天庵
塔の壁に窓として開けられた穴の前に立っていたのは一人の男。
その姿は先日見た黒いローブを着た姿ではなく、発せられた低い声とも相まって明らかに別人であると言い切ることができた。
短く刈り込んだ青みがかった髪に、無数の傷が刻まれた顔は厳めしく、歴戦の兵という印象を受ける。そしてその筋肉も相当なものらしく、着込んだ鎧から伸びた腕と脚からそれを窺うことができた。
しかし何よりも印象深いのはその巨躯に背負われた両刃の戦斧。目の前の男は二メートルを易々と超える大男であるにも関わらず、その戦斧はそれを更に超える大きさを誇っている。
通常ならばこの場からの撤退を考えるところだが前方は男で塞がれ、窓からの脱出は不可能。となると残るは背後にある下へと繋がる階段だけだが、如何せんそこまでやや距離がある。それは本当に僅かな距離だが、以前見た異常禍渦の膂力を鑑みればそこから逃げるのも不可能だ。
背中を見せるか、後方に跳んだ瞬間に切り伏せられて終わる。それほどまでに異常禍渦の力というのは凄まじいのだ。加えて走ることすら困難なこの身体では話にならない。
故に残る手段は一つ。
簡易門を使い、真下の床を抜くことでまず階下へ逃れる。そしてそのまま窓へ何とか移動し、再び簡易門にて移動可能地点ギリギリまでこの身を飛ばす。
動けない、戦えないではこれが唯一の方法。
だから迷わない。
この戦士のような出で立ちをした異常禍渦が何か行動を起こす前に事を起こさねば命はない。そう決断し、そして実行に移す前に――。
「待たれよ」
相手のその低く、そして威厳ある声で私の身体は凍りつく。
それは彼我の間に圧倒的な力の差が生じているが故の硬直。
私の周りだけ重力が数倍に膨れ上がったかのような錯覚によるものだ。
「私に敵意はない。貴公をどうこうしようという気はない」
「ふざけ……るなッ!!」
その告白は到底信じられるものではなく、思わず私は語気を強める。しかし、私の激昂を異常禍渦は受け流す。
「ふざけてなどおらぬ。私がこの場所に来たのは腹を満たすため。貴公を喰らっても何の足しにもならんし、それはここに集う人間も同様。餌のなくなった狩場に興味を見出すほど私は酔狂ではない」
腕を組み、私を見下ろす男には威圧感こそあるものの一切の虚偽は感じられない。
……これはどういうことだ?
禍渦は人に仇なすもの。にも関わらず目の前の人間よりも禍渦を喰らうことを優先するなどあり得ない。あってはならない。
「存在するだけで……、人に災禍をもたらす貴様らが……、何をぬかすか……!!」
「否定はせん。だが、それは我ら禍渦にはどうにもできぬこと。貴公らも息をするなと言われてもできぬだろう? それと同じことよ」
「自らの……存在理由を否定……するのか?」
「否。他の連中は知らぬが人を殺すことが私の存在目的ではない。そのように産まれたとしても、それを役目としてここに存在しているとしても、それに殉じていては私の悲願は叶わない。故、私は同胞を喰い、自由の身と相成ったのだ」
その言葉、その身体から迸るのは強烈で決して折れることのない信念であり、紛れもなく個と呼べる代物。
私が最後に抱く個とは比べ物にならないほど力強く輝く個を持つ目の前の男に対し、私は相手が異常禍渦であることも忘れて尋ねていた。
「貴様の名は……、何だ?」
「私に名乗らせたいならば貴公から名乗るのが礼儀というものだ」
「……失礼した。私はリーンハルト・デーレンダール。人間を脅かす……貴様ら禍渦を、根絶やしにするため……ここにいる」
「左様か」
その輝きに対する私の精一杯の抵抗を意に介する様子もなく、禍渦は顎を撫でながら頷く。
「私は禍渦なのでな。親もなければ、家族もない。当然、名というものもない。――だが、魂に刻まれた言葉ならば在る」
そして禍渦はその名を告げた。
「天庵。これからはこれが私の名だ」
「……それで天庵とやら。この土地で……、何をするつもりだ? 何もするつもりがないのであれば……、わざわざ私の前に現れる……、必要などないだろう?」
「何も。先にもそう言ったはずだ。餌を求めてここに着けば、貴公に先を越された。それだけのこと。そして貴公に会おうと思ったのは我らを壊す者がどのような面構えをしているか、見ておきたかっただけよ」
「……それはさぞ……残念だったろう? このような……死にかけの中年で……済まなかったな……」
皮肉を口にすることしかできないいまの私は天庵にしてみれば無様なことだろう。万全の状態であったとしてもこの男を満足させることなどできはしなかっただろうが。
「いや、どうやら私の直感は正しかった。貴公のような男に会えるとは思わなんだ」
しかし天庵の口から出たのは感嘆したような声。そして私がその真意を測りかねている間にも言葉は尚も紡がれる。
「貴公の胸のうちには私と同じく揺るがぬ想いがあると見える。だがそれゆえに惜しい。実に惜しい。貴公が十全の状態であれば我が胸の渇きも癒せたかもしれぬというのに。もしこの世に神がいるならば余程私は嫌われているらしい」
「神など……この世にいる……ものか……」
「そうか。ではそれを信じて私はまた歩むとしよう。リーンハルト、養生せよ。そしていつか私の渇きを癒す贄となれ。その日まで死ぬでないぞ」
「何を……、馬鹿なことを……ッ!!」
貴様の勝手な都合に巻き込まれて堪るものか。自己のためでもなく、誰のためでもなく生き物を殺す貴様ら禍渦などに我が身の心配などされてなるものか。
私がどれほどそう怒鳴りつけてやりたかったことか。それは私にしかわかるまい。しかし、そう強く願っても私の身体はやはり言うことを聞かず天庵が窓から姿を消すのをただ見ていることしかできなかった。
「この……ポンコツめ……」
『……良いじゃないか。生き残ったんだ。次の機会にその鬱憤を晴らせば――』
「次など……ない!!」
『ッ!!』
八つ当たりだとわかっていても声を荒げずにはいられない。禍渦を目の前にして些細な抵抗しか示すことのできなかった己の不甲斐なさは恥でしかなかったからだ。そしてその恥を受け入れるだけの精神的余裕など、いまの私にはもう欠片ほどもなかったのだ。
「私に次など……ないのだ……」
『リーンハル――――ッ!? 何だッ!?』
メフィストが身体の中で叫ぶのとほぼ同時に私も異常を感じ取る。
窓の外から差し込んでいたはずの日の光は既になく、塔の内部は暗闇で満たされる。この塔の外、サルハンの町も窓から見る限り同様のようだ。
そして何よりもおかしいのは突如鳴り響くこの轟音。塔が大きく揺れていることから察するに風、しかも相当の暴風がここを襲っているらしいが……。
壁際にまで何とか移動し、冷たいそれに身を預けながら、ゆっくりゆっくりと窓にまで接近する。じれったいが、自力で立っていられない以上こうする以外に手はない。
そしてやっとの思いで窓枠に手をかけ、外を見るとそこには信じられないような光景が広がっていた。
「なん……だ、これは……?」
空には猛威を振るっていた太陽の姿はなく、代わりにあるのは鼠色をした、厚い雲。そして乾燥しているといっても多少なり湿気を含んでいた大気が凄まじいスピードで更に乾燥していく。
暴風の大合唱の中でかすかに聞こえる悲鳴。戸惑い、恐怖、焦燥から成る三重唱。この町に満ちたその負の感情を取り込み、さらに異常は拡大する。
空が厚い雲に覆われた?
空気が異常に乾燥している?
そんなこと些細なことに過ぎない。
私の目の前の。
そして町の数キロ先の。
全てを飲み込んでやろうと迫る巨大な砂嵐。
シムーンと呼ばれる毒の風の前では何もかもが些末事に成り果てる。
考えられない事態に私は唾を飲み込もうとするが、私の口内からは既にその余分な水分すらも毒の風によって奪われていた。
いえーい……(低血圧)。どうも、久安です。
はい、今回は二体目の異常禍渦が現れました。一応外見には触れましたが各々自分の素敵マッチョな大人の男性の姿を想像すれば良いと思います。そういえば筋骨隆々なキャラって何気に初めてな気がするムキ。重宝するムキムキ。
では次回予告です。
前回ボソッと言っていた通り次回15話は明日3月11日 7時に投稿します。ただ16話(最終話)はやっぱり一日空けてさせてもらおうかな、と思ってます。もう出来上がってはいるんですが、大事なところなのでもう少し時間をかけたいな、と思いまして。
デハッ!!




