2:メン・イン・ブラック
とりあえず数学のプリントに手を付けたものの、案の定、シャーペンの先は一問めから遅々として進まなかった。
教科書や参考書の例題を見比べ、授業のノートを見返しても、何がどうなってこのグラフが描けるのかさっぱり分からない。
数学は一旦放棄して、差し迫った明日の英文法の対策をしておこうと教科書の手を伸ばしたとき、外から聞き慣れない低いエンジン音が響いてきた。
四輪車のエンジンの音とは明らかに違う。かといって、スクーターの音でもない。
香純はバイクに詳しくはないが、なんとなく大型バイクなのではないかと思った。マラソンや駅伝を先導しているあれだ。
そのエンジン音は、すぐ近くまでやってきたかと思うと、家の前で止まった。しばらくすると、アイドリングしていた音もぴたりとやむ。
(近所の誰かのバイクかな? 聞いたこと無い音だけど。そういえば真向いのお兄さんがバイク持ってたかも……)
文法の教科書をパラパラと捲りながらそんな事を考えていると、出し抜けに玄関のチャイムが鳴らされた。母がキッチンから声を掛けるのが聞こえる。
「――香純? 悪いけど代わりに出てくれるかしら。今、手が離せなくて」
「はーい」
ようやく開いた明日の授業のページを机に伏せて、香純は大声で返事をした。
部屋を出る前にちょっとだけ姿見を見る。今着ているのは半袖のプリントTシャツにデニムのハーフパンツ。部屋着にしているものだが、そんなにおかしい恰好ではない。
部屋を出たところで、もう一度チャイムが鳴った。きっと宅配便か何かだろう。
「今行きまーす」
声を張り上げて一段飛ばしに階段を駆け下り、玄関に向かう。
ろくに覗き穴も確認せずにドアを開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。
てっきり宅配便だと思い込んで、手にはシャチハタの判子まで持っていたのに、その男はどう見ても荷物を届けに来たドライバーなどではなかった。
まず目についたのは、黒い革のジャケットと、同じく革のストレートパンツ。それと、妙にごついブーツだ。ジャケットの右肩からやや斜めに配されたジッパーは、胸のあたりまで下されていて、襟元から濃紺のTシャツが覗いている。
フルフェイスのヘルメットを小脇に抱え、足元には大きめのスポーツバッグが無造作に置かれていた。
夏の盛りを迎えようというこの季節には不似合いに過ぎる黒ずくめに、香純は目を丸くして言葉を失った。
男も香純をじっと見たまま一言も発しない。
香純より頭一つ高い――香純もクラスメイトの中では長身の方なのに――その顔は、鋭い目付きと引き締まった口元が精悍な、一言で言えば男前だ。
短く整えられた髪が少し乱れているのは、たぶんヘルメットを脱いだからだろう。だらしない感じは一切せず、逆に野性味が強まって男振りを上げている。
友達が見たら黄色い声を上げるだろうなと思ったが、やはり知らない顔だ。だがその一方で、何処かで見た気もする。
不思議な既視感にたっぷり十秒は黙り込んでから、香純はようやく自分のするべきことを思い出した。
「あの……どちらさまですか?」
探るように訊ねると、男は少し目を見開いて、それから納得したように小さくああと呟いた。
「お前、香純か」
「えっ?」
何でこの人は自分の名前を知っているのだろう。しかも、初対面なのに二人称が“お前”とは。
うろたえた香純が二の句が継げずにいると、背後からパタパタとスリッパの音がした。音の源を追って、男の視線が香純の背後に移動する。
「香純? どうしたの? ――あら」
振り返ると、エプロンで手を拭きながら母がキッチンから出てきたところだった。
優香は香純の後ろに立つ人を目にして若干驚いた表情をしたが、すぐに嬉しそうににっこりと笑って
「お帰りなさい――海里」
と言った。
母がこの家で、自分と鳴海以外の人間にその言葉を使ったのを、香純は初めて聞いた。
予想外の母の言葉にさらなる混乱に見舞われた香純の横を、男はごく自然に擦り抜けてドアの内側に足を踏み入れた。家の中の様子も勝手知ったる風に、上がり框に腰を下ろして靴の紐を緩め始める。
「戻るのは来週だと思っていたけど」
「急に予定が早まった。連絡出来なくて悪かった」
「いつ決まったの?」
「昨日の朝だ」
「まぁ。それじゃ無理もないわね」
男が靴を脱ぐ間に交わされた言葉は非常に親しげで、香純は当惑したまま立ち尽くした。脳裏を埋め尽くした“???”が表情にもにじみ出ている。
どうやら優香はこの男の来訪を予め知っていたようだが、それでもまだ彼の正体は謎のままだ。
「驚かせてすまなかったな」
「いいのよ。一週間早く会えたんだもの。……あら、でも、どうしましょう。お夕飯が」
「機内で済ませてきたから、気にしなくていい」
「――でも、お口に合わなかったんでしょう?」
小首を傾げた優香は悪戯っぽく笑いながら訊ねた。
確信めいた質問に男はノーコメントを通したが、一瞬浮かんだ微妙な表情が肯定したも同然だった。優香はくすくすと笑う。
「やっぱり、もう一品作るわね。香純、荷物を運ぶのを手伝ってあげて」
「え、あ、うん」
突然名前を呼ばれて、香純は反射的に頷いてしまった。
色々と確認しなければいけないことがあったのに、母の後ろ姿は軽い足取りでキッチンへと消える。
頷いてしまったからには、手伝わないといけないだろう。
諸々の疑問を棚上げにして、香純は足元のスポーツバッグに手を掛けた。わけが分からないからといって放り出せないのが、香純の素直なところである。
持ち手を握って持ち上げると、ずっしりとした重みが腕にかかった。香純も日頃からテニスで鍛えられているが、自分のラケットやシューズを入れたバッグよりもずっと重い。
いったい何が入ってるんだろうと考えたとき、すいっと手が延びて、香純の手からバッグを取り上げた。代わりにヘルメットをぽんと渡される。
えっと思う間もなく、黒ずくめの後ろ姿はバッグを担いで廊下に上がっていた。
謎の男は、何のためらいもなく歩いて、突き当たりの書斎に向かった。ドアを開けて中の明かりを点けると、ドアのすぐ横にバッグをどさりと置く。
一連の動きに、迷いは一切見られなかった。まるで、この家の間取りを――明かりのスイッチの位置すらも、昔から知っていたかのようだ。
香純は玄関の施錠も忘れて、書斎のドアに駆け寄った。ヘルメットを抱えて、そっと中を覗く。
ばさりと音がして、革のジャケットが椅子の背もたれに引っ掛けられた。濃紺のシャツの背中が見える。現わになった二の腕は引き締まっていて、後ろ姿だけでも普段から鍛えているのだと想像できた。
彼は、はめていた腕時計を外して、デスクライトの下に置かれたトレイに乗せた。そこが定位置なのだろう。
「あ、あの……」
「ああ、それの上に置いておいてくれるか」
香純がためらいがちに声をかけると、男はドアの横のスポーツバッグを指してそう言った。そして、書斎の北と西の壁を埋め尽くしている造り付けの本棚をゆっくりと見渡す。
そこには、経営の専門書や解説書、マーケティング戦略などの本に、分厚い辞書や辞典、たまにソフトカバーの小説やエッセイが並んでいる。
上から順に目でおっていた男は、下の方の一画に収められた、商用の書籍とは明らかに違う装丁の本に目を留めた。十冊ほどある厚めのそれの背表紙には、丁寧な手書きの文字で西暦が書き込まれている。
それは香純たちの写真が収められたアルバムだった。学校行事や旅行先での写真が、日付順に整理されてあり、イベントがあるとその都度増やされていく。次に写真が追加されるのは、香純が参加するインターハイテニス地方予選の写真になる予定だ。
背表紙の数字を指でなぞった彼は、新しい方から三番目のアルバムを本棚から抜き取った。
一枚、二枚と無言でページを捲るその横顔を、香純は穴が開くほど凝視した。初見で感じた既視感は強まるばかりである。
見ているだけで謎が解消するわけではないのだが、座りの悪い気分を抱えたまま立ち去る気にはなれなかった。
アルバムを丁寧に眺める彼は、穏やかな表情をしている。確信は持てないが、友人や親戚の家族写真を興味深く見ている、という顔とは、少し違うような気がした。
香純が立ち尽くしていると、ふと男が顔を上げた。香純がまだそこに居るとは思っていなかったのか、意外そうな顔をする。
「どうした?」
「あ、え……っと、荷物はこれだけ、で、すか?」
語尾がしどろもどろになったのは、男に対してどう接したら良いのか分からず、迷った末にとりあず敬語を使うことを選択したからだ。香純にとって明確だったのは、男が母と親しい間柄で、自分より確実に年上であるということだけだ。
香純の慌てぶりが面白かったのか、男は目を細めた。
「ああ。今日のところはこれだけだ」
男の答えには気になる単語が含まれていたが、香純がそれを訊き返そうとしたとき、玄関のドアがガチャリと開いて、「ただいま」という声がした。鳴海が帰ってきたのだ。
「――あ、おかえり……」
「なんか、うちのガレージにでっかいバイクが停まってたけど、あれって――」
制服姿の鳴海はノートや教科書の詰まった鞄の他に、駅前にある書店の紙袋を提げていた。どうやら目当ての本を見つけてきたらしい。
靴を脱ごうとして見慣れないブーツを見つけ、鳴海は来客に気が付いたようだ。ついでに、香純が腕に抱えたままのヘルメットを見て、それをバイクの主と関連付ける。
「お客さん? 誰? 知り合い?」
「えっと……」
廊下に上がった鳴海は矢継ぎ早に質問してくるが、香純は何と答えて良いのか分からず口ごもった。それを教えて欲しいのは香純の方なのだ。
煮え切らない香純を不審に思ったのか、荷物を手にしたまま鳴海が歩み寄ってくる。
「何やってんの、そんなところで」
「うーんと――」
「――お前が鳴海か。二人とも大きくなったな」
香純がどう説明すればいいのかを迷っているうちに、書斎から男が顔を出して鳴海に声を掛けた。鳴海は見知らぬ男から親しげに呼びかけられて、怪訝そうな顔をする。
香純の時もそうだったが、今も、誰も名前を呼んでいないのに、鳴海のことを言い当てた。母の知り合いなら二人のことを聞き知っていてもおかしくはないが、その口ぶりはどちらかというと、小さい時の二人を直に知っているようだ。
鳴海もどう返していいか迷っているようで、眉をひそめたまま男をじっと見ている。
並んだ二人を見て、香純の中に閃くものがあった。それは不思議な既視感の正体。
香純の思考がそれより先に進もうとしたときに、キッチンから優香が顔を出した。
「鳴海、おかえりなさい。お夕飯はもう少しかかるから、先に着替えていらっしゃい」
「お母さん、ちょっと!」
「なぁに?」
香純は思わず母を呼び止めた。優しく返事をする母に、香純は何と訊ねたらいいのか言葉に詰まる。
母はこの男が何者なのか知っているはずだが、まさか本人の目の前で「この人、誰?」などと訊くわけにはいかない。それはあまりにも失礼すぎる。
今此処で訊いておかなければ、きっとこの先にも訊けなくなってしまう。でも、どう言えばいいのだろうと焦っている香純に、意外なところから助け舟が出された。
「優香、この子達に説明してないのか?」
「……そういえば、まだだったかしら」
うっかりしてたわ、と、普段と一切変わらないおっとりした調子で母が言う。
「まだ日があると思ってたから……」
「それを言われると耳が痛いな」
「違うのよ。わたしもびっくりして舞い上がってたみたい」
一応、何か伝わっていないことがあると気付いて貰えたのは良かったが、和やかな会話からはいつその何かが聞けるのかが分からない。
じれったいその流れを香純はひたすらに耐えていたが、答えは別のところから齎された。
「――もしかして……父さん?」
黙ってじっと男を観察していた鳴海が、探るように口を開いたのだ。
しかし、あまりにとんでもない内容に、香純の頭がそれを理解するのには少々時間がかかった。
母も男も否定しない。それどころか
「なんだ、鳴海は覚えていたのか」
などと言って、鳴海の頭を乱暴に撫でる。
「やめてくれよ。別にそういうわけじゃないから」
鳴海は顔をしかめて少し後ずさると、ぶっきらぼうに言い残して二階に上がってしまった。
香純は今までの遣り取りを五回ほど反芻して、それでもまだ飲み込みきれない風に二人の顔を交互に見る。
「……おとうさん? あたしたちの?」
本当の? とまでは口には出さなかったものの、言いたいことは充分に伝わったようだ。
「そうよ。今度ニューヨークから戻ってくることになったの」
硬直している香純に、優香はにっこりと笑って大きく頷いてみせた。
色々とまだ説明は足りていないものの――その言葉は、香純の中の常識の一画を瓦解させる破壊力だった。
一瞬、頭の中がホワイトアウトする。
「……え……えぇぇぇぇ――――っ!?」
香純の叫びが家中に響き渡る。
自分の悲鳴に驚いて取り落したヘルメットが、ルームシューズに包まれた香純の爪先にクリーンヒットした。