第六話 ケレスター商会(下)
長くてすいません。
「…………なっ」
ゴーチエ・ボドワンは驚愕の声を漏らした。その声は小さく掠れていた。驚きが小さかったのではない。その逆だ。余りに埒外な出来事を目の前にして声を出す事すら出来なかった。
ゴーチエの視線の先には、ケレスター商会の正門がある。完璧に閉じられ、その周りには遠距離攻撃を修めた守備兵たちが守る正門が。
――その筈だ。
だが何度見ても事実は変わらない。
あれほど立派だった正門は、あの黒い甲冑の一撃で完膚無きまでに破壊されていた。今ではその奥にある商会本部の姿までがはっきりと見える。そしてその前には、主に長槍を装備した守備兵たちが浮き足立ちつつも立ち塞がっていた。
気持ちは痛いほどに判る。
要塞仕様となっている正門を力尽くで吹き飛ばすなんて、化け物というのも生易しい。
化け物揃いの魔都ロートでさえ、一体同じ事が可能な人間が何人いるか。ましてやこんな商業都市に――。
ゴーチエは背筋が震えるのを感じた。
不吉な予感は治まっていない。取り返しがつかない事になるのではと云う恐怖は今も感じている。
だがそれとは別に、振るわれた『力』そのものに、ゴーチエは不思議な感動を覚えていた。
視線の先では、商会の守備隊が槍衾を調えている。よく訓練されている。練度に関しては騎士団よりも上かも知れない。
――だが無駄だ。
優秀な兵士が教本通りに動いたところで、規格外と云う言葉すら生易しい化け物を止められる訳がない。
案の定、あっさりと躱される。
黒い甲冑の右手には先程と同じ紅い輝きがあった。先程と違うのはそれが不定形ながら剣の形をしている事だ。黒い甲冑が右手を振るう。紅い輝線がまるで鞭のような軌跡を描き、守備兵5人を切断した。
黒い甲冑は気にした風もなく、先へ進んでいく。時折突っ掛かってくる相手を血祭りに上げ、時には無視し、進んでいく。そのペースはそこまで速いとは言えない。だが殆ど停滞しない。
それらは全て、その卓越した戦闘能力によるものだ。
ゴーチエ達にはとても真似できないだろう。
「……領主様の秘密兵器って、まさか本当なのか?」
隣でロイドが呆然と、声を漏らす。
辺りでは、混乱の声があちこちから聞こえてくる。商会から放たれた攻撃の音に反応したものだろう。本来なら攻撃が終われば事態は収束する。だが正門が破壊されているという事実がある。
……どうする?
視線をこの部隊を率いる上官の方へと向ける。幸いにも少し前にあの黒甲冑と対峙していた所為で、目の届く範囲に上官はいた。
地位としては大隊長。ゴーチエの二つほど上になる。まあ尤も、出来たばかりの騎士団なので上下関係や権限などがそれほど固まっている訳ではないが……。
だからだろうか、最高責任者である大隊長はどこか困惑した様子だった。それと同格のもう一人の大隊長も同じようなものだ。
「ちっ!」
上のていたらくに思わず舌打ちが漏れる。聞こえたら面白くない事になっただろう。だがそうはならなかった。
叩き込まれた魔導が爆音を上げ、ゴーチエの舌打ちを掻き消したからだ。続けて二度、三度と爆音が響く。
やがて辺りは土埃に覆われた。視界が極端に悪くなり、少し遠くの人間がまるで影法師のようにしか見えない。
そんな中、声が響いた。
「反撃しろっ!」
誰が言ったかは判らない。だが女の声だ。透き通るような美しい声だが、張りがあり威厳に満ちていた。
……誰の声だ?
聞いた事のない声だ。一度聞けば忘れないだろう。それだけ存在感のある声だった。
だからだろう、その声に応じて一部の部隊が動き始める。
……まずい。
ゴーチエは歯噛みした。自分もそうだが、指揮官クラスの人間が此処に集まりすぎている。実際の部下の傍に指揮官がいない部隊が多いのだ。これでは抑えきる事が出来ない。それは即ち軍としての統制が利かないという事だ。
「おいっ、さっさと戻るぞ!」
隣のロイドの肩を強く掴みがなり立てる。ロイドはまだ呆然とした状態から立ち直っていないようだった。
「お、おう」
「さっさとしろ! ヤバイぞっ!」
そんなロイドにもう一度だけ怒鳴ると、ゴーチエは駆け出した。視界に噴煙が舞っていた。
「全軍、突撃――ッ!」
背中から、先程と同じ美しく張りのある声が聞こえてきた。
ケレスター商会総帥エヴァン・バーグソンは、中央司令室となった執務室で苦々しげに歯噛みした。
油断があった訳ではない。計算が間違っていたとは思わない。
だがレッス砦の崩壊以来、予想外の事ばかりが起こる。
何かを計り間違いしていた訳ではない。何か知らないファクターがこの盤面には存在するのだ。
だがそれが何かが判らない。
「……くっ!」
今現在の事もそうだ。
商会本部にほぼ全ての戦闘員を詰めて、籠城。
騎士団と都市警察が整備されてきたと云っても、レッス砦のアンデッド騒ぎがある。どうしても主力はそちらに注力しなければならない。ならば籠城したこの戦力を打ち破る戦力は都市政府には存在しない。どんなに頑張っても長期戦になるだろう。ならばその間に他のルートを使って政治的、経済的に圧力を掛けていく。同時に他の商会とも同盟を結び、都市政府に対抗する。
これがエヴァンの策だった。今でも間違いだったとは思わない。
だがそれが、あの黒い甲冑を着た男の所為で台無しになってしまった。
今現在、正門付近では騎士団と商会の防衛隊が真っ向からぶつかり合っている。門などの障害物が無いのだ。条件は互角。必然的に死者も多くでるだろう。
「何を考えているっ。アキム・バラネフ!」
エヴァンは呻くように叫んだ。
「……まさか本気で戦争をする気か」
まさに、まさか、だ。
アキムを堅実な打ち手だと認識していたエヴァンにとって、今度の事は驚愕というだけでは済まない。
だが現実は変わらない。
籠城状態だった商会本部に、コーネスライト騎士団は真っ向から押し入ってきた。充分すぎるほどの宣戦布告だ。
「いいだろう」
ならば、引くなど有り得ない。
「そちらがその気なら、幾らでも高く買ってやろう」
それが商会としての判断だったし、エヴァン・バーグソンとしての生き様だった。
「おいっ!」
エヴァンが一声掛けると、腹心の部下が駆け寄ってくる。
その部下に対して口早に指示を伝える。確かに予想外の事はあった。不意打ちも受けた。だが盤面が決まった訳ではない。ならば立ち止まっている暇などない。
「まず正門へは通常戦力を回す。飛び道具と槍衾を中心に組み立てろ。予備兵力も忘れるな。それで暫く保つだろう。ただ連絡は密にさせておけよ。正門以外の外周部は何時も通りに巡回をやっておけ。騎兵の準備は出来ているな?」
「ええ」
「よし。それは敵が正門以外から進出してきた時のための予備兵力だ。待機させておけ」
「……侵入した黒い甲冑を着た男はどうしますか?」
「まずは突っ掛けて、威力偵察しろ。一撃で正門をぶち破る奴だ。充分に注意しろ。そしてその後に仕留めろ。出し惜しみは無用だ。相手を人だと思うな。罠を使って、飛び道具で弱らせ、集団で仕留めろ。繰り返すが、相手は化け物だ。絶対に人だと思うな。戦闘ではなく、これは狩りだ。――忘れるなよ」
「はっ」
配下の男はエヴァンの指示を聞くと一礼をして去っていった。
具体的な指示に関しては心配していなかった。
全体的な方針を伝えれば、まず万全に調えられる男だ。
「後は、あいつを仕留められるかどうかか」
エヴァンも数多くの腕利きを見たが、あの正門を真っ正面から破壊できるような存在は見た事がなかった。だがその事に関してはそこまで心配していなかった。魔具か何かで自分の力をブーストする方法は多い。威力そのものが実戦でそこまで役に立たない事はエヴァンも十分に知っていた。
そう考えれば、盤面は不利とは言えない。
格上を仕留めるのならば、正門前にいるのを仕留めるよりも、罠などが設置できる本部建物内に引き摺り込んで仕留める方が遥かに楽だ。
「さて、どうなるか」
エヴァンは椅子に背を預け、事態の推移について思考を巡らせた。
――コード・オブ・カドゥケウス。
レイラ・マンチェスという『術具』を装備する、タリスの切り札の一つだ。
そもそもレイラ・マンチェスはタリスの最高傑作の屍鬼である。その機能は死霊や屍鬼を吸収し、濾過し、自らの物とする事。そしてそれをタリスが扱えるように調整する事。
その二つが主な機能だ。
それ故にレイラは単独では戦闘者としてのレベルが高いとは言えない。単純な腕力や魔力というものは高いが、それを扱う技能という意味では極めて限られたものしか持っていないのだ。
なぜそんな面倒な事をしたのか?
それは死霊という存在の扱いの難しさにその理由がある。
タリス程の超一流の死霊術士にしたところで、死霊を使い自らの力を嵩上げするような事は出来ない。死霊の意思とはそれだけ危険であり、下手に自らに取り込んでしまえば、あっさりと自分という存在を奪われる。
だが逆に、扱えればこれほど強いものは無い。
そもそもこの世界において人が超常の力を振るえるのは、魔素を吸収しているからだ。逆に言ってしまえば、魔素を吸収する事ができ、なおかつそれを扱えるスキルがあれば、位階を高めるのに魔物を殺す必要など何処にもない。ただ魔物を殺す事が最も効率が良いからこそ広く行われているに過ぎない。
だがこの時、魔物を殺した人間は、魔物が殺される事によって発生した魔素の極一部しか吸収しない。いや、出来ない。
これは殆ど本能的にブロックが掛かる所為だが、更にその理由は危険だからだ。
魔物が、と云うよりも生き物が死んだ後に発生する純度の高い魔素。それは意思を持ち、記憶を持ち、そして恨みを持つ。それを吸収する事は自らをその意思と同化し、その記憶を受け継ぎ、その恨みを感じるという事に他ならない。
そんな事を繰り返せば、元の人格などあっさりと塗り潰されてしまうだろう。
それ故に人は、生き物が死んだ後に発生する純度の高い魔素――死霊を直接吸収する事などしない。そこから極一部、自分で消化できる分だけを濾過し、死霊の意思が殆ど消えたものを吸収する。
レイラ・マンチェスとは、そんな死霊を吸収し、タリスが利用できる形に蒸留する術式だ。
それ故に、コード・オブ・カドゥケウスを展開したタリスは、魂の浸蝕というリスクと引き換えに、桁外れの力を持つ超越者の中でも更に頭一つ飛び抜けた力を振るう事が可能となる。
――だからこそ、こんな場所で手こずる訳にはいかなかった。
黒い甲冑が音もなく駆ける。
タリス・マンチェスだ。
右手には紅く輝く変幻自在の武装――カドゥケウスを携えている。
「…………」
タリスは無言で前方を見遣った。
赤い絨毯が敷かれた巨大な階段を重装歩兵の一団が塞いでいる。その上の階の手摺りには射撃武器を装備した兵士達が、更には左の廊下からも続々と兵士の姿が現れる。
商会本部の見取り図は残念ながら入手できなかった。だからある程度虱潰しにするしかない。まあ、ケレスター商会と騎士団が本格的に衝突した事で最低限の目的は達した。
後は、ひたすらに蹂躙するだけだ。
そしてその為の目星はつけている。見取り図そのものは無くても、警備が厳重になっていく場所というのは判るものだ。今回はそれを順繰りに進めばよい。
今回の場合、それは階段だ。
そこには金属製の全身鎧を着込み、大盾を装備した一群が群れを成して待ち構えている。
【不動】【硬化】【気配察知】【盾習熟】。
そういったスキル群を身に付けた重装歩兵は正しく鉄壁。障害物としてはこの上ない。まともに一人一人片付けていけば、タリスとてかなりの時間を喰うだろう。
しかしそれも、コード・オブ・カドゥケウスを展開していない時の話だ。
タリスは階段へ向かって真っ直ぐに駆けていく。最前列の重装歩兵が大盾を構え、力を巡らせた。【不動】や【硬化】などを組み合わせた複合スキル【フォートレス】。重装歩兵の代名詞とも言えるそれは、足を止めその場で敵を食い止めるスキルだ。
だが、練度が足りない。
「――ッ!?」
真っ正面から大盾に向かって叩き付けられた一撃。黒と紅が明滅する手甲から放たれた右の掌底。最前列にいた重装歩兵は苦悶の声を上げながらも必死に耐える。大盾を通じて全身へ感じる衝撃。それに負けないよう足を踏み締め、歯を食い縛り耐える。本来なら耐えきれなかっただろう。だが今回はブースト用の秘薬が商会から支給されていた。それも限界ぎりぎりの強力なものだ。
――負けるものか……っ!
男には盾役としての意地があった。商会本部に侵入した賊を撃退するという使命感もあった。
そしてそれ故に、次撃への反応が遅れた。初撃を防ぐのに気を取られ、視野が狭くなったとも言える。
だがどちらにしろ、同じ事だっただろう。
男とタリスでは、根本的な『力』が違う。
男の左から叩き付けるように放たれた一撃。それを防ぐ為に大盾は自然と左を向いていた。両手を使い全力で大盾を支えている重装歩兵。当然、右側に隙が出来ていた。
その隙をタリスは見逃さない。当然だ。最初からそれが狙いだったのだから。
大盾の横合いから、タリスの左手が伸びる。黒い手甲に覆われた掌が、男の視界の端に映った。だが男は動けない。掌が自らに向かってくるのを黙って見ている事しかできなかった。
随分と指が長く、鋭い。まるで鉤爪のようだ。自らへ迫ってくる掌を見て、男はそんな事を思った。それが現実逃避にも似たものだと気付いていた。しかし何も出来ない。
やがて男の視界は塞がれた。顔を真っ正面からその手甲で握り締められたのだ。重装歩兵のフルフェイスの兜。それを半ば握り潰すような力で、タリスは男の顔を掴んでいた。
タリスはそのまま男を左手一本で吊り上げる。
気が付けば、タリスの左腕に紅い輝線が浮かんでいた。まるで血管か何かのような紅い輝線。それらは左腕の先端に行くほどに密度を増し、吊り上げた男へと繋がっていた。
「……が、ぎっ、ぎぃゃぁぁ――――ッ!」
突如、男の口から凄まじい悲鳴が迸る。守備隊の人間に動揺が走る。そんなざわめきも、男を助けようと動く他の人間も、そして絶叫している男も、タリスは気にした様子は無い。
やがてタリスは、無造作に左腕を振るい、男を中空高く放り投げた。
混乱にも似たざわめきが重装歩兵の間に走る。
「――っ!?」
だがそれはすぐに悲鳴混じりのものへと変わった。
投げ出された重装歩兵。兜は乱暴に掴まれた所為で破損し、投げ捨てられた時点で完全に脱げていた。
露わになった男の顔。その目には理性の色が無かった。
口元からは涎を零し、不気味な唸り声を上げ、狂気に染まった瞳で嘗ての仲間を睥睨している。
男は中空で態勢を整える為に一回転し、両手を使い大盾を天へと高く掲げた。そしてそのまま階段の中部、重装歩兵が密集している辺りへ向かって落ちてくる。
「ひゃは――――ッ!」
理性の欠片も無い雄叫び。
それと共に、下にいた重装歩兵へ向けて大盾を全力で叩き付ける。全身のバネを使った一撃だ。防御の態勢も不十分だった。下にいた重装歩兵は凄まじい轟音と共に叩き潰された。振動で決して小さくない階段が揺れる。
今や屍鬼と成り果てた重装歩兵の男は、嘗ての仲間の死体を踏み締めながら、次なる獲物を探して辺りを見回した。
「ちぃっ!」
重装歩兵の一人が舌打ちを漏らした。
「もう助からん! 仕留めろ!」
そして指示を飛ばす。どうやらこの中では隊長格の人間らしい。二列目の真ん中辺りに陣取っている。直接は屍鬼となった男を仕留められない場所だ。それ故の指示だろう。間違った指示ではない。混乱を立ち直らせ、対策を指示する。適切な指示と言える。
だが、凡庸だ。
二人いる片方の敵への指示のみを与えれば、もう片方の敵をどうするのか部下は迷う。迷えばその分だけ隙が出来る。隙が出来ればその分だけ敵を仕留める事が出来る。
そして敵を仕留める事が出来れば、それを使い混乱を大きくする事など死霊術士であるタリスには容易い事だ。
「…………」
タリスが無音で動いた。気配も殺気もない。辺りに溶け込むような存在感の無さ。だが為した凶行は現実だ。
タリスと背後の屍鬼へと注意が二分した兵士。そのうち手近な二人の頭をそれぞれ片手で握り締める。二人は恐怖で硬直してまともに反抗も出来ない。
「撃て――ッ!」
そこに声が響いた。
階段の上。手摺りがある廊下に配置され、事態を窺っていた守備隊の遠距離攻撃だった。本来なら同士討ちを避けるために、味方が傍にいる時は射撃武器は避ける。例外は精密射撃を可能とする狙撃手くらいだ。だが射撃部隊を率いる男は命令を下した。形勢がこれ以上不利にならないようにという判断だった。だがそれには多分に恐怖も混じっていた。あの黒い甲冑を近づけたくないという、自分でも認めがたい恐怖が。
タリスはその攻撃を、吊り上げた二つの兵士を盾にする事で防ぐ。矢や魔導が降り注ぎ、兵士たちを貫くがそこまで威力の高い一撃は無い。タリスは無傷でそれを切り抜けた。だが盾とされた兵は只では済まない。矢が突き刺さり、魔導によってあちこちに酷い打撲の跡がある。どう見ても致命傷だ。
「ま、待てっ!」
先程の兵と違い、今度の二人はまだ生きていた。そんな二人に向かって攻撃を仕掛けてしまった事に気付き焦ったのか、射撃部隊を率いている男は慌てて攻撃停止の命令を出した。
だがもう遅い。
タリスは頭を握り締めていた手に力を入れると、そのまま二つともねじ切った。首から噴水のように血が噴き出し、辺りへ降り注ぐ。
「……くぅ」
射撃部隊を率いる男がその酸鼻な光景を見て、苦しげな呻き声を漏らした。
タリスはそんな男を無言で暫く見遣ると、やおら手に握り締めた二つの頭部を投げ付ける。フルフェイスに覆われた頭部二つが凄まじい勢いで上階へと飛んでいき――。
「きゃはははははは――――っ!」
中空で止まり、同時に凄まじい哄笑を上げた。
――【テラーボイス】。
声を聞いた者を恐慌状態に陥らせるスキルだ。本来ならそれほど強力なスキルではない。ましてや急拵えの屍鬼が放ったものなら尚更だ。
だがそれは、訓練を積んだ兵達が通常の精神状態で耐えられるというだけに過ぎない。それはこの場で商会を守っている守備隊も同じ事だ。本来なら耐え切れただろう。だが元々動揺していた状態なら話は違う。
守備隊が明らかに浮き足立つ。何かに怯えるように辺りをきょろきょろと見回す。
そこで動いたのが、重装歩兵を率いているらしき男だ。
「ちぃっ!」
舌打ちと共に辺りを見回す。このままではまずい。取り敢えず落ち着かせなくては。
男は息を大きく吸い込む。声を通じて周りの人間の精神状態を落ち着かせ、鼓舞するスキル。それは指揮官として基本だ。男も当然それを修めていた。だが――。
「しずま――――ぁ?」
遅い。
声を張り上げようとした男の喉元に、タリスの貫手が突き刺さっていた。殆ど手首当たりまで埋まっている。タリスが手を引き抜くと血を噴き出しながら、男が力なく倒れる。
「…………」
タリスが無言で兵士達を見詰める。
黒一色の奥から覗く、禍々しく煌めく紅い炯眼。
「……ぅ」
兵士達が怖じたように一歩後ずさった。その視線はタリスから離れない。まるで魅入られたかのように、目を離す事が出来ない。
――そして蹂躙が始まった。
重装歩兵たちは既に戦意を殆ど喪失していた。その状態では身に付けたスキルなど使える訳がない。そしてスキルを使えない状態では、その身に付けた防具の能力を活かす事は出来ない。
そのような状態の重装歩兵など、俎上の魚にも等しい。
タリスの右手が振るわれ、中空に紅い輝線を描いた。それは鞭か何かのように複数の重装歩兵の首に同時に巻き付き、次の瞬間、それらを同時に切断した。
血が噴き出し、幾つもの頭が宙を飛ぶ。それらは意思を持ったようにそのまま中空を滑空し、不気味な哄笑を上げる。
タリスはそのまま階段を駆け上がった。
邪魔な重装歩兵の首を刎ね、喉を貫き、頭を叩き潰し、タリスは駆ける。
「う、撃て、撃てっ、撃て――――ッ!」
二階へと到着すると、射撃部隊を率いる男のヒステリックな声がタリスを迎えた。それと共に銃弾、弓矢、それに魔導がタリスへと降り注ぐ。量は大したものだ。だが所詮、まともに集中する事も出来ていない状態で放った攻撃に過ぎない。威力も精度も決定的に足りていない。
タリスはあるものは避け、あるものは受け止め、進んでいく。
射撃攻撃を得意とする人間は、概して接近戦に弱い。そしてそれ以上に、動揺していては実力を発揮できない。恐慌状態になった射撃部隊を仕留める事など、草を刈るように容易い。
ましてや、重装歩兵のように板金鎧を着込んでいる訳でもない。素の防御力が違うのだ。タリスの一撃をまともに防ぐ事すら出来ない。
タリスが腕を振るう。まるで肉食獣がその獲物に爪を叩き付けるように。
ただそれだけで射撃部隊は千切れ飛んだ。腕で受ければ、腕が千切れた。胴に触れれば、胴が千切れた。頭に当たれば、頭が千切れた。人間が障害物にすらなっていなかった。
タリスの腕が振るわれる度に、肉が千切れ、血が噴き出し、悲鳴が上がる。
タリスは既に死体を屍鬼化させようともしていなかった。その必要すら感じていなかった。それは既に一方的な殺戮だった。
視線の先で次々と仲間が殺されていくのが見える。
ある時は手甲で喉を握り潰し、ある時は紅く輝く輝線で身体を貫き、またある時はその腕で頭を叩き潰した。
「……っ」
双眼鏡を覗き込んでいる男――ダニオ・バルザッリの口から、血を吐くような歯軋りが漏れた。
ケレスター商会本部守備隊。
その幹部の一人であるダニオは、黒い甲冑の戦闘を最初から双眼鏡で観察していた。その結果感じたのは敵の戦闘の巧さだった。
単純な強さもそうだが、それ以上に此方の精神を揺さぶり、それを利用するのが抜群に上手い。対多数を苦にしていないように見える。
更には、遠距離攻撃に対する強い耐性だ。
ダニオは狙撃手としての訓練も積んでいる。だからこそ判るが、あれを相手に狙撃を行うのは至難の業だ。少なくともダニオの腕ではほぼ不可能だと云ってもよい。
この大陸において狙撃というのは、特殊技能に属する。
そもそも魔素を吸収した人間は、高機動で動き回り、直感にも優れている。それらを潜り抜けなくては狙撃というものは成功しない。
その為には、見て撃つのでは遅い。相手の動きを読み、相手の反応を読み、初めて狙撃を成功させる目が出てくる。
そしてその為には遠距離にいる目標と自分を同調させなくてはいけない。思考と魔力を目標と同調させ、相手の動きをトレースする。そして最適な瞬間に引き金を引く。
だがあの黒い甲冑相手にはそれが出来ない。同調を試みた途端、逆に底無し沼に引き摺り込まれるようなそんな恐怖を味わった。
……ならば、どうするか?
猶予はそれほどない。時間的にも、人材的にも、物量的にもだ。
そもそもこの建物も商会としては広大だが、規格外の広さを持っている訳ではない。ましてや襲撃に最適な場所が幾つもある訳ではない。
一度失敗すれば、立て直すのはかなり厳しい。
「……乾坤一擲って訳か」
ダニオは独りごちる。
だが情報がそれほど集まっていないのが、痛かった。
現在の所、あの黒尽くめの甲冑は非常に高い戦闘力を持っているのは判っている。だがその底がまるで掴めていない。
判っているのは、非常に高い基礎能力。そして高度な死霊術を扱う事。
防御、回避、攻撃と隙が無く、対多数でも苦にしない。
強いて弱点を挙げれば、遠距離攻撃が弱いようだが、そもそも此方からの狙撃はまともに通用しない。適当に撃つ遠距離攻撃は回避や防御され今一つ有効とは言い難い。
「おい、あいつに接近戦を挑んで勝てる自信はあるか?」
ダニオは隣に控えていた男――バルトロ・ビンチに向けて声を掛けた。近接戦においては守備隊でもトップクラスの腕前を誇る男だ。ダニオに比べればまだ若い。体付きは細身だが引き締まっており、頭の後ろで中途半端に伸びた髪を一つに纏めている。
武器は、カットラス。頑丈さを重視した片手剣だ。それにレザーアーマーを着込んでいる。典型的な軽戦士と言って良い。
「あったら、こんな場所じゃなくてロート辺りで一旗揚げてますよ」
「だろうな」
「そっちこそどうなんですか? 今度の一件は上から装備自由のお達しが出てるそうじゃないですか? 普段は使えない超高級の弾丸でもお見舞いしてやったらどうなんですか?」
「んな事が出来れば、俺だってこんな場所にはいねぇよ」
「やっぱり?」
巫山戯た調子のバルトロにちらりと視線をやると、ダニオは再び視線を黒い甲冑の方へと戻した。
第二陣が食い止めているが、もう余り時間は無さそうだ。
「なら仕方ねぇ。特攻だ。採算も打算も無視して仕掛けるぞ」
ダニオは自分の出した結論に呆れていた。
作戦も何もあったものじゃない。
ケレスター商会の総帥であるエヴァンは、あいつを人間だと思うなと告げたそうだ。全くの同感だ。だが狩りのように仕留めろという意見には反対せざるを得ない。そんな事が出来れば苦労はない。
「狩れない化け物を退治するのにはどうしたらいいんだろうな?」
ぼやきのような言葉が自然と口をついて出た。
「英雄でも呼んできたらどうですかね」
バルトロがおどけた調子で答える。
「何処にいるんだよ、英雄」
「ま、いても奴隷売買やってる商会なんて助けてくれないかも知れませんが」
そんな言葉をぼやくように口にすると、バルトロはそれで口を閉じた。その瞳に鋭いものが浮かぶ。
ダニオはそんなバルトロをちらりと視界の端に確認すると、呟いた。
「じゃあ、始めるか」
狙撃できない狙撃手など惨めなものだ。
ワンショットワンキル。
一撃必殺が狙撃手の浪漫だと、ダニオは思う。
浪漫よりも実用性だと云う者もいるかも知れないが、そもそも狙撃手の実用性なんてたかが知れいている。
狙撃で魔物を倒しても、ある程度接近していなくては魔素を吸収できない。弾丸は高い上に銃との調整が必須で、力を込めすぎれば容易く暴発する。一撃で仕留められなければ逃げられ、仕留めた場合でも獲物が横取りされる事がままある。
そんな欠点ばかりの狙撃手だ。浪漫でも求めないとやってられない。
だが狙撃が出来ないからと言って、狙撃手が無力だとは限らないのだ。あの黒尽くめの甲冑にはそこら辺を教えてやろう。
ダニオは片膝をつき、ライフルを構えた。ボルトアクション式の狙撃銃だ。連射能力に欠けているが、多種多様な弾丸を撃つ事が出来る。そしてその中には少し変わった特殊弾頭もある。
ダニオは目視で目標を見定める。スコープは付けていない。どうせ精密射撃なんてアレ相手には出来はしない。ならばスコープなど邪魔なだけだ。
黒尽くめの甲冑はダニオから見て、一階下の広間にいる。自然銃口も下へ向けられる。そんなダニオに気付いていない訳では無いだろうが、特に気にした様子は見せない。
……舐めやがって。
ダニオは胸中で悪態をつく。
舐められても仕方ない実力差があると十分承知していても、問題外と言外に告げられるのは心地よい事ではない。
ダニオがいるのは手摺りがある廊下だ。金属の棒で手摺りは保持されているので、その間から狙撃する事は十分可能だ。そんな手摺りを備えた廊下が、一階下の広間を囲むようにぐるりと備えられている。
既に部隊は展開済みだ。上階部分にダニオが率いる射撃部隊。
そして下の階には、バルトロなどの近接戦のプロフェッショナルが展開している。
そんな中、黒尽くめの甲冑は、前方に戦士の集団が展開しているのを気にした様子も見せない。何事もないように一定のペースで広間の中央へと歩いていく。その後方から広間の入り口を塞ぐような形で戦士の一団が入ってきた。
包囲殲滅を狙ったものではない。ただ単に逃がさない為の措置だ。
尤もダニオ自身は殆ど必要ないと思っていた。勘に過ぎないが、アレは逃げ出すような事はしないだろう。
「……さて」
ダニオは目視で目標を見定めながら、引き金に指を掛けた。意識が集中し、視界が狭くなる。呼吸も鼓動も静止へと近づいていく。そんな中、ダニオはバルトロの顔が見えた気がした。
「――――」
無言のまま、ダニオは引き金を引く。
力の込められた弾丸が目標に向かっていく。だがそれとほぼ同じか一瞬早く、目標が動いた。機敏な動きで横に飛び退く。弾丸は目標から僅かに離れた場所に着弾した。躱されたのだ。だがそれは予想の内だ。
ダニオが先程放った銃弾。それは通常の小銃弾ではない。分類的には特殊範囲弾。榴弾のように、着弾時その一定範囲内に効果を及ぼす特殊弾頭だ。
今回弾頭に込められていた術式は、拘束。
敵味方の識別機能など、上等で繊細なものはついていない。範囲内の全ての存在を拘束する術式だ。
……てめぇが幾ら化け物だって、全部、躱しきれるかい?
ダニオは口元に狩人の笑みを浮かべると、ボルトを操作する事で排莢し次弾を装填する。それとほぼ同時、ダニオ以外の射撃部対も各々攻撃を始めていた。
内容は全て、例え効果が薄くても範囲が広く確実に効くであろう拘束術式。当然相乗効果を狙えるように前もって術式は調整してある。
あの黒い甲冑の実力は桁外れだ。まともにやっても勝ち目は薄い。だが積み重なる拘束術式の中で、どこまでその戦闘力を維持していられるか。
――試してやろうじゃないか。
ダニオは装填した次弾を撃つ。まだ目標は止まっていない。だが順調に効果は出ている。相手はどんなに規格外でも所詮は一人だ。上手く数の利を活かせれば、必ず勝機はある筈だ。
……後は、近接戦用の部隊がどうなるか。
ダニオは、視線をちらりと滑らした。
そこではバルトロ達が黒い甲冑へ向かって駆けていくところだった。
「しぃっ!」
飛び込んできた軽戦士が棍を横薙ぎに振るった。タリスはそれを真っ正面から上腕で受け止める。衝撃自体はそこまでない。だが弾き返そうとしても、巧みに棍を操られ力をいなされた。
このような技量勝負になった場合、本職の戦士ではないタリスではどうしても不利だ。
タリスのスキルは主に暗殺術と死霊術に特化している。不意打ち、洗脳、謀略などは得意でも、真っ正面からの斬り合いを得手としている訳ではない。
一撃で反撃を受ける前に仕留める。それがタリスの戦術の基本なのだ。
そういう意味では、拘束の特殊範囲弾などの攻撃はそれなりに堪えていた。身体の動きが鈍くなれば、敵を一撃で仕留める事が出来なくなる。そうすれば敵とやり合う必要が生じる。それはタリスにとって、かなり大きなマイナス材料だった。
だが手がない訳ではない。
動きが鈍くなったのなら、動かなくて済む攻撃を放てばよい。
「…………」
タリスは右手を地面と水平になるように真っ直ぐと上げた。
紅い輝線が鎧の上を走り、それらは右手の先端にいくにつれて密度を増していく。不気味に明滅する紅い輝きは、掌の先に光球となって結実した。
「はぁっ!」
それに向かって、槍を持った男が動いた。両手に握った直槍を、その紅い光球へと全力で突き入れる。
バルトロ・ビンチはそれをはっきりと見ていた。そしてその勇気に感動にも似た感情を抱き、同時に思い出した。どうせ自分たちは死兵なのだ。あのような化け物と対峙しておいて命を惜しむなど、理屈に合わない事も甚だしい。
「……ぅっ!」
紅い光球に槍を突き入れた男が、苦悶の呻き声を上げた。光球から出てきたナニカに全身を貫かれたのだ。それは光球と同じく紅く輝き細長い。それが幾つも光球から突き出てきた。
……なんだ、あれ?
バルトロが事態を把握し切れていないうちに、紅い光球から現れたナニカは中空をどんどんと浸蝕していく。
その様子を見て、バルトロはふと気が付いた。
「……枝かっ!」
太いものから細いものが生え、やがて細いものが太くなり、それが更に細いものを生やす。そのサイクルは正に植物のものだった。紅く不気味に明滅している所為で、気が付くのが遅れた。どうやら術者の意思を反映しているらしい事もそれに拍車を掛けた。
だが恐らく間違いない。あれは枝だ。
ならばこの現象も想像がつく。スペルキャスターの代表的な術具である木の杖。それに対する干渉術式だろう。
動きが拘束されたので、拘束されても問題ない戦術を選んだか。だがそれは追い詰められている証拠だ。
「せっ!」
バルトロは紅く輝く枝に向かって愛用のカットラスを振るった。柔らかいとは言えない。だが斬れない程ではない。と云うより、その強度は術者の意思によって自由に変えられるらしい。
「……厄介な」
バルトロは思わず呟く。呟きながらも手は休めない。カットラスを振るい、紅く輝く枝を片っ端から打ち払っていく。だが攻めてばかりいられる訳ではない。時折予想外の場所にある紅い枝から、突如として先の尖った枝が凄まじい勢いで伸びてくる。バルトロは今のところ何とか躱している。だが仲間の何人かは既に犠牲になっていた。
――此処は奴の巣だ。
そんな事をバルトロは思う。
辺りは既に紅く輝く枝が蔓延り、奇怪な密林のようになっている。感知も今一つ働かない。それ以上に移動を妨げられ、どこから不意打ちされるか判らない。
先程までの両腕をメインとして使う戦闘方法が、対個人に重点を置いたものだとすれば、これが対集団に重点を置いたものなのだろう。
その術式に乱れはなく、その戦術には練達さが感じられた。何時如何なる枝を発生させ、固くさせ、成長させるのか。それらを瞬時に判断し、術式に反映させている。
熟達のメイジにしたところで簡単ではないだろう。それをこの黒尽くめはいとも容易くやってのける。
――だが、札は一枚切らせた。
後はこの札を破り、こちらの札を叩き付けるだけだ。
バルトロは横目で仲間と視線を交わす。そして頷き合う。
言葉にしなくてもやるべき事は判っていた。
――飽和攻撃だ。
敵は単独だが、軍隊のようなものだ。側面からの攻撃。包囲殲滅。突撃。様々な戦術を使いこなし、多方面作戦すら難なくこなす。その連携の強さは通常の軍隊とは比較にならないだろう。意思を持った存在が一人しかいないのだからそれも当然だ。
だが弱点もある。
それは一人分の意識しかない事。そして全体の力の総量が決まっている事だ。
よって多方面からの同時に攻撃を受ければ、どこかに穴が出てくる。それは思考という意味でもそうだし、各部分にまわせる力の量という意味でもそうだ。
必ず限界はある。
「しぃっ!」
次の瞬間、全員が同時に動いた。
上階からの射撃。タリスは紅く明滅する枝を上部に展開。密度を増して防ぐ。
広間では戦士隊が一斉に突撃を敢行する。タリスの後方に展開していた部隊もそれに加わった。
そしてタリスは――。
「なっ!?」
前方へと駆けた。
バルトロの口から驚愕の声が漏れる。完全に予想外だった。バルトロの予想では、タリスは壁を背にして戦う事を選択すると踏んでいた。それも恐らくタリスから見て左側、つまりダニオという卓越した射手からの死角であり、背後から攻撃を受ける心配がない場所に自らの立ち位置を確保すると考えたのだ。
無論、その時の為の策は考えてあった。そもそも此処は、本部へ侵入する人間を食い止める為の最終ライン。その為に作られた場所だ。当然左右の壁にも仕掛けはある。
本来、このような場所の壁はスキルを使っても擦り抜ける事が出来ないようになっている。逆に言ってしまえば、一部の暗殺者が使えるスキルを使えば、通常の壁なら擦り抜けていく事が可能なのだ。
此処にある壁は簡単に言えば、味方識別機能だ。特殊な魔具を身に付けた人間のみ擦り抜ける事が出来る。そんな機能が埋め込まれているのだ。
つまりタリスが壁際に移動すればほぼ一方的に不意打ちする事が出来た。逃げ場を塞ぐ事も出来た。
だが、そうはならなかった。
見抜いたのか、それとも本能的なものか。
「はっ!」
全員で囲む筈だったが、相手が動いた事でタイミングがずれた。側面に回り込もうと突出していた守備隊の男とタリスがまず最初に接触する。
虚ろで澱んだ底無し沼のような黒に染め抜かれた鎧。足先まで頭頂部までくまなく覆われ、中は見えない。胴回りが細く、鎧としては頼りなく異質に見える。手足も同様に華奢で細長い。ただ手の指だけが違う。同じく長いが、華奢ではない。寧ろ無骨で凶悪な印象を与える。
先程見えた紅い輝線は、今は欠片も見えない。只の黒一色。だがその兜の奥に覗く紅い双眸だけが、炯々と陰惨な煌めきを湛えている。
上階からは相変わらず、援護射撃が続いている。だがそれが此処に降り注ぐ事はない。爆音もどこか遠い。
全て上部に展開された紅い枝によって遮られていた。それはさながら紅く煌めく天蓋だ。
そして展開された枝は上部だけではない。辺りにも同様の紅く明滅する樹が生え茂り、どこか不吉で幻想的な光景を作り出していた。
援護射撃の所為だろう。時折上空で強い輝きが瞬く。色取り取りのそれは奇妙なアクセントとなって辺りを照らす。
そんな中、黒い亡霊のような男が佇んでいる。
右手には先程対峙した男を吊り上げている。掴んでいる訳ではない。胴体の中心、心臓辺りを貫手で串刺しにして、そのまま吊り上げているのだ。
男の傷口から血がしたたっている。それが貫いている腕を通じて伝わり、黒い腕の上に濁った赤の模様を描いた。
「くっ」
バルトロは笑った。整った顔立ちには相応しくない獣のような笑み。自然に出てきたものでは無かった。腹に力をいれて意図的に作り出したものだった。だからだろう、それは微かに歪んでいた。
――怖い。
バルトロは忸怩たるものを感じながらもそれを認める。死ぬ事は覚悟していた。少なくともそのつもりだった。なのに気が付けば、身体が震えて足から力が抜ける。少し油断すればその場にへたり込んでしまいそうだ。
「くくっ」
拘束術式は効いている。だが時間を掛ければどんどん解除されてしまうだろう。
援護射撃も効果を上げている。上階からの攻撃を防ぐ為に下は手薄になっている。だが弾には限りがある。いつまでも続けられるものではない。
故に、今だ。今しかないのだ。
なのに身体は正直だ。動きたくないと全力で訴えてきている。
命のやりとりに対する恐怖ではない。殺される事に対しての恐怖ですらない。もっと本能的な恐怖をバルトロは感じていた。
「舐めんな――――っ!!」
だが関係ない。
バルトロは腹の底から絶叫じみた声を上げ、駆け出した。右手には愛用のカットラスの慣れた重み。今までずっと頼りにしてきた得物だ。尤もこれで仕留めきる事は出来ないだろう。それほどあの相手は甘くない。だが――っ。
「しぃっ!」
カットラスを全力で斜めに振り下ろす。相手の左肩を狙った一撃。それは左の手甲で叩き付けられるように弾かれた。甲高い金属音が雷鳴のごとく鳴り響き、ただそれだけでバルトロの身体が大きく流れる。呆れた反射と腕力だ。同時に既に相手は次撃の準備を調えている。右拳を貫手に構え、引き絞るように狙いを定めている。
「っ!?」
瞬間、喉元に奇妙な寒気。体勢は崩されている。無理して避けても後に続かない。何せ掴まれればそれで終わりなのだ。
――やばい。躱しきれるか?
背筋に冷たいものを走る。答えは直ぐに出た。ほぼ直感だったが恐らく間違いない。
――無理だ。
「しゃぁっ!」
だがそれも、バルトロが一人だったらの話だ。
斧を握った男が横合いから攻撃を仕掛ける。タリスは無理をしてバルトロを殺そうとはしなかった。新たに現れた男の対処を優先させる。
「ぐぅ……っ!?」
だがそれも長く続かなかった。斧を握った男とタリスの対峙はほんの一瞬。それで決着がついた。タリスは自分に向けて放たれた斧の一撃を、相手の手首を握り締める事で止める。
バルトロが形勢を悟り、フォローを入れようと動こうとしたその瞬間――男の手首は握り潰され、引き千切られた。
タリスは男の右手がくっついたままの斧を、バルトロに向かって投げ付ける。投擲武器を使うには余り短い距離だ。僅かな驚愕を覚えたが、バルトロは体勢を極端に低くする事でそれを避けた。頭の上を重く鈍い風切り音を発しながら斧が通過する。
四方から、守備隊の人間が散発的な攻撃を仕掛けている。だが黒い甲冑の動きを止める事が出来ていない。
逆に守備隊の人間は次々とその命を落としている。ある者は腹を抉られ、またある者は頭を叩き潰された。
何と言っても、あの両腕が厄介だった。単純な貫手や拳打だけでない。ゆったりと掌を接触させ、そのまま握り潰すという握撃、また要所で使われる魔導。どんな状態からでも相手に対し致命の一撃を放てるというのは、これ以上ないくらいに恐ろしく、そして強い。
拘束術式はまだ効いている筈なのに、手が出せない。
「……っ」
バルトロは歯噛みしつつも状況を見守る。
先程までとは状況が違う。誰もが足踏みしている状態ではない。仲間たちが動いている。下手に動いて命を落とす訳にはいかなかった。
「…………」
バルトロはちらりと視線を自分の腰の左に向けた。そこには、あの黒尽くめを消し飛ばす切り札がある。
特別製の指向性爆薬。
ケレスター商会でもそれほど数が無い特別製だ。本来なら大型魔獣に対して使うその威力は絶大。この場ではバルトロを含め、三人が同様の爆薬を持っている。
だが相手にそれを張り付けなくてはいけない。そうでもしなければ幾ら指向性爆薬とはいえ、その威力を逸らされ大したダメージを与えられないだろう。
チャンスは一度。そしてその為には相手の動きを一瞬でも止めておく必要がある。
だがその隙が見当たらない。
「ちっ」
このままでは相手の拘束術式が完全に解けてしまう。無理を承知でも今仕掛けるべきか? 指向性爆薬を持っている他の二人と密かに視線を交わす。二人も迷っているようだ。飛び掛かろうと腰を低くしているものの近寄る事が出来ていない。
そんな時だ。
視界の端に映るものがあった。
何故気が付いたのか、自分でも判らない。
ダニオだった。
見事なまでに気配を消して、広間の入り口の外で伏射の姿勢で狙撃銃を構えている。
紅く明滅する樹木が林立するその先で、神経を集中させ静かに機を窺っている。
此方が気付いたのに気付いたのか、ダニオが笑った気がした。ほんの僅か唇を歪ませるだけの笑み。バルトロもそれに応じるように笑って見せる。引きつった獣のような笑み。それを受けてダニオも笑みを深くし、次の瞬間。
「――――」
引き金を引いた。
弾丸は紅く明滅する木々を縫うように進み、目標の足下へと近付き――その効果を発揮する。
「――っ!」
瞬間、バルトロたち三人が駆ける。
三人の表情にはそれぞれ三者三様の笑みが浮かんでいた。
正面から向かっていくバルトロの口元には引きつった獣のような笑み。
目標の右から向かっていく巨漢の男の口元には快活で凄みのある笑み。
そして目標の左から向かっていく細身の男の口元には静かな微笑。
対する目標は左足を中心に、かなり強固に地面に拘束されている。少なくとも後、数秒は抜け出せないだろう。大した時間ではない。一手でも間違えばあっさりと消えてしまう時間だ。だが今は、それで充分。
勝機だという事は全員が判っていた。そしてこれ以外に勝機が訪れないという事も。
四方から戦士達が飛び掛かる。爆薬を持っていない人間も、せめて一秒でも時間を稼ごうと死力を尽くす。時には渾身の一撃で、そして時にはその身を犠牲にして。
だが下半身自体は拘束できたものの、上半身はもうかなり動きを取り戻していた。その両腕が振るわれる度に、肉が飛び散り、血の雨が降った。そんな中に三人は躊躇無く飛び込む。生き残れるとは考えていない。だがこのまま一矢を報いることもなく死ぬのは御免だった。
「はぁっ!」
最初に仕掛けたのは巨漢の男だった。
右腕は既に無い。胴は半ばから抉り取られている。最初からなかった訳ではない。どちらもつい先程失われた。まだ間合いに入る前、無造作に放たれた一撃を避けきれなかったのだ。無論軽い怪我ではない。その傷口からは血が止めどなく流れ出し、その顔色は蒼白だ。だがその目は死んでいなかった。男は残った左腕一本で、爆薬を目標の右肩に押し付けようと腕を伸ばし――。
「っ!」
その腕を抉り飛ばされた。
獣の爪牙のような上へ向かい叩き付けるような一撃。斬り裂かれたのではない。握り潰されたのでもない。ただ凄まじい勢いで叩き付けられた事で、太く筋肉質な腕は引き千切られあっさりと中空を舞った。
だがそれは無駄な犠牲ではない。否、無駄な犠牲にはさせない――っ!
バルトロ達二人が飛び掛かる。辺りは殺された仲間の死体で足の踏み場も無いような状態だった。血と臓物の匂いが立ち籠め、噎せ返るような死臭が嫌でも犠牲の多さを感じさせる。
「せっ!」
バルトロが正面から突っ込む。そして側面からもう一人の男が――。
だが相手はまだ左腕の自由を残していた。どんな体勢からでも致命の一撃を放てるその左腕を。
極限状態で引き延ばされる思考の中、バルトロは側面から向かっていった男の顔に焦りが浮かんでいるのを見付けた。恐らくバルトロの顔にも似たようなものが浮かんでいるだろう。
一つでは足りるか判らない。最低二つは設置したかった。だがこのままではそれは叶わない。
そんな時だった。
黒尽くめの甲冑。それがほんの僅か、体勢を崩した。見れば先程腕を飛ばされた男が、凄まじい形相で体当たりを敢行している。鬼気迫る表情だ。顔には既に死相が浮かんでいる。だが半ばから引き千切られ、残った両腕で黒尽くめの甲冑の腹を抱え込むようにして、男は決死の覚悟で妨害の役目を果たそうとしている。
「……ぅ……ぐっ!」
体勢が僅かに崩れた事で、相手の左腕は勢いを失った。無論、大きく崩れた訳ではない。すぐに体勢は立て直されるだろう。そうなれば左腕も、そして右腕もその自由を取り戻す。全てが振り出しに戻り、恐らく二度と同じチャンスは訪れない。これだけの犠牲を払っても、これだけの状況を調えても、得られたものはこれしかなかった。勝ち得たというには、余りにちっぽけな成果。情けないほどに僅かな時間。それは瞬きにも等しいのほんの刹那。
だが今は、その刹那さえあればいい――っ!
――殺った!
バルトロの顔に快哉の笑みが浮かぶ。両手には爆薬を押し付けた感触。視界の端には同じく快哉の笑みを浮かべた細身の男の姿が映る。
後は魔力を込め、爆薬を起爆させるだけ。時間は殆ど掛からない。
相手は逃げるにもその場を動けず、振り払うにも時間がない。そして至近距離からの特別製の指向性爆薬だ。耐えきれる筈もない。
バルトロが作戦の成功を確信し、笑みを深める。爆薬に魔力は既に流している。後は結果を待つだけ――。
「……ぁ?」
だがそんなバルトロの視界に奇妙なものが映った。
目の前の甲冑に、では無い。それについては変わりはない。爆薬を押し付けられても逃げようともしていない。
視界の端、それも右や左ではない。上だ。視界の上に、その端に僅かにナニカが映っている。
バルトロは嫌な予感と共に顔を上げた。
――なんだ……コレ?
上げた視界に飛び込んできたのは、バルトロが今までに見た事の無い物体だった。
強いて挙げればスライムに近い。人程度の大きさの黒く不気味に蠢く粘体。虚ろで澱んだ底無し沼のような色を湛えたそれが、黒尽くめの甲冑の頭上で蠕動している。
その色が、そして何よりその雰囲気が――どこか似ている。
それが何に似ているかをバルトロは自問し、さほど考える事もなくその答えを思いつく。鎧だ。黒尽くめの鎧だ。目の前にいるこの敵に、その粘体は酷く似ている。
その事に気付いたバルトロの全身に、貫くような寒気が走る。
その予感は絶え間なく膨れ上がり、消える事はなかった。まさか、と頭で否定しようとするが、どうしてもその予感を振り切る事が出来ない。だが、だからといって何も出来る事がないのも確かだった。バルトロは殆ど絶望にも近い恐怖を感じながらも、凝と粘体を見詰め続ける。
時間が過ぎていく。爆発までのほんの僅かな時間が。
それは言い換えれば、バルトロの最期までの時間でもあった。だからだろうか、時間がやけに遅く感じられた。そしてそんな極限まで引き延ばされた意識の中、爆発までのその刹那に、バルトロは確かに見た。
――虚ろで澱んだ底無し沼のような漆黒の中に、炯々と輝く紅い双眸を。
凄まじい爆音が轟き、圧力を持った風が吹き抜けた。
ダニオ・バルザッリは伏せた姿勢のまま、腕で顔を覆う事でそれに耐える。
咄嗟の策は思った以上に上手くいった。
狙撃手の中で隠密、狙撃などに関する能力が最も高いダニオが、上階からこの広間まで移動し、援護射撃を行う。あの紅く輝く樹木が生え茂っている場所は敵の領域だ。入れば恐らく探知される。少なくともダニオのレベルの隠密では、隠れて侵入は不可能だろう。だからこそ、広間の外からの狙撃を選択した。
打ち合わせも無しに思いつきで実行した策は、バルトロがダニオに気付いた事で実行する事が出来た。もしも気付かれなかったら折角の移動が無駄になったところだ。
その後の、狙撃。
ダニオの狙撃手としての人生の中でも会心と言える一撃だった。
あの黒尽くめの甲冑には狙撃が通用しない。それ故に精密な狙いを定める事は出来ない。だから上階から撃っていた時と同じく弾丸は特殊範囲弾を使用する。だが上階から撃っていた時と異なる事が一つある。相手が水平方向にいる事だ。つまり高さ的な有利がない。
これは狙いを定める時にも関係するが、それ以上に特殊範囲弾の術式を起爆させる時に大きな問題となる。なにせ着弾というファクターを起爆のトリガーに出来ないのだ。
それ故に起爆は狙撃手がそのタイミングを計って行わなければいけない。
当然ながら、狙撃を相手に気付かれてもいけない。
更にそれを木々が生え茂っているような状況下で行わなければいけない。
そんな高難易度の狙撃を成功させたのだ。少しは自画自賛しても許されるだろう。
無論、その後の指向性爆薬を相手に取り付ける段階においても、バルトロ達は素晴らしかった。格上といえる相手に死体の山を築きながらも、数少ないほんの僅かの好機をものにした。
間違いなく言える。最善だったし、完璧だった。
策は最善だったし、それを各々が能う限りの力を使って完璧に成し遂げた。
結果、最良の結果を引き出せた。
問題は――。
「最善を尽くしても、完璧にやり遂げても、なお届かなかった……って事くらいか?」
ダニオは立ち上がり、口元に皮肉の利いた笑みを浮かべた。
そして懐から煙草を取り出し、火を付ける。慣れた紫煙と軽い酩酊感。そんなものを感じながら、ダニオは広間の中へ歩き始めた。
逃げれば助かるかも知れない。いや、多分助かるだろう。
だがその気にはなれなかった。
自分より年下の相棒に危ない橋を渡らせて自爆特攻させた挙げ句、自分だけは助かるなんてのは死んでも御免だった。
広間の中は酷い有様だった。
爆発で吹き飛ばされたのか、あちこちに死体が散乱し、血と臓物の匂いが立ち込めている。
土煙が舞い上がり、爆風で吹き上げられた塵埃が視界を塞いだ。
灰色になった視界の中、紅く明滅する木々が立ち並び、どこか不吉で幻想的な光景を演出していた。
まるで朽ちた廃墟のようだ。そんな事をダニオは思う。
気が付けば、生きている者は殆どいない。
上からの援護射撃もまばらになっている。
「化け物」
ダニオは自然と呟いていた。
「正に化け物」
それしか言いようがない。
地の利を得て、数の利を得て、装備の利を得て、それでもまるで届かない。
そんな存在をそれ以外に何と呼べと言うのか。
「笑えるくらいに化け物だ」
狙撃手として、そして裏稼業の人間として、ダニオはそれなりに腕に覚えがあった。
だがそれが、笑えるくらいに跡形もなく破壊された。
「ははっ」
ダニオは紫煙を燻らせながら、笑う。気分は何故か晴れやかだった。
ただ粉塵が舞い上がっているこの場所が、煙草を吸うのに余り適した状況じゃない事だけが残念だった。
その日、ケレスター商会は壊滅した。
総帥エヴァン・バーグソンを始め、主立った幹部の殆どがその命を落とす事となった。