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霧島武彦、八島真、伊吹恵理の三名が悲鳴を聞き、その現場、西館の曲がり角付近の部屋に到着した頃には既に宿泊客、従業員の殆どがその場に集まっていた。そこにいないのは東館に部屋を用意された高校生たちだけである。
「東郷さん、一体何事ですか?」
「……見りゃあわかる。ただお嬢ちゃんたちは見ねえ方が良いかもしれねえが……」
霧島武彦の問いに答える東郷貞和は口調こそ先ほどまでと変わらない。だが彼らしくない歯切れの悪い口振り、そしてその表情から尋常ではない出来事が起こったのだと理解するのは至極容易なことであったことだろう。
故に霧島武彦は決断する。
「伊吹はここで待ってて、八島も。東郷さん、二人が来ないよう見ていてもらえますか?」
「ああ、構わねえよ。ほらお嬢ちゃんたち、色男の厚意を無駄にしたくねえならここにいな」
「だけど……」
「なあ……?」
「伊吹、八島、大丈夫だから」
その場に残ることを渋る二人にそう言い残し、そして東郷と入れかわることで現場を目の当たりにした。
「これは…………」
霧島武彦の目の前に広がっていたのは一面の赤。
そして、その赤の中には、井坂鈴がその父親である幡に抱えられる形で存在していた。彼女の衣服は赤く汚され、目を閉ざしたままピクリとも動かない。
「鈴ちゃん!?」
思わず駆け寄る霧島であったが、それを井坂幡が静かに制する。
「霧島さん、落ち着いてください。鈴なら大丈夫です。この血を見て気絶しただけのようですから」
「そ、そうですか……。良かった……」
鈴の無事を聞き、霧島の胸を安堵が包み込む。しかし、それも長くは続かない。そういうのも彼の心に一つの疑問が浮かんだからだ。
「……じゃあ、この血は一体……?」
そう。
廊下一面に広がったこの夥しい量の血が鈴から流れ出たものでないのであれば、一体誰のものであるのか?
霧島は廊下の血液を怖々ながらも観察する。するとこれがある一つの場所から流れて来たものであることは明らかであった。
それは平居夫妻の部屋。
彼らの部屋へと通ずるドア。その下の隙間から血が流れ出ているのである。
まるで何筋もの川が湖へと流れ込むように。
いまも流れ出る血は廊下にできた血だまりを更に大きなものにしている。
「……いま、錀ちゃんが本館まで陣内さんを呼びに行っています。この部屋の鍵を開けられるのは平居さんたち以外だと彼だけですから」
霧島が声のした方を見ると東郷司が青褪めた表情で壁に寄りかかっていた。どうやらこの惨状を見て、気分が悪くなってしまったようだ。
しかし、それも当然のこと。
人はこれまで自分が経験したことのない出来事に直面すると非常に脆いものなのだから。
よく引っ越しなどで生活環境が変わり体調を崩した、という話を聞くがその多くが肉体ではなく精神に負荷がかかったことに起因する。
そのため、今回精神にその何倍もの負荷がかかった東郷司が体調を崩したのは何も不思議なことではないのである。
「司さん、大丈夫ですか? 座っていた方が良いんじゃ……」
「あ~、あはは。立って気を張っていないと私まで気絶しちゃいそうで……。うぷ……、落ち着くまでこうしてますから気にしないでください」
「……わかりました。でも無理はしないでくださいよ? 迷惑を掛けるとかそんなこと思わないで良いんですから」
東郷司は口を手で覆ったまま小さく頷く。
そして霧島がそれを確認したと同時に、錀が陣内を連れて戻ってきた。その後ろには高校生四人組の姿。どうやら東館から本館を抜ける際に合流したようだ。
「はぁ……、はぁ……、お待たせ……、しました…………。お父さん、鈴……は?」
全速力で駆けて来たであろう錀が鈴の安否を気遣う。外傷がないとわかっていても姉として心配せずにはいられないようだ。
「まだ目を覚まさないけれど大丈夫だろう。それにいまはそれよりも――」
「部屋の中を確認するのが先。そういうことだね? 幡君」
「はい」
掻い摘んでではあるが錀から事情を聞いていた陣内は驚きを表情に出すことなく、懐から鍵束を取り出し、目当ての鍵を見つけると平居夫妻の部屋の鍵穴へと突き立てた。
そして当然の帰結として、扉は開け放たれる。
ゆっくりと。
軋みを上げて。
「うっ……!!」
思わず霧島は呻き声を上げる。
それはその部屋の光景を目の当たりにしたということだけが理由ではない。
そう、扉を開けた瞬間に首から流れる自らの血に塗れた平居有里香の亡骸を目にしたことだけが理由ではないのだ。
最も霧島の精神を揺さぶったのは部屋を解放した際に溢れ出た血の臭い。
この世の何よりも濃く。
鼻に粘っこく纏わりつき。
嫌でも命を連想させる臭い。
それを嗅いだとき、彼は全身から汗が噴き出るのを感じた。
しかし、それを感じたのは何も彼だけではない。この空間だけ湿度が急激に上がったような、そんな感覚はこの場にいる誰もが感じていることであった。
「…………東郷様、霧島様。無理にとは申しませんが、部屋を調べるのを手伝って下さいませんか? 私一人では誰かがいた場合どうすることもできませんので」
「陣内さん、それなら僕が――」
一緒に行くと、口にしかけた井坂を陣内は手で制する。
「幡君、君は錀ちゃんと鈴ちゃんについていてあげなさい。彼女らには君しかいないんだから」
「…………わかりました」
「うん。――それで東郷様、霧島様、如何でしょう? 同行を願えますかな?」
「……返事をする前に一つ確認させろ。――その部屋には犯人がいるのか?」
東郷は真っ直ぐ陣内の目を見ながら、そう問いかける。
しかし、陣内の答えは素っ気ないものであった。
「それは断言できかねます。ですが、ここは平居有里香様のお部屋でなく、平居様ご夫婦のお部屋ですので。私は可能性があるということを述べたまでです。勿論、誰かが潜んでいてお二人に危害を加えようとする事態に陥れば、私は盾となることをお約束します」
「……チッ、わぁったよ。一緒に行ってやる。坊主はどうする? 気分が悪ィならここに残るか?」
その言葉は東郷なりに気を遣ったものであったが、霧島はといえばやや青ざめた表情ながらも既にその心を持ち直していた。
「いえ、僕も行きます。何かの役に立てるかもしれませんし……」
「そうか、なら爺さん、行こうぜ」
「はい。ではお二人とも私の後ろに……」
慎重に部屋の中へと三人は侵入していく。先頭は陣内、真ん中に東郷、殿は霧島である。
平居夫妻の部屋は他の宿泊客同様、ワンルームマンションのようなものである。違うところといえば、ベッドが二つ備えられているということのみ。
故に部屋と扉を繋ぐ通路に倒れる平居有里香の死体、凶器とみられる長包丁を超えればすぐに部屋の全貌が目に入る。部屋には障害物など殆どなく、隠れられる場所はベッドの下ぐらいなものだ。
そしてその唯一の場所を陣内と東郷が捜索する。
「……いねぇな。爺さんそっちは?」
「こちらにも残念ながらいらっしゃいません」
「ということは……」
三人の目が通路に向けられる。そこにあるのは有里香の死体の他にトイレへと繋がる扉が一つ。有里香とともに部屋に戻り、彼女が殺害された後も平居芳人がこの部屋にいるとすればもうそこしか考えられない。
「開けますよ…………」
「気ィつけろよ」
「はい……」
そうして霧島はトイレへと繋がる扉を開く。
ゆっくり。
ゆっくりと。
まるで家人を起こさないようにと細心の注意を払って盗みに入る不届き者のように慎重に扉を開く。
しかし、その行為は無駄でしかなかった。
そもそも。
その家人が眠りから醒めることなど、未来永劫ありえないからだ。
「うっ……」
有里香の夫である平居芳人は便器に腰かけながら、身体を後ろに逸らした体勢で絶命していた。
「こりゃまたひでえな……」
額と胸に大きな刺し傷。恐らくは有里香の命を奪った長包丁によるものであり、これらが致命傷になったのだと判断できる。
しかしながら、ここで重要なのは有里香や芳人の死因ではない。
「ですが、お二人とも亡くなられているということは――」
陣内はしゃがれた声を震わせて言う。
「一体誰が殺したというのでしょう?」
「ッ!!」
彼の言葉に霧島と東郷が息をのむ。
有里香の死体を見つけた時。
この部屋の探索を実行している時。
彼らは頭の何処かで芳人の無事を祈る一方で、彼が有里香を殺したのではないかという疑念に囚われていた。
しかし、こうして芳人の死体を発見してしまったことでその疑念は消え、陣内の言葉を引き金にして新たな謎が生まれてしまった。
二人を殺したのは一体誰なのか?
その人物は宿泊客、あるいは従業員の中にいるのではないか?
ひとたび、そうした考えが浮かべば人は簡単にその疑念を晴らすことは出来ない。そして、それは彼らにも当てはまることであったようだ。
「……とにかく一度部屋を出て警察に連絡した後、食堂にでも集まりましょう。これからのことを話し合う必要があります」
「そうだな……。仏さんはどうする?」
「気の毒ですが、平居様ご夫妻はこのままにする他ありません。警察の方に調べていただくためにも現場は残しておいた方が良いでしょうから」
「ですね……」
そうして三人は入ったときと同じ順番で部屋を出る。
しかし、一人ひとりがとる間隔は非常に広くなっていた。
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