ウメガサク
「良かったね」
リビングに自分の上擦った声が響くのを感じた。
“先生のおかげです。不登校から立ち直れたし、第一志望にも合格できた”
「真恵さんの実力だよ」
一年前、家を訪れて顔を合わせた時にこの生徒は全てを諦めたような寂しい目をしていた。
「本当に良く頑張ったね」
我知らずガラス戸に目を向けると、レースのカーテン越しにも庭の紅梅が昼近い陽射しを浴びて鮮やかに咲き誇っている。
サクラサクならぬウメガサクの季節だ。
“明日の卒業式もよろしくお願いします”
スマホの液晶から弾んだ声が告げると、こちらの返事を待たずに切れた。
――ゴトン、ゴトン、ゴツッ……。
廊下の階段を降りてくるどこか無造作にぶつける風な足音が響いてくる。
こちらは反射的にソファから立ち上がった。
*****
「今、お昼にするから」
「モエたちと食べることにした」
真っ直ぐな黒髪をポニーテールに結い群青のダッフルコートを着た娘の愛永は服装のせいでいっそう蒼白く見える顔をことさら無表情にして続ける。
「サキが第一志望落ちてショック受けてるから皆で集まろうって」
そう言われればこちらとしても引き留められない。
「遅くならないようにしなさいよ」
返事もせずにポニーテールを微かに揺らしながらコートの後ろ姿は玄関に向かう。
「お母さんの生徒があんたと同じとこに合格したよ。学部も一緒」
我が娘の方は指定校推薦で年明け前には進学が決まっていた。
つと玄関のドアに手を掛けた後ろ姿のポニーテールの震動が止まる。
「私は今まで会ったことないし、関係ないよ」
開いたドアからは梅の芳しい香りを含みつつまだひやりとした風が流れ込んできた。
*****
一人だけの昼食なので焼いたトーストにバターを塗り、ティーバッグで淹れたアールグレイを啜りながら息を吐く。
全く教員なんて因果な職業だ。
他所の子には感謝されて、我が子にはそっぽを向かれる。
明日の卒業式も担任として受け持ちの生徒たちを送り出す側だから、娘の卒業式には出られない。
そんなことも愛永の中では母親を疎む一因になっているのだろう。
これでも夫と離婚してからあの子のために必死に働いてきたつもりだった。
後ろ指をさされるような真似をしたことはない。
受け持つ子たちにも誠意を持って接してきたつもりだ。
愛永も表面的には非行に走ることはなく成績はいつも優秀だった。
大学にもいち早く指定校推薦で合格した。
だが、ここ一年は同じ家の中にいても母親とはまともに目も合わせず、話しても素っ気ないのだ。
*****
とにかく明日は卒業式だから、自分のスーツよりも先に娘の制服にアイロンを掛けておこう。
部屋に入ると、うっすら愛永がいつも着けているヘアスプレーの匂いがした。
高校に入ってからそんな物を使うようになったと思い出す。
不登校だった真恵さんの方は天然パーマ気味な栗色の髪をショートカットにしており、近寄るとほんのり勿忘草の石鹸じみた香りがした。
二人がこれから大学で顔を合わせても折り合うことはないのだろうか。
――字は違うけど同じ「まなえ」という子が受け持ちのクラスにいるよ。
そう話したから少なくとも娘には判るはずだ。
*****
そろそろ帰ってきても良い頃だ。
愛永の好きなコーンクリームシチューを鍋の中でかき混ぜながら、キッチン窓の曇りガラスが藍色に染まっているのを確かめる。
他の子たちだってまだ受験勉強する子もいるだろうし、夕飯まで一緒ということはないだろう。
さすがにもう連絡しようか。
そう思った瞬間、灯りの消えたダイニングのテーブルに置いたスマートフォンが急に電話の着信メロディを奏で始めた。(了)
*monogatary.comのお題「卒業式前夜」からの創作です。




