるうち、徐々にそんなものかという気がしてきて、じゃあ試しに一度だけと…」
「そんな口車に乗せられたってのか?馬鹿が!あんた、教師なんだろう?」
「し、仕方なかったんです!」
ふいに先生の声が裏返った。それまで俯けていた顔をあげ、訴えかけるように老人に向かって身を乗り出した。
「当時、私は心身ともにぼろぼろでした。子育てが難しい時期に差し掛かり、担任するクラスでも問題が起きて父兄達から責任を追及され…そんな状況で、あの男の誘いは悪魔の囁きでした。藁にも縋る思いだったんです。実際、薬を打つとすっと身体が軽くなりました。気力が沸いて、鬱屈とした心が晴れたんです。そうして私は苦しい時期を乗り切ることができました。その内手元の残量がなくなると、全身が気だるくなって、どうしてもまた欲しくなって…」
「また男に、薬を要求したわけか」
「はい…」
応える星崎先生の声はとてもか細く、頼りなげだった。
これは大分後になって思いついたことだが、ここに出てくる先生に麻薬を売りつけた元同級生の男というのは、他の学生時代の知人か誰かから先生の当時の苦境を噂で聞いて、与しやすしと判断して近づいたのではないだろうか。先生もそのような苦しい時期、周囲に愚痴のひとつもこぼしていただろう。男は商売柄、己の甘言によろめきやすい、精神の弱っている人間を見つけ出す嗅覚は発達していたはずである。当時の先生が直面していた状況というのは現代社会で決して珍しい事例ではないだろうし、案外その道の売人の間では“絶好のカモ”として、モデルケースにでもなっていたのかもしれない…すべて、根拠のない憶測でしかないが。
「それを繰り返すうちに、どんどん泥沼に嵌るように、抜け出せなくなりました…でも、じゃあ、どうしたらよかったんですか?あの薬がなかったら、私は3年前に間違いなく壊れていたんですよ!やむを得なかったんです、子供や家庭を守っていくためには、他に道はなかったんです!」
俺は思わず下で繰り広げられている光景から目を背けた。毅然として理知的で、自分の憧れの対象だった星崎先生が、必死に自己弁護する姿をみるのは幼心に辛かった。
「そんな言い分が、通るわけねえだろう!」
老人の返答はにべもなかった。
「麻薬なんぞに手を出す人間は、大方そんなもんだ。自分の弱さに負けた落伍者だ。そういう奴らを放置していたら、この国がどんどんダメになっていっちまう。周りに累を及ぼす前に、腐ったリンゴは取り除かなけりゃならん」
そう言うとワタヌキは踵を返した。それまで見えていた後頭部が転回し、老人の顔が目に飛び込んでくる。記憶にあるとおり、薄く貧相な面立ちをしていた。やせこけた頬と半ば瞼が閉じている眠そうな目が、いかにも陰険そうだった。
「ま、待ってください、ワタヌキさん!」
先生が悲鳴に近い声をかけた。
「一体、どこへ行くつもりですか」
「決まってんだろ。あんたがヤク漬けだとはっきりしたからには、警察に報告するんだよ」
「それだけは勘弁してください。私が捕まったりしたら、当然学校も辞めさせられますし、家族にもどう思われるか」
「自分で蒔いた種だろうが。諦めるこった」
「そんな…ワタヌキさんには、関係ないことじゃありませんか」
「関係あるなしの話じゃねえ!俺は世の中のどんな些細な悪も、許せねえタチなんだよ。お前らみたいな心根の腐った連中は、見過ごしちゃおけねえ」
繰り返すようだが、当時の俺は安直な子供だった。テレビ番組の中で悪者を懲らしめる“正義のヒーロー”は全面的に正しいのだと、心のどこかで信じている節があった。
しかしこの時、先生への身びいきも手伝ったのだろうが、“正義”を振りかざして一方的に先生を詰るワタヌキの姿にははっきり嫌悪感を覚えた。
「お願いです、もう少し話を…」
「ええい、しつこい!」
尚も取りすがろうとする星崎先生を、ワタヌキは片手で乱暴に振り払った。先生は風に飛ばされた木の葉のようによろめき、地面に倒れ込んだ。うつぶせになった先生に、ワタヌキは一瞥をくれただけだった。「ふん!」と鼻で笑うと、顔の向きを戻して山道の出口へと歩を進め始めた。
俺は我知らず身を乗り出した。もし隣にいた大野に腕を掴まれていなければ、斜面を滑り落ちていってワタヌキに飛びかかってやりたかった。俺を止めた大野の腕も震えていた。衝動に必死に耐えているのがわかった。こんな時でも自制が働く大野に、腹立たしさを覚えた。
視界の隅で、星崎先生がゆっくり立ち上がった。無言だった。薄闇の中でごくわずかに上半身を揺らしていた。
先生が顔を上げた。その眼を見た時、背筋に電流が走った。何の感情も浮かんでいない眼だった。機械的、とでも表現すればいいのだろうか。普段生徒達に向けられる温もりの籠った眼差しの名残は欠けらもなく、急に先生が遠くなったように感じた。
その眼でじっと遠ざかっていくワタヌキの背中を見つめながら、先生は右手を自分の首まで持っていく。そこに巻いてあったスカーフを、片手で起用に外し、そのまま握りしめた。一連の動作は、ひどく緩慢に行われた。
静から動への変化は唐突だった。星崎先生はバネに弾かれたような勢いで、前方を行く老人に詰め寄った。ワタヌキに振り向く隙も与えず、手に持ったスカーフを相手の首に巻き付けると、後方でその両端を強く握り…思い切り締め上げた。
ワタヌキは瞬間、何が起きたか把握できないようだった。動きを止め、されるがままになっていた。わずかなタイムラグの後で1度大きく痙攣したかと思うと、身体を仰け反らせながらもがき始めた。両手で己の首を締め上げるスカーフの周りを掻きむしり、両足を繰り返し地面へと打ち付けた。
ワタヌキは男だったが、既に年老いて小柄だった。半袖の裾から覗く腕も肉が削げ落ち、如何にも非力そうだった。一方星崎先生は女性ながらも上背があり、身体能力も高かった。体育の授業や運動会などで度々その実力を披露し、校内で話題になっていた。
先生が満身の力を込めて締め上げるスカーフを、ワタヌキは振りほどくことができなかった。己の首をひっかいていた手の動きも次第に弱まり、やがて重力に抗うのをやめて垂れ下がる。老人の全身が弛緩し動かなくなっても、星崎先生はスカーフを締める手を休めなかった。
俺と大野は声もなくその光景を見ていた。先生を止めに入ろう、という発想は浮かばなかった。そこまで気が付く余裕はなかった。恐怖よりも先に非現実感に襲われ、頭の中が真っ白になった。
どれくらい経っただろうか。先生が唐突に、両手をスカーフから離した。ワタヌキの身体は首に先生のスカーフを巻き付けたまま、うつ伏せに土の上に倒れた。糸が切れた操り人形を連想させた。
起き上がらない老人を見下ろしたまま手で口を覆い、先生はガタガタと震え出した。薄闇の中でもそうと分かるほど、その顔は蒼白だった。まるではじめて事態に気付いた、と言わんばかりの反応だった。実際凶行の間は無我夢中で、自分の行動を把握していなかったのだろう。
先生はしばし茫然としていたが、やがて視線を巡らして周囲を伺うと、老人の傍らにしゃがみ込んで首からスカーフを外した。それをスーツの胸ポケットに押し込むと、よろめきながらもワタヌキが先ほど歩き去ろうとした方向、つまり山を降りる方向へと一目散に駆け出した。枝葉に呑まれて俺の視界から消えるまで、一度も後ろを振り返らなかった。
薄暗い山道に、突っ伏した老人だけが取り残された。




