そして泉下の蓋は開けられた
「いやに静かだな……」
霊泉へと続く道にかかる木々のアーチの下で俺はそう口にしていた。
こういうのを森閑としている、というのだろうか?
耳に入るものは俺たちが踏みつけた草が悲鳴を上げる声だけ。きっと俺たちがいなければここはまるで水中のように静寂に包まれていることだろう。
……森の中にいるのに水の中にいるとはおかしな話だ。
「…………ここはいつもこうだ。尤も奥から流れ出ている不吉な雰囲気は『いつも』には含まれないがな」
禍渦の巣が自分の守ってきた霊泉であるスコトゥーハであったことを知ってからアヴェルチェフは明らかに気落ちしている。
まあ、それも無理のないこと。
これまで村人を攫ったモノを守っていたに等しいのだから。
玖尾曰く、彼女がここに侵入したときにはこのような気配は漂っていなかったそうなので、どうやら禍渦はいつも活動している訳ではないらしい。
ここからは更に推測によるが、禍渦は誘い込む人間を品定めし、そしてその気に入った人間を操り自分の縄張りに連れて来るまでの間のみ、顕現しているのではないだろうかと、俺は考える。
つまりは先日のロッジに現れた禍渦同様、獲物がそこにやって来るまで気配を殺して潜伏するタイプ。
だからこそ、早朝ここを訪れた玖尾とアヴェルチェフに勘付かれることもなかった。二人の能力の高さは既に自分の身体で体験済みだ。それこそがこの推測を裏付ける証拠といえる。
「さてさて、ウチの目的は達成されるかなーっと。ま、いつも通り期待せんと行くけど」
両腕をグーッと上に伸ばしながら玖尾は誰に言うでもなく独り言を呟く。
ジメジメしたオーラを纏っているアヴェルチェフはもう少し放置しておいた方が良さそうなので、俺は彼女に話しかけることにした。
「? そういやオマエの目的って阿嘉ってヤツを探すことだったよな? ずっと思ってたんだけどそれとこれと何の関係があるんだ?」
こんなところで油売ってないでさっさと探しに行けよ、このジャージ女。とまあ、流石にそこまでは口に出しては言わないが。
「んー? いやな、アイツは高確率で騒動の中心におるんやわ。既に起きてる事件に巻き込まれたり、若しくは阿嘉自身が事件を引き起こしたり……。ウチも何度、それに巻き込まれたことか……」
うう、と涙を拭く真似をする玖尾。
騒ぎに巻き込まれるだけならともかく、騒ぎを起こすのかよ。質悪ィな、おい。
「男だけが行方不明なってるっちゅうのも、もしかしたらっちゅう思いがあったんやけど。蓋を開けてみたらイェジバの男衆限定らしいしなあ……。ここもハズレの臭いがプンプンしよるわ」
「ああ、そうかい。ならどうする? いますぐ他をあたりに行くか?」
「あっはっは、それはごっつ魅力的な提案やけど止めとくわ」
コイツなら「お疲れさーん」とか言って直ぐにでも姿をくらませそうな気がしていたのだが、意外にも彼女の口から出たのは否定の言葉だった。
「ここまで関わった訳やし、消えるにしてもせめて一回くらいは役に立ってから消えるわ。ま、ウチの手に負えへんようやったら問答無用でドロンするけどな」
ドロンて。
ドロンて古いな、オマエ。
『……頼人、禍渦が近いよ。身体は大丈夫だよね?』
玖尾と馬鹿な会話をしているとイアがそう警告を発する。
既に俺たちは聖域の入り口から大分歩いていた。アヴェルチェフの言う霊泉とやらに辿り着いても何もおかしくはない。
「ああ、俺は大丈夫だ。『いまのところ』だけどな。それよりあっちの方が俺は心配だね」
『え? ああ……』
「……やな。おーい、ヴォルくん、大丈夫やなさそうやけど大丈夫かー?」
俺たちのやや後方を歩くアヴェルチェフは彼女のその声に片手を上げた。
「……大丈夫だ。万が一、足手まといになるようなら捨て置いて構わん」
彼の言葉に嘘はなく、そこまで言うのであればこれ以上の心配は無用だろう。
玖尾を横目で見ると彼女も同じ考えだったようで軽く頷いていた。
そしてその三分後、俺たちは泉へと辿り着くことになる。
そこにどんな光景が広がっているのかを何一つ想像しないままに。
スコトゥーハ。
霊泉などと大層な呼ばれ方をしているのだからさぞ仰々しい、何人も触れ難い雰囲気を醸し出しているのかと思っていたが、実際にはそれほど大きなものではなかった。
それこそ何処にでもあるような、少々広い池と言っても問題ない程度のものだったが、唯一、特徴を挙げるとするなら、それは水の透明度。
透き通り、何ものにも汚されていないそれは、水面を覗きこめばきっと底まで何の苦もなく見通せただろうが、俺の目は別のものに釘付けになっていた。
いや、何も視線を固定されているのは何も俺だけではない。
アヴェルチェフも。
玖尾も。
そして恐らくは俺の中にいるイアも。
『アレ』に目を奪われていたことだろう。
「何だ? ありゃあ……」
思わずそんな馬鹿な問いが口から出てしまう。
ここにいる誰もがそれに答えることなどできないとわかっていたのに。
否、一つ訂正しよう。あれが何なのかはわかっている。あれは禍渦だ。それは間違えようがない。
分からないのは――『アレ』の正体。
水面に蠢くアメーバ状の何か。
形も何もない。
あんなものがこの地の伝承に残るほどの何かだとでも言うのだろうか?
『頼人、ぼうっとしてる場合じゃないよ!! あの人、禍渦にどんどん近づいて行っちゃう!!』
「あ、ああ!!」
そうだった。
こうして呆けている間にもボリスは一歩、また一歩と泉へと足を動かし続けている。これ以上、禍渦に接近させることは非常に危険であるといえるだろう。
そして当然アヴェルチェフもそれは分かっているのだろうが以前、操られた村人の拘束に失敗していることもあって踏み出せずにいるようだ。
だから、ここは俺の出番。
他の二人が二の足を踏むなか、俺はその手にあるものを具現化する。
それはスタングレネード。
ボリスを極力傷つけないためというのもあるが、一番の理由はボリスの身体から禍渦の思念を追い出すことだ。
森で禍渦に侵蝕されたとき、俺は禍渦のものと思われる声を聞いたのだが、玖尾やアヴェルチェフには聞こえていなかったらしい。
ということはあの声はあの場に響き渡ったのではなく俺にダイレクトに届けられたことになるのだが、おかしなことにそのとき同調していた筈のイアにもその声は聞こえていなかったらしいのだ。
そこから導き出される答えは一つ。
禍渦は操作しようとする人間に対してのみ何らかの通路を形成しているということ。要するにそれを介して、思念を送り込んでいたのである。
そしてもう一つの重要な要素はイアがまるで禍渦は恐怖を感じていたようだという証言。つまり、今回の禍渦は感情を持っているということだ。
感情というのは何も恐怖だけではない。
喜び。
悲しみ。
焦り。
そして、驚き。
そう、『驚き』だ。
恐らくいまボリスには、禍渦の思念が入り込んでいる。それを追い出す為には禍渦の感情を揺らがすのが一番だ。
故のスタングレネード。
突如として五感のうち視覚と聴覚を潰されれば、如何に禍渦であろうとも怯み、一時的にだとしても通路を遮断し、ボリスの身体から出ていかざるを得ない筈だ。
それにこの方法なら、仮に再びボリスの身体が乗っ取られた場合でもまた別の手段で揺さぶれば良いしな。
「目と耳を塞げ!!」
そう二人に忠告し、スタングレネードを投げ込む。
いや、投げ込もうとした。
しかし、俺のその手は止まり、力なくダラリと垂れ下がる。そしてしっかりと握られていたスタングレネードは滑り落ち、地面に到達するまでに消失してしまう、
ここで断わっておくが、これは別にまた禍渦に乗っ取られたとか、そういう訳じゃない。
ただ――目の前の光景に頭が追いついていかなくなっただけだ。
「…………あれ? ウチの目ぇおかしなったんかな?」
いいや、違う。玖尾の目は何もおかしくはない。俺とイアの、そしてアヴェルチェフの網膜にも同様の光景が焼きつけられている。
先ほどまで水面で蠢いていたアメーバ状の何かが徐々にその形状を変化させていく。
ずるり。
ずるりと。
不快な音を響かせながら、その何かはその輪郭を明確なものにしていった。一つ瞬きをするごとに一つ、二つ、三つと、凄まじいスピードで新たな部位が形作られる。
一回目は左脚。
二回目には胴体。
三回目には両腕、と右脚。
四回目には胸部が生み出され。
五回目には頭部と、形成された身体を覆うように白いドレスが出来上がる。
そうして現れたそれは最早アメーバではなく、ただの、一人の女性。
その身体は彼女の足下にある泉のように透明ではなく、きちんと着色までされた、まるで俺たちと同じ人間のように見える。
『やっと――、やっと来てくれたのね!!』
俺たちが呆気に取られているなかで彼女は一人、歓喜に満ちた声を上げていた。
ずっとこの瞬間が待ち切れなかったかのように。
ずっと焦がれていたものが手に入った子どものように。
ただ無邪気に笑う。
そしてその女性と泉のふちに立つボリスとの距離は既にないに等しく、手を伸ばせば簡単に触れられるところまできていた。
そうして女性は躊躇いなくボリスに手を伸ばし、その頬を愛おしそうに撫ぜる。いまにも熱い口づけを交わしそうな勢いを感じる。
いや、俺はそんな経験ないから完全に勘だが。
『ああ!! 待っていたの!! ずっと待っていたのよ!! 私、あなたが――』
だが。
するするとボリスの首に腕を絡め、熱烈な言葉を投げかけていた女は突如としてその口を噤む。
そして、次に発したのは俺たちが想像もできない言葉だった。
『――あなたは、だあれ?』
優しく絡めていた腕に力が入る。
そうすることで当然のことながらボリスの首が悲鳴を上げる。
『あの人は何処? 何処に隠したの? どうして私の前に来てくれないの? どうしてあなたなんかが代わりに来るの? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ?』
ボリスは答えない。
いや、答えることができないと言った方が正確だろう。
何故なら彼の首はへし折れ、あらぬ方向へと向けられ、既に事切れていたのだから。
女がボリスの遺体から手を放すと彼の身体は泉の中へと落下する。しかし、女は半身を水中に沈めるボリスにはもう大した興味はないようでその光景を感情のない瞳で見下ろしながら言う。
『……やっぱりあなたも教えてくれないのね。なら良いわ。ええ良いですとも。私は彼が来てくれるまでここでずっと、ずうっと待つだけだから。さあ、あなたも私と一緒に彼を待ちましょうね』
そう言い終わると同時にボリスの亡骸はズブズブと泉の中へと取り込まれていく。
さながらその光景は蛇に丸飲みされていく鼠のようで、彼の身体はゆっくりと泉の中へと姿を消していった。
しかし、俺はその光景に特に心を乱すことはない。見ず知らずの男が一人禍渦の犠牲になっただけだ。それに俺が約束したのは村人を助けることじゃなく、この女のカタチをした禍渦を壊すこと。無論、極力救ってやりたいとは思っていたが、それが叶わなかったからと言ってそこまで気に病むことではない。
だから、いまここで重要なのはあの姿を目に焼き付け、言葉を聞き、後に該当する伝承を探すヒントを少しでも集めることだ。あの程度の光景に動揺している暇はない。
まあ、残る二人はどうだか知らないが。
玖尾はやや顔を顰めてはいたが、そこまでショックを受けている様子はない。流石ご年配の方は肝の据わり方が違うね。
ただ、アヴェルチェフはといえば。
「こんな……、こんなことがあるか…………」
やはりと言うか、当然と言うか。完全に心を掻き乱されていた。
また村人が、そして今度は自分の目の前でその命を奪われたのだ。
彼が守ると誓った村の死にまた一つ近づいてしまったのだ。
その衝撃は俺たちには想像できない強さであろうことは想像に難くなく、彼は呆然と何事かを呟きながら今度こそ膝をついてしまう。
戦ってデータを取るにしろ、ただ観察してデータを取るにしろ動けない人間がいるということは好ましくない。
さて……、どうしたもんかな。
『あら? あらあら?』
禍渦はこちらを見て数回目を瞬かせると、再び満面の笑みを浮かべながらその口を開く。
『まあ、嬉しい!! お客さんなんて随分久しぶりだわ。私、オリガっていうの。あなたたちは――もがッ!?』
まあ、取り敢えずどんな攻撃が通るのかどうかから試してみるか。
そう決めて女の形をした禍渦へと飛びかかり、拳大に具現化した物質をその口の中へと捻じ込む。
『あがっ……!?』
口に捻じ込まれたそれを吐き出そうとする禍渦であったが、彼女がその行動に移る前に俺が具現化した物質は変化を始める。
風船から空気が抜けるような音が禍渦の喉から聞こえてくる。
うん、うん。この反応をするってことは一応あれの身体を形成しているのは水なんだな。ならとっとと距離を取って見守ろう。
彼女の身体が爆散するまで。
『げほッ……、がはッ……!! はあ……、はあ……、な、何? 何をしたの?』
俺が口に捻じ込み、既に禍渦の腹の中まで到達している物質はナトリウム。水と反応し、激しい爆発を引き起こすアルカリ金属の一つ。
禍渦がその身体に多量の水分を含んでいるとすれば当然同様の結果が引き起こされることだろう。
…………ん?
試したことはないから知らないけれど人の体内にも水分はあるんだから、どっちにしろ同じ反応を起こすのか?
『あ、ああ……熱い、身体が……中から燃え――』
その疑問に答えが出る間もなく、彼女は口から多量の煙を噴きだしながら、その目から涙を流しながら文字通り、散った。
凄まじい爆発音を辺りに響かせながら、全身が弾け飛ぶ。
頭が飛んできたとか、手首が俺の眼前にこんにちはとかそんな生優しい爆発の仕方ではない。飛んできたものの元の部位が何処なのかがそもそもわからない程に禍渦の身体は吹き飛んだのだ。
しかし、特にグロテスクな光景にはなっていない。というのも飛び散り、地面に落下した瞬間にそのどれもが紅い肉片から透明な水へと変化していたからだ。
「……ってことはやっぱり身体を構成している根本的な物質は水みたいだな」
「いきなり人の口に金属捻じ込んどいて冷静にそんなこと言えるアンタがウチは怖いわ……」
呆然自失の状態に陥ったアヴェルチェフの傍に待機していた玖尾がそんなことをポツリと呟く。
おいおい、相手は人間じゃなくて禍渦だぞ? そんな遠慮など無用だということを知ってほしいものだ。
だって、ほら。
こんなことじゃああの嘘吐きどもは死にはしないんだから。
飛び散った禍渦の破片がゆっくりと、だが確実に泉の中へと戻っていく。どうやら一度泉へと逃げ込む算段らしい。
やっぱりそうだよなあ。あんな適当な攻撃じゃあ核を壊すこともできてないだろうし。ただこれで物理的な攻撃は時間稼ぎ程度にしかならないことが判明したのだ。良しとしよう。
「……ほんで? 次は何するつもりや?」
「んー? そうだな」
俺がどうこうする前に勝手にベラベラ喋ってくれたからなあ。
名前も。
その性質も。
そして何を求めているのかも。
だからもうこのまま村に帰って伝承を調べたいというのが本音なんだが。
「違う、そんな筈は……、でもあの姿は、どう見ても……」
アヴェルチェフはまだ動けそうにない。
最悪コイツを担いで村に帰還するかと、そんなことを考えていたら焦燥に塗れたイアの声が頭の中に響いた。
『よ、頼人!! ま、前、前!!』
「あん? ――ッ!?」
イアに促され目を向けた先にいたのはさきほど粉々に吹き飛ばされた禍渦――だけなら良かった。それなら、何だもう再生したのかと思う程度でどうということもなかった。
だが、泉の中からその姿を現したのは彼女だけではない。
「……ボリス?」
ついさっき、命を奪われた筈の男までもが泉の真上にその身を佇ませていた。
そして。
「おい、おい、おい、おい……ッ!! ちょお待てや……ッ!!」
霊泉の中から顕現するのは彼だけではない。
また一人、また一人と。
手を伸ばし、水中から這い出てくる。
そしてその異常な光景に最も反応したのは俺でも玖尾でもなく、アヴェルチェフだった。
「アナトリー、レヴォリ、ツェーザリ…………? まさか……、だって貴様たちは――死んだ筈だ。俺が――救えなかった筈だ……!!」
誰が誰なのかは知る由もないが、彼の呟きから俺が辛うじて理解できることは目の前に現れた彼らが今回の禍渦の犠牲者であり、既に死んでいるということだけだ。
次々とこの村の死者と思しきモノが現れる様はまるで、あの世の蓋が開けられたよう。
その数はこうして見ているだけで、増え続けていく。
十。
三十。
六十。
百。
泉はとっくの昔に夥しい数の亡者で埋め尽くされ、その水面を見ることすら叶わない。そしてその亡者どもの頭上では最初に現れた女の姿をした禍渦が憤怒の表情でこちらを見下ろしていた。
『――たい』
静かに怒気を孕んだ声が死者たちのうめき声を掻き消すように響く。
『痛い、痛い、痛ァァい!! 許さないわ!! ぜェえったいに許さない!! あなたたちは私と一緒に彼を、ユーリを待つことも許してあげない!! 引き千切って、擂り潰して、肉片一つこの世に残してあげないんだから!!』
その怒りに押し出されるように泉から一体の亡者が弾き出される。
そしてそれを皮切りにしてそれまで水上で蠢いているだけだった亡者の群れが俺たちと同じ大地に傾れ込み、疾走を始めた。
標的は無論、俺たちだ。
良い子はナトリウムで遊んじゃいけません。あ、悪い子もダメですよ?
というわけで十二話お送りしました、久安です。
次回は玖尾さんに頑張ってもらいましょう。彼女のスキルとは? そんな風にお待ちいただければ幸せです。
次回は10月12日 10時に更新予定です。




