7:スタートライン
翌朝、香純が家を出るまでは、昨日と何も変わらない、慌ただしい朝の光景だった。
鳴海はとっくに家を出て、先に学校へ向かっている。
ごちそうさまと行ってきますが、ほとんど間をおかずに聞こえたところまで、昨日とほぼ同じだ。
昨日までと違う物を見つけたのは、自転車を取りにガレージに入ったときだった。
いつもはそこにあるはずの、シルバーのセダンがない。
代わりにガレージの端に停めてあったのは、艶のある黒いボディが機能的なアールを描き、二つのタイヤのホイールやマフラーなどが冴えた銀色に輝く、綺麗なバイクだった。
新車なのか、光沢のあるボディは曇り一つない。
バイクに関しては無知な香純にも、一見してそれが大型二輪に分類されるものだと分かった。
近付けばより迫力と存在感を増す大きさだが、遠目から見たフォルムからの印象は鈍重さとは無縁で、むしろ足回りの力強さを感じ取れる。
その一方で、ハンドルからシート、後部のフェンダーへの曲線は無駄がなく、どこか優雅にすら見える。
機能美ってのはこういうことか、きっと良く走るんだろうと、脈絡もなく思った。
珍しく声を弾ませて、憧れの眼差しを浮かべていた鳴海の姿が思い浮かぶ。
これなら、心が動くのも当然という気がした。
(ドーベルマンみたい。黒いし。ヒョウにも黒いのいたかも。でも、やっぱり馬かな。ツヤツヤした真っ黒い毛並みのサラブレッド――)
そこまで考えて、登校時間ギリギリだったことを思い出した。
急いで自分の愛車の前カゴに通学鞄を放り込み、防犯チェーンを外して、小走りにガレージを出る。
もう一度横目でバイクを見ると、さっきの思い浮かべた黒い毛並の動物たちとは別の、イメージが良く似たものを思い付いた。
愛車のペダルに足を掛け、一気に飛び乗る。
立ち漕ぎでぐいぐいと加速すると、スピードに乗るにつれて強さを増す向かい風が、夏らしく上がり始めた気温と梅雨を過ぎても停滞している湿度を吹き払ってくれる。
ちょっとした思い付きと心地良い風に、何だか楽しくなって、香純はペダルを漕ぐ足に力を込めた。
・ ★ ・
一現目の英文法は、昨晩に鳴海に協力して貰ったお陰でなんとかしのぐことができた。これで、次に当たるのは二週間先だ。
二現目の化学は教室移動なので、香純は教科書とノートとペンケースを抱えて二階の実験室に向かっていた。
「持ち主と所有物の間には、何かしらのソージセイが見られる、って誰かが言ってなかったかな」
「何だい、唐突だね?」
香純の隣を歩いているのは、幼馴染みでクラスメイトの片桐紅葉だ。
小ざっぱりとしたショートカットと悪戯好きな猫のような目元が印象的な、一言で言えばボーイッシュな女の子だ。
幼稚園からずっと同じ学校で、今年はクラスも同じになった。家も比較的近いので、学校外でもよく一緒に遊ぶ。
香純の一番仲の良い友達だ。
「どうせまた、何か思い付いたんだろ?」
「うん、ちょっとね」
付き合いが長いだけあって、紅葉は香純の思考回路を良く分かっている。
「ペットと飼い主って、なんか似てたりするじゃない?」
「選ぶとき、無意識に自分とか家族に似た子を可愛いって思うからじゃないか、って説があるけど。――それで?」
紅葉は、香純の突拍子もない話に的確な解説を加えた。
香純が縦横無尽に話題を振るたびに、紅葉はこうした豆知識をさりげなく披露する。
情報源はいつも読んでいる本なのかと思えば、普段持ち歩いているあれは小説で、別に雑学ネタ集のようなものではないらしい。
「うん。乗り物もおんなじかなって」
「乗り物って、車とか?」
紅葉の言葉に、香純はそうそうと頷いた。
話をしながら、どこか別のところに意識を飛ばしている香純に、紅葉は軽やかな笑い声を上げた。
「あれ、なんかおかしかった?」
「そっかー、香純は年上がタイプだったのか」
「えっ? なにそれ?」
「照れない、照れない。僕は応援してあげるよ。で、どんな人?」
「待って待って! 何か話が違うって!」
不可解な方向に転がり始めた話題に、香純は片手をぶんぶんと振ってストップを掛ける。
「あたし、そんな話してないよ」
「違うのかい? 車なんかに興味ない香純が急にそんな話するから、僕はてっきり、車かバイクに乗った素敵な人に会って一目惚れしたんだと思ったんだけど」
「全然違うったら、もう……」
一応否定はしたが、強ち的外れでもない辺りは、流石である。
「まぁ、香純は一目惚れするようなタイプでもないか。文字通りの花より団子、色気より食い気を地で行く子だからねぇ」
「どうせあたしは鈍感ですよ。……二人揃って、同じ事言ってくれちゃってさぁ」
「そりゃあ僕は、おばさんと鳴海の次に、香純のことを良く知っている人間だからね」
ぶつぶつと文句をたれる香純に、紅葉はそう言って目を細めて笑った。
そんな表情をすると一層チェシャ猫じみて、少し意地悪く見える。
「で、何があったのさ」
化学実験室に入り、定位置に座ってから、紅葉は内緒話をするように、香純の顔を覗き込んだ。
その瞳が好奇心で輝いている。
「んー、全部話すと長くなるかも」
「もうすぐ本鈴だから、十秒以内で」
「えぇ?」
自分で聞きたがっておいて、随分な物言いだ。
香純の抗議の声を、紅葉は腕時計の秒針を眺めて無視する。
「ほら、八、七、六――」
「昨日、うちにお父さんが帰ってきたの」
問答無用でカウントダウンを始めた紅葉に、香純は昨日の出来事をこれ以上無いほど簡略化して教えた。
香純の理解者を自称するだけあって、市原家の事情も良く承知している紅葉には、それだけで事態の半分以上が伝わる。
「――確かに、後でゆっくり聞いた方が良さそうだね」
紅葉がそう言うのと同時に、二現目の始まりのチャイムが鳴り響いた。
・ ★ ・
昼休みは香純にとって、非常に大事な時間だ。
なぜなら、学校で唯一公然とエネルギー補給ができる――つまりお弁当にプラスアルファする物が入手できる時間帯だからだ。
紅葉に言わせれば、あんなに美味しいお弁当を持たせてもらっているのに、追加でパンを買おうという考えが信じられない、だそうだが、体が欲するのだから仕方がない。
「余計に買うくらいなら、お弁当の量を、もっと増やして貰えば良いじゃないか」
「これ以上大きいお弁当箱って、あからさまに男性向けな奴しか無いんだもん」
「そこは割り切りなよ。男子並みに食べてるのは事実だろ」
そこは紅葉の言う通りだ。
購買で買ってきたクリームパンとコーヒー牛乳を、中身を取り出したランチボックストートと一緒に机の端に置いて、まずは弁当箱を開ける。
向かいに座る紅葉の弁当箱は、蓋に赤地のチェック柄がプリントされた、おかずとご飯を分けて詰める二段重ねのものだ。
香純のものも二段になった弁当箱だが、サイズが違った。
紅葉のはスリムタイプだが、香純のものは円を左右に引き伸ばしたような形をしている。内容量は一・五倍といったところだ。
ケースから揃いのお箸を取り出してから、右手でクリームパンの袋をぽすぽすと叩いて、香純はのたまう。
「こっちは、デザートだから」
「その発言も以外と規格外だって、分かってる?」
呆れ果てる紅葉の目の前で、香純は着実にお弁当の中身を空にしていく。
授業中よりもよっぽど集中している親友に、邪魔しちゃ悪いと紅葉も自分の食事に専念することにした。
およそ十五分後、食後のクリームパンをすっかりお腹に収めて、香純は締めのコーヒー牛乳をゆっくりと味わっていた。
当然ながら、弁当箱の中には米粒一つ残っていない。
幼稚園の頃からずっと、香純が給食や弁当を残したところを、紅葉は一度も見たことがなかった。
むしろ、隣の人間が文句を言って残そうものなら、なんてもったいないことをと嘆く。
その説教の意図が那辺にあるかはともかく、好き嫌いなく何でもきちんと食べるところは、紅葉が香純を偉いと思うことの一つだ。
それも一重に、彼女の母である優香の食育の賜物である。
飛び抜けて料理上手な母親に育てられるとこうなるのかな、と、紅葉は考えた。もちろん、ただそれだけではないだろうけど。
向かいの紅葉が、自分の顔をじっと見ているのに気がついた香純が、目をしばたかせた。
「なに?」
「別に。おばさんは偉いなと思っただけ」
紅葉の思考が読めなかった香純は、コーヒー牛乳のストローをくわえたまま小首を傾げる。
「気にしないで、ただの妄想だから。それより、昨日のことを話しなよ。昼休みは短いんだ」
食べ終わったお弁当の箱を、器用に一枚布で包み込みながら、紅葉は概要しか聞けなかった話の続きを要求した。
急かされた香純はというと、ストローをくわえたまま難しい顔になる。
「どこから言ったら良いかなぁ……」
「昨日家に帰ったところから、時系列順に。はいどうぞ」
一切の無駄を省いた合いの手に、香純は思わず笑ってしまった。
言われた通り、父が帰ってきたところから夕食後の話までを、かいつまんで話すことにする。
紅葉は香純が話し終えるまで、頬杖をついた姿勢で、時折相槌を入れつつ聞いていた。
「香純のお父さんって、ずっとアメリカにいたんだ」
「そうみたい」
「もういないと思ってたのは、勘違いだったんだね。良かったじゃないか」
「そう、なのかな?」
「そうさ」
確信をもって頷く紅葉に、香純は困った顔をする。
「なに、急に出てきて父親面しないで! とか思ってるわけ?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけど」
なにしろ、存在を認識してから、まだ二十四時間も経っていないのだ。そこまでの激しい感情を抱くようなことはまだ何も起こっていない。
「推理その二。もしかしたらドッキリじゃないか、と思ってる」
「そんなことないよ。……そもそも、うちのお母さんがドッキリの仕掛け人になれると思う?」
「無理だね」
香純の問いに、紅葉は即答した。失礼な言い種のようだが、香純の母が嘘が吐けないタイプであることは間違いない。
「じゃあ、おばさんの旦那さんなことに間違いはないわけだ」
「なに? その遠回しな言い方」
「“我思故我在”」
どこかで聞いたような単語が、紅葉の唇から滑り出る。紅葉が言うと何かの呪文みたいだ、と咄嗟に思った。
「疑わしいことがあるなら、確かだと思えることから、積み重ねていったら良いんじゃないかな?」
「別に、何も疑ってなんかないよ」
「そうなのかい? この場合は、懐疑的になっても仕方のないシチュエーションだと思うけど」
「それはそうなんだけどね」
香純は曖昧に笑って、机の上で重ねた自分の手の甲に視線を落とす。
「……あたしが知らないことは、まだたくさんあると思うけど……でも、お母さんは――お父さんも、嘘は吐いてないよ。ちゃんと、話そうとしてくれてたし、あたしたちのことも、聞いてくれるって言ってたし」
「へぇ、それはそれは」
自分の中の思いの輪郭をなぞるような独白に、紅葉は芝居がかった声をあげた。
「変かな?」
「ちっとも。それが信じられるなら、何よりじゃないか」
良かったね、と紅葉に微笑まれて、香純は途端に照れ臭くなった。
紅葉はどこか大人びて見えるから――香純が子供っぽいせいで、相対的にそう感じるのかも知れないが――つい色々な事を相談してしまう。
細々としたことまで喋ってしまってから、今みたいに我に帰ると、物凄く恥ずかしくなるのだ。
分かっているのにそれでも話してしまうのは、紅葉が聞き上手だからだろう。
「鳴海はなんて?」
「大体あたしとおんなじだよ。言いたいことは、いっぱいあるらしいけど」
「ふぅん、でも言わなかったんだ。意外だね」
香純と幼馴染みということは、当然、紅葉と鳴海も同様である。
「鳴海のことだから、辛辣なことの一つや二つは言ってると思ったのに」
「そう、最初だけね」
鳴海が帰ってきて父と対面したときのことをこと細かく教えると、紅葉は声を上げて笑った。
「鳴海が“良い子良い子”されるの図! 見たかったなぁ、それ」
「激レア映像だったね。もう二度とないと思うよ」
「でもさ、香純。それはたぶん、おじさんも――あ、おじさんって言っていいのかな? とにかく、あっちもちょっと戸惑ってたんだと、僕は思うね」
言われてみて、改めて昨日の父の様子を思い返してみる。
寛ぎきってはいなかったようだが、紅葉が言うような葛藤の色は見えなかったと思う。
「うぅん、どうなんだろ?」
「だって考えてもみなよ。別れた時には喋れもしない赤ちゃんだった子が、次に会ったら身長170センチの高校生だよ? リアル浦島太郎じゃない。うっかり子供扱いしたくらいは大目に見てあげないと」
紅葉が持ち出したたとえがあんまりだったので、香純はもう少しで吹き出しそうになった。
絵本に描かれているあの恰好と、黒のライダース姿はどう考えても結びつかない。無意識にその二つを合成した結果、さらに可笑しな映像が脳裏に展開され、慌ててそのイメージを打ち消す。
咄嗟に頬杖をついた手で口元を隠したおかげで、紅葉には気付かれていないようだ。
「でもまぁ、高校生にもなって頭撫でられたら、邪険にもしたくなるか。香純はまだ、そこまで遠慮なしになってないみたいだけど……やっぱり、面と向かったら緊張する?」
香純は素直に頷いた。父の事を誰だか分かっていなかった時の戸惑いは、まだ完全に消えてはいない。
「まぁ当然だね。こう言ったらなんだけど、お互い、ほとんど知らない相手なことに変わりはないんだし」
他人の特権をフル活用して、紅葉はばっさりと斬って捨てる。
なんだか同意するのが躊躇われて、香純は何度目かの曖昧な笑みを浮かべた。
「お父さんも緊張してたのかな……?」
「きっと、ね。でもそんなのはよくある話さ」
十数年顔も見せなかった父親が突然帰ってくるなんていう状況は、映画やドラマならともかく、滅多にお目にかかれないレアケースだ。
香純がそう抗議すると、紅葉は人差し指をピンと立てて左右に振った。
「そんな過ぎたことは、気にしても無駄。要は距離感の問題なのさ。香純は、お父さんとどう付き合ったら良いか、それが分からないんだろ?」
紅葉の指摘は、概ねその通りだった。
母や鳴海が一緒なら普段と同じでいられると思うが、二人だけになったら何を話したらいいのかも分からない。
その微妙な心を話すと、紅葉はくすくすと笑った。
「香純は可愛いなぁ」
「紅葉、意味わかんないよ」
「だってさ、それって思春期まっただなかの心理じゃないか」
「え……?」
女の子が、父親との接し方に違和感を覚え、距離感を計りかねるというのは、言われてみれば確かに思春期の状態に似ている、かもしれない。
自分も思春期まっただなかな筈の紅葉がそれを言うのもどこかおかしいのだが、それを指摘できる人間はここにはいなかった。
「完全に無自覚ってあたりが香純らしいな。ま、これで香純も一歩大人に近づいたね」
「えぇ?」
そういうことじゃないだろうと思ったが、別にそれでもいいかと言う気もした。
良くあることだと言われたら、そのうちなるようになると思えて、気が楽になる。
香純は、紅葉のその説を採用することにした。そもそも、あれこれ悩むのは苦手なのだ。
「多少納得いかないところもあるけど……ちょっとスッキリしたかも。……紅葉、ありがとね」
「どういたしまして。――で、そのお父さんが車に似てるわけ?」
「車じゃなくてバイク。似てるっていっても雰囲気の話で――あれ? あたしそんなこと言った?」
「実験室に行く前に、珍説を披露してたじゃないか」
「あー、そういえば」
あんなちょっとの話をよく覚えてるなぁと香純は感心した。
しかし、紅葉からすれば、とても印象に残る発言だったらしい。
「あの、恋愛のレの字も知らないような香純が、自分から男の話題を振るなんて、明日は雪だと思ったのに――蓋を開けたら“お父さん”だもの。僕は本気で香純の将来が心配だよ」
「だから、それは紅葉が先走り過ぎなの。あたしだって――」
なにか言い返したいが、その後が続かない。
憧れがないこともないが、今はテニスの比重が大き過ぎて、それ以外の入り込む余地がないのだ。
「まったく、いつになったら春がくるんだい?」
「人を南極大陸みたいに言わないでよ」
「あは、それ良いね。常冬娘?」
あんまりな物言いに、頬を膨らませて文句を言うが、紅葉はツボにはまったらしく、しばらくけたけたと笑い続けた。