イルカ
記憶はひとりでに海上をさまよう。ある日、記憶はイルカと話をした。イルカは言った。「そんなところで何しているんだい。」「静寂の中で寝ているのさ。」「それは難儀なことだね。いつ誰が起しに来るか分からない。」「誰も来ないさ、これまでも、これからも。」「それは面白いや。記憶なのに完全に忘れ去られるとは。主人はどうしているんだい。」「さあ、主人が誰だったかも分からないや。」「まさにさまよう記憶だね。」そう、記憶は無意識の海の上をさまよう。無意識とは忘れられた記憶の集積場であり、行き場を失った記憶たちが、ここではこのようにひっそりと会話を続けている。(イルカは忘れられた記憶なのか、と訝しがるひとがいるかもしれないので念のため説明しておくと)本物のイルカはすでに地球を去って久しいと考えられており、今、我々が目にできるイルカはかつて我々が知っていたイルカとは異なる偽物である。いつ、この交換が行われたかは誰も知らないが、とにかく我々の知っているイルカがイルカではないというのは確かなことであり、このことは義務教育を終えた人間なら知っていてもおかしくはない。イルカが地球を去る際に人々に言ったことも伝えられている。すなわち「面白くなくなったので帰ります。私たちの代わりは作っておきますのでご心配なく。」かくして、十年前か、三年前か、一週間前か、三分前かは分からないが、イルカは地上から消滅したのであった。