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赤目のバニー

「よし、出来上がり、と」


ヘアーバンドを着けた私は鏡に呟いた。


黒のボンデージに網タイツ、首にはサテンの黒リボンを結んで、しかし、頭にだけは何故か白く長い耳を生やしたバニーガールが、真っ赤なルージュを引いた唇から白い歯を覗かせてか鏡の中で笑い返す。


「今日も気合で乗り切るわよ」


香水と化粧品の匂いが立ち込める控え室を抜けて、フロアに出ると、酒とタバコの臭気を縫って流行のビートが耳を打ち出した。


金曜の夜だから、週で一番混み合う時刻だ。


外は名月の晩だというのに、こんな狭苦しいウサギ小屋みたいなクラブでぶつかり合いながら踊って楽しいのだろうか。


「うさぎちゃん、注文お願い」


喧しい音楽としゃべり声の中でも、自分を呼ぶ声はちゃんと拾えるのが不思議だ。

振り向いた方角では、三人の男が丸テーブルに寄りかかっていた。

これは、ナンパ目的だな。

手前にいる二人のそわそわした挙動からそう察する。

別に珍しくもない。

バニーガールが給仕する店に来るのは大体そんな男だ。

もっとも、店に踊りに来る女の方でも半ばそんなことを期待しているのだろうけれど。


「ジンフィズをグラスで二つ、バイオレットフィズをグラスで一つ、以上でよろしいでしょうか」


笑顔ではっきり酒の種類を確かめるが、どれも持ち運ぶだけで一度も飲んだことはない。


「それでお願い」


笑顔で一礼して去りかけたところで、微かな呼び掛けが私を捉えた。


「あの……」


ギクリとしたのを気取けどられないように笑顔のまま振り向く。


今しがた注文を受けたばかりのテーブルの奥で、ずっと口を閉じていたグレーのハイネックの彼が私を見ていた。


もしかすると、グレーではなく紫の服かもしれないが、薄明かりの下では定かでない。


「ご注文ですか?」


こんな淫靡な薄暗がりの中でも、この人の切れ長の目は変わらず涼しく浮かび上がるのだ。

感心する一方で、次の言葉を聴くのが怖い。


「いや、何でもない」


彼は急にはにかんだ風に笑った。

まるで、当人が照れ笑いすれば周囲も流してくれる程度のミスを犯した人のように。


「大丈夫」


子供がバイバイするように、開いた手をちょっと大げさなくらい左右に振る。

私は業務用の笑顔を貼り付けたまま再び一礼すると、そうと知れない程度にピンヒールの足を急がせる。


「違うよ」


数歩行ったところで、照れ笑いを含んだ彼の声が背中に突き刺さる。

こんなに騒がしいのに、あの人の言葉だけは不思議と聞き分けられるのだ。


*****

スタッフ用の通用門を出ると、クリーム色が勝った白く真ん丸い月が中途半端な高さの所まで下がって来ていた。


そういえば、今日は名月だった。

遠い昔のことのように思い出す。

ふっと息を吐いて歩き出すと、湿ったアスファルトに酒とタバコの混ざった匂いが通り過ぎた。

バニーの衣装を脱いでも、汚れた香りは髪や肌に染み付いているのだ。


通りにはちらほら人影が見えるが、この時間帯に歩いているのは酔客ではなく、大体、店じまいした後のスタッフだ。

皆、足取りに酒が入っていない代わりに、どこか醒めて白けた顔つきをしている。


――あの人、バイオレットフィズが好きだったんだな。


アパートまでのタクシー代がワンメーターになる交差点まで深夜の街を早足で歩きながら、思い返す。


注文を受けたのは私だったけれど、飲み物を運んだのは別の子だから確かめようがないが、何となく他の二人とは違う物を頼んだ気がした。


いつもトレイに乗せて運ぶだけだけれど、透き通った紫色の綺麗なお酒だ。


夜半を過ぎたけれど、まだ夜明けには遠い空に浮かぶ月も、周囲にうっすらと紫のシフォンを引いたようにおぼろげに見えた。


――あの後、結局、どうしたんだろう。


人がごった返して注文に追われる中、もう一度、同じテーブルを確かめた時には三人とも姿を消していた。


好みの女を探り当てて帰ったのか、それとも別の店にでも飲み直しに行ったのか。


あの人は普段キャンパスで一緒にいる友達とは全然違う男たちといた。


私だってこんなアルバイトをしているわけだから、彼が大学で見せている顔と全く別の面を持っていても不思議はない。


だが、見ず知らずの女の子に声を掛けて、その場限りの関係を持つような付き合いを平気で繰り返す彼を想像すると、胸に何かが突き刺さる。


むろん、犯罪を働いたのでもない限り、本人たちの自由だし、そもそも、彼がそんな行動を取っていたところで、私は一対一で咎め立て出来る立場にはいない。


あの人からすれば、学校で顔を合わせる以外は、二、三日に一回、授業や課題の用向きでメールする程度の相手なんだから。


今日は早々にタクシーが現れた。

特に急がない時ほど簡単に捕まる。


*****

「きっと、分からないよね」


黒のコンタクトを外して、はしばみ色の瞳に戻った鏡に映った自分に嘯く。


シャワーで髪も顔も念入りに洗い流したはずだが、洗面所には酒とタバコの残り香がまだ漂っていた。


イギリス人だったパパが栗色の髪に灰色の目をしていたせいで、私の髪や目も日本人の平均からすると色素が薄い。

羨まれることもあるけれど、集合写真でいつも一人だけ赤い目で映り込んでいたりするのはあまり気分のいいものではない。


だから、バニーになる時だけ、ピーターラビットみたいな黒目に化けることにしている。


目が痛くなるけれど、奨学金だけでは来年の留学費用は賄えないし、あと二ヶ月で来期の授業料まで貯めなくてはいけないことを考えると、背に腹は変えられない。


「バニー(bunny)」は子供が使う「うさちゃん」といった呼び方で、「ラビット(rabbit)」が正式な「うさぎ」の意味だと教えてくれたのはママだったが、その話を聞いた時にパパはもう私たちの傍にいなかった。


苦労して大学まで入れてくれたママも、もう写真の中にしかいない。


ベッドに倒れ込んで灯りを消すと、カーテン越しにうっすら水色の明かりが差し込んでくる。


餅をつくうさぎもそろそろ休む時間だと思いながら、目を閉じる。


携帯電話がバッグの中でメールか電話の着信を伝える振動音を遠く微かに聞きながら、眠りに落ちる瞬間、紫のヴェールを通して切れ長の目がはにかんでこちらに笑いかけた。


「違うよ」(了)

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