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風雨一過

「そう、私の方が後から出てきた人間だというのね」


 先に妻として選ばれたのは、私のはずなのに。

 十三年前、カルフの教会で、皆の笑顔に祝福されて。


「でも、お互いに隠し事はしないと、そう約束したのは、貴方ではなかったかしら?」


 受話器からは風が通気孔を吹き抜けるような、ざらついた音だけが聞こえてくる。

 切られる前に、こちらから受話器を置いた。


 どっと疲れが襲ってくる。

 ただ、受話器を持って話しただけなのに。


 何のことはない。

 日本に帰ったあの人には、他に好きな人が出来た。

 というより、昔の恋人とよりを戻したのだ。

 多分、あの人が見せてくれたアルバムにあった、大学時代のサークル仲間たちで撮った写真に映っていた、日本人形みたいな顔の女だ。


 あの人と同い年ならもう四十にはなるはずだし、少なくとも三十五歳の私よりは年上だ。

 でも、あの人はずっと独身で働いていたその女と一緒になりたいのだと言う。

 ベルリンのこの家で待つ、私と息子を捨てて。


 自分と出会う前に恋人だった女性、か。

 知り合ったばかりの若い女にのぼせ上がったとかいう方がまだ良かった。

 考えれば考えるほど、一緒に暮らす内に積もっていった不満から他の女性に傾いたのではなく、そもそもあの人の中に私は希薄な影しか落としていなかった気がしてくる。


 出会ってから、十四年と五ヶ月もの間。


――君が僕の救いなんだ。


 まだ子供だった私は、異国から来たあなたの過去を問い質したりはしなかったけれど、あなたはそう言ってくれた。

 日本人のあなたに引き合わせた時、父は強張った面持ちで眺めていたし、あなたのご両親は赤茶色の髪に青緑の目をした私に対しては腫れ物に触るようだったけれど、二人の結び付きを信じたからこそ、あなたを伴侶にすることに迷いはなかった。


 十一年前、あなたにそっくりな黒い髪と瞳を持つ男の子が生まれて嬉しかった。


――これで僕も父親になれたよ。


 小さな息子を抱いて微笑んでいたあなたの言葉は本心ではなかったの?


 生きていれば九歳になるはずの娘は、お腹の中で死んでしまった。

 実は誤診で産声を上げて欲しいと思いながら陣痛促進剤を打って痛い思いをしながらその子を産んだ。

 泣きも動きもしない冷たい赤ちゃんを抱いて、私は声を上げて泣いた。


 全て、あなたは側で見て知っていたはずなのに。


 五年前、あなたが当て逃げで右腕を折った時だって、まるで小さな子にするみたいに着替えや食事を手伝ったじゃないの。


 全部、私が会ったこともない女と最終的に結ばれるまでの回り道だったとでもいうのか。


「ふざけるな」


 どうしてこんなに力のない声しか出ないんだろう。

 恨みや怒りが燃え上がるのではなく、心をどんどん削ぎ落としていくみたい。


 雨に濡れた路地の匂いが音もなく流れ込んできて、正面の出窓を開けたままにしていたことに今更ながら気付く。

 そちらを見やると、半ば開かれた窓から吹き込む風がレースのカーテンを揺らしていた。

 まるで勢いを増していくブランコのように、雪模様を織り込んだ白いレースの揺れ幅が大きくなっていく。

 あの人が日本に帰る前に買って窓辺に置いた鉢植えのゼラニウムが、真っ赤な花びらをはらりと落とした。


――母校の教授が入院している間だけの代役だよ。


 あれから、まだ半年しか経ってない。

 あなただって、空港で私たちに手を振って笑っていた時には、この家に戻るつもりだったんでしょう?


「ママ」


 振り向くと、リビングの入り口に、息子が立っていた。

 学校用の鞄を肩に掛け、まるで敬礼でもするように背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま。

 頬をすっと通り過ぎる冷たい感触から、私は自分が泣いていたことに気付いた。


「帰ったよ」


 バタンと鞄が床に転げ落ちる音がしたかと思うと、私たちはどちらからともなく抱き合っていた。


 あの人が帰らなくても、私はこの子と幸せにならなければいけない。


 開け放された窓からは、風がますます激しく吹き込み、雨音が強さを増して響いてくる。(了)

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