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市原香純の未来観測  作者: 東雲涼
一章:家族錯誤からの脱却
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3:覆る大前提

 

「どじだなー」

「う、うるさいわね」

 ヘルメットの一件である。香純にも自覚はあるのか、頬が少し赤い。

 あの後、詳しい話は夕飯の後でね、と母に先手を打たれてしまったので、香純も自分の部屋に戻るしかなかった。

 だが、そんな状況で勉強に集中できるわけがない。どうにも堪えきれず、着替えが終わった頃合いを見計らって、鳴海の部屋に押し掛けたのだ。

 鳴海からは真っ先に騒音の出所を訊かれた。香純の声も十分大きかったが、ヘルメットが落下して転がった音も結構響いたらしい。お腹を抱えて遠慮なく笑われたので、むっとした香純は鳴海の脛にキックを叩き込んだのだった。

「じゃあ、やっぱりガレージにあった、あのバイクに乗ってきたんだ」

「たぶんそうだと思う。見たわけじゃないけど、そんな音したし」

「あれ、すげぇ格好良いぜ。香純も明日見てみろよ」

 鳴海は、頭の後で手を組み、椅子の背もたれに体重を預けて、憧れの眼差しで天井を見上げている。さっきのやや反抗的な態度を忘れたかのようだ。

「あんな奴に乗って走ったら、気持ち良さそうだなぁ。おれ、普通じゃなくて二輪を取ろうかな」

 鳴海は、十八になったらすぐに運転免許を取るつもりでいるのだ。

 鳴海が相談すると、母は了解すると同時に条件を付けた。進学先を決めたら――要するに、大学受験に合格したら、教習所に通うことを許可します、と言ったのだ。

 鳴海は既に希望する大学を決めている。進路指導の先生は今の鳴海の成績なら、間違いなく合格できると太鼓判を押した。むしろ、もっと上を狙ったらどうかとまで言ったらしい。

 二年生に対しての評価としては少々過大なような気もするが、鳴海は学年屈指の成績を誇るので、強ちその期待も的外れではない。

 鳴海が進路を決めた理由はレベルだけではなかったので、結局希望は変えなかった。

 一般入試でも十分合格できる大学を希望してなお、鳴海が予備校に通っているのは、準備を万端にするためと、推薦入試の枠を狙っているためだ。

 なぜ推薦枠を取ろうとしているかと言うと、推薦入試は一般入試の前に行われ、それだけ合否が早く決まる。つまり、少しでも早く合格を決めて、免許を取りたいからなのだ。

 弾みをつけてベッドに飛び乗った香純は、鳴海の言葉に首をかしげる。

「なんで? 普通車くるまの免許取るって言ってたじゃん」

「別に良いだろ。二輪だって」

「だめ~!」

「なんでだよ」

 普通免許を取ると言っていた鳴海が、急に趣旨を替えたので、香純は口を尖らせた。

「バイクじゃ、三人乗れないじゃない」

「なんでそうなるんだよ。そんなに言うなら、香純も自分で免許取ったら良いだろ」

「そうだけどさぁ……」

 もっともな鳴海の言い分に、香純の語尾が尻すぼみになる。

 正直なところ、香純は免許取得には積極的になれないでいた。母曰く、取っておくと何かと便利よ、とのことだが、無ければ無いで何とかなるとも思う。自宅が駅から近く、遠出するにも不便を感じたことはないから、余計にそう思うのだ。

「まぁ、香純は取りたくなったら取ればいいんだよ。おれも受験終わるまではお預けだしさ。どっちにするかは、その時になったらまた考えるよ」

 トーンダウンした香純に、鳴海は朗らかに言った。自分の決めたことは香純が何を言っても覆さない鳴海だが、聞く耳がないわけではない。鳴海自身も、当初の目的を忘れたわけではないが、心惹かれるものを目にして少し揺らいでいることを自覚しているのだろう。

「とりあえず、車運転できるのは母さんだけじゃなくなるし――」

「そうだ。その話をしにきたの」

「ん?」

「……お……お父さんのこと」

「あぁ」

 香純が言い辛そうに「おとうさん」と発音すると、鳴海も苦笑する。言いなれないし、聞きなれないので妙な照れがある。

「鳴海は、何時から知ってたの?」

「何を?」

「だから――お父さんが生きてたってこと」

 そうなのだ。

 香純が自分の足の上に物を落っことす程に驚いたのには、驚くだけの理由があった。

 何を隠そう、香純は、自分の父親はもう他界しているのだと思っていたのだ。物心ついてからこの方、今の今まで父親の顔を見たことがなかったのだから、それも仕方がない。

 香純にとって、自分の父親についての認識の出発点は、「うちにはお父さんはいないんだ」という所から始まっている。小学校入学時には父は家に居なかったから、それ自体は大きな間違いではない。

 いつのまにか、「いない」という部分の情報が、「“家に”いない」から、「“この世に”いない」にすり替わってしまっていたが、その認識のずれを正す機会は、今日まで一度たりとも訪れなかった。そもそも、何がその勘違いを生んだのかは、もう遠い記憶の彼方に忘れ去られて定かではない。

 ただ、その条件は鳴海も同じのはずだった。

「もしかして、覚えてたとか?」

「さっきも言ったけど、覚えてるわけないだろ」

「だよね……。じゃあなんで――」

 鳴海は少し気まずそうに視線を逸らした。

「二週間くらい前に、母さん宛てのエアメールが届いてた。差出人を見たら、“KAIRI ICHIHARA”って」

「それって」

「住所はニューヨークだったよ。番地までは覚えてないけど」

 それは、母の言葉とも一致する。

「で……え、それだけ?」

「それだけでもないけど……。さっき、母さんの名前を呼び捨てにしてただろ」

「あれ、そうだったかな」

「してたんだよ」

「ふぅん……それで?」

 どう関係あるの、と首を傾げる香純に、鳴海は思わず半眼になった。とぼけているのかと疑ってしまうが、本気で分かっていない顔に深いため息を漏らす。

「……普通、男が女の名前を呼び捨てにするって、限られるだろ。親兄弟か、そうじゃなかったら――」

「あ、そ、そっか……」

 鳴海はみなまで言わずに説明を打ち切った。ようやく香純にも理由が呑み込めた。

 優香の両親、香純と鳴海にとっての祖父母にあたる二人は、香純たちが小学生のころに相次いで他界している。

 優香は祖父母の一人娘だ。親戚なら他にもいるが、香純たちが会った中には、母の名前を呼び捨てにするような人物は居なかった。

 鳴海は顔を顰めてそっぽを向いている。なんでそこまで説明しなきゃいけないんだというやるせない気分を全身で表現していた。

「香純は本っ当ににぶいんだよなぁ」

「そんなこと言ったって……分かんないものは分からないんだから、しょうがないじゃない」

「別に悪いとは言ってないさ。いつまでも純真ピュアでいられるのは凄い才能だろ」

「……その言い方に悪意を感じるのは気のせい?」

「気のせい、気のせい」

 こういうときだけは敏感に反応してむくれる香純の追求を、鳴海は軽い調子で受け流した。

「それにしても、なんであたし、お父さんはもういないって思ってたんだろう」

「さぁな。香純は昔っから思い込みが激しいたちだし」

 それについては、これ以上ない検証結果が出たばかりなので、香純に反論の余地はない。

「物凄くちっちゃい頃に、お母さんに聞いたんだったような……」

 それは香純が幼稚園の頃の、断片的な記憶だ。


 幼馴染みの紅葉くれはが、しきりに「パパ」の話をするから、香純は訊いた。

「“ぱぱ”って、だれ?」

「パパはパパだよ」

 紅葉に聞いても分からなかったから、次に同じ事を先生に質問した。先生の答えは簡潔だった。

「お父さんのことよ」

 “おとうさん”は知っていたから、“パパ”が何かは分かった。でも分からないことが増えてしまった。

 紅葉が一生懸命話していたのは、要約すれば、“パパ”が遊んでくれて楽しかったというだけの、至極細やかな日常なのだと、成長した今なら分かる。

 でも当時の香純には特別なことに思えて、迎えに来た母に聞いたのだ。

「香純のおとうさんはどこにいるの?」

 と――


 香純に思い出せるのは、そこまでだった。

 その時母がどんな顔をしたのかも、目隠しして撮影した映像のように、どうやっても再生することができない。

「そんな事あったか?」

「うん。紅葉がパパ、パパって言ってたのはよく覚えてる」

「ふーん……」

 香純が朧な記憶を辿っている間に、鳴海は通学鞄の中から教科書やノートを取り出して机に広げていた。

 授業のノートに目を通しながら、耳は香純の話を聞いている。器用な奴、と思いながら、香純は構わず話を続けることにした。

「お母さんに、何か言われたと思うんだけどなー」

「なら、母さんに聞けば?」

 鳴海は振り返りもせずにあっさりとそう言う。

「三歳かそこらの怪しい記憶を思い出そうとするより、手っ取り早いだろ」

「き、聞けないよ、そんなこと。今更――」

「何でもいいけどさ。おれは、別に気にならないし」

「なによ、薄情者!」

 香純がむくれて鳴海に八つ当りしたとき、階下から二人を呼ぶ母の声が聞こえた。


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