1:昨日の続きの日常
六時に起床すると、香純は顔を洗って急いで身支度をする。
肩より少し長い髪は緩くカーブした癖っ毛で、寝癖が付くとなかなか取れない。跳ねないように直すのが精いっぱいで、髪型はいつも簡単なポニーテールだ。
一階に下りてダイニングに行くと、トースターから香ばしい匂いがする。
市原家の朝食はいつもパンだ。卵の焼き方は日替わりで、今日はハムエッグのらしい。それから付け合わせのサラダと、小さな器に盛られたヨーグルト。ヨーグルトにはバナナが入っている。これは香純がリクエストしたものだ。
テーブルにはいつも鳴海が香純より先に座っている。
目覚まし時計のアラームは同じ時間に鳴っている筈なのに、香純が鳴海より先に下りてきたことはまずない。家を出るのも鳴海の方が先だ。
香純が朝ごはんを食べ終わるのがだいたい七時ごろ。ごちそうさま、と、いってきます、が続けて聞こえるのもいつものこと。
自転車で学校へ。
私立翠峰学園は、家から自転車で十五分の距離にある。高等部の校舎は山の上にあるから、登校する時は上り坂を行かなくてはならない。自転車通学に朝バナナは必須だ。
八時の本鈴で授業が始まる。
香純にとって、授業は“本業”ではあるが“本番”ではない。根は真面目なのでやることはきちんとやっているが、午後になると気持ちは放課後へと飛んでいる。
六限目が終わると、すぐに荷物を纏めて教室を飛び出す。部室で着替えて向かうのは、校庭の隅にあるテニスコートだ。
高いフェンスで囲まれた三面のコートは、中等部の軟式テニス部と交代で使っている。香純の所属する硬式テニス部の練習日は、火曜と木曜と土曜。限られた練習時間は有効に使わなければいけない。
夢中で練習していると、あっという間に日が暮れる。部長の指示で片づけを始め、着替え終わって帰るころにはもう夕方の五時を回っている。
走りつかれて足はくたくただ。こんな時には下り坂がありがたい。
家に帰ると、まずお風呂掃除をする。どうせシャワーを浴びて着替えるので、そのついでだ。
さっぱりしたところで、鞄からプリントの束を取り出し机に向かう。翠峰学園は進学校ではないが、そこそこレベルの高い学校で、しかも宿題はわんさかと出される。ちょっとでも溜めると後で泣きを見るので、こまめに片づけなくてはいけない。
解答に詰まったら、隣の部屋のドアを叩く。鳴海は成績が上から数えて一桁の枠から出たことが無い優等生で、しかも教え方がとても上手だ。
でもあまりにも回数が多かったせいでうんざりしたのか、最近は一日三問までしか相手にしてくれない。それ以上になると、とても厳しい交換条件を付きつけられるのだ。だから仕方なく、ぎりぎりまで考えて、どうしてもわからないものだけ聞くことにしている。
プリントの束と格闘して、ようやく今日の分を片づけると、一階からお母さんの呼ぶ声がする。夕飯の時間だ。
ダイニングテーブルのいつもの位置に、お母さんと鳴海と香純が座る。三人で食事をする間、香純は喋りっぱなしだ。お母さんが相槌を打ち、鳴海に突っ込みをいれられ、賑やかに食事が進む。
夕飯のあとは、毎週チェックしているドラマを観て、そのあとがお風呂タイムだ。ゆっくり湯船に浸かって扱き使った腕や脚を解す。
適度に温まったら、自分の部屋に戻り、ベッドの上で軽くストレッチをする。練習や試合で怪我をしないためにも、柔軟な身体を保つことは重要なのだ。
一通りのメニューを熟すと、そのまま電気を消して布団へ潜る。
そして、翌朝にはまた目覚ましのベルから少しばかり遅れて目を覚ますのだ。
概ねのところ、これがここ最近の市原香純の日常である。
・ ★ ・
夏至を少し過ぎた頃の日が長い季節とはいえ、夕方の六時ともなれば、辺りは薄暗くなりつつある。
大会が近いこともあって、今日はぎりぎりまで練習をしていたので、帰りが遅くなってしまった。
山の東側は、空がまだ明るくても地上は薄暗い。ヘッドライトを点けた自転車で家路を急ぐ。
香純は下り坂を快調に飛ばしてきた愛車にブレーキをかけ、自宅の前に着くなり、たむっと軽い足音を立てて降りた。そのまま小走りでガレージに向かう。
屋根付きのガレージにはシルバーのセダンが停まっている。ガレージは車が二台は入る広さだが、今のところこれ以上車が増える予定はない。左側半分が開けてあるのは、たまに車でやって来る来客のためだ。
ガレージの右端の奥側が、香純の自転車の定位置だ。手前側は鳴海の自転車置き場だが、今そこには自転車はない。
愛車を壁際に寄せてチェーンで固定すると、香純は玄関に回った。
玄関の横の窓から、リビングの明かりが漏れていて、奥に人影が見えた。母が帰宅しているのを確認して、玄関のドアを勢い良く開ける。
「ただいまー」
「香純? お帰りなさい。あら、もうこんな時間」
リビングから、母ののんびりした声がする。
ルームシューズを爪先に引っ掛けてリビングに入ると、エプロン姿の母が机の上に広がった書類や何やらを掻き集めているところだった。
確かに慌てているようだが、声だけ聞くとそうは思えない。
「仕事、してたの?」
「これは明日までに読めば良いのよ。先にお夕飯の支度始めないとね」
香純の母――市原優香は、老舗呉服屋『華いち』の女将をしている。女将といっても、民宿や小料理屋のそれのイメージと、優香のこなす仕事はだいぶ違う。
『華いち』は老舗であるだけでなく、東京・大阪・福岡に三店舗を構える一企業で、優香はその筆頭株主であり代表取締役――平たく言えば社長なのだ。
しかし、香純にとっては、優香は優しいお母さん以外の何者でもない。
今日のように、家に書類を持ち帰って読んでいたり、日曜日に電話が掛ってきて何やら難しい相談をしていることはしょっちゅうだが、二人の子供が返ってくる時間には必ず家にいて、おかえりなさいと迎えてくれる。
三度の食事は優香が作り、夕飯は必ず揃って食べる。掃除や洗濯も、決して人任せにはしない。
あまりに忙しい時などは代行サービスを頼むこともあるらしいが、社長という仕事の大変さを考えればそれくらいは許されると思うし、香純にも何の不満もない。
「お買い物は? 行ってこようか?」
「帰りに寄って来たから大丈夫。今日のおかずは鶏手羽の照り煮よ」
とんとんと書類を纏めながら、母がにこにこと笑って言った。
優香は料理上手である。和も洋も、魚料理も肉料理も、ケーキもクッキーも、母が作ったもので不味いものは出たためしがない。
特別な日に外食をすることはあるが、それは主に特別な日の雰囲気づくりと、優香に手を休めてもらうのが目的であって、一番美味しいのはやっぱり母の手料理だと香純は思う。
小さいころに食いしん坊とからかわれたのも、この美味しいごはんとおやつのせいである。
その娘である香純はといえば、今はテニスに夢中で食べる方専門になってしまい、未だに料理の腕を受け継ぐには至っていない。
「鳴海は? まだ予備校?」
「帰りに隣の駅の本屋さんまで行ってくるって。探してる本があるらしいわ」
「ふーん」
「汗かいたでしょう? シャワーを浴びていらっしゃい」
「うん」
今日は数学のプリントが五枚も渡された。中身は授業を聞いてもよくわからなかった対数の問題だ。これは鳴海の個人授業を受けないことには片づけられそうにない。
しかも明日の一限目は英文法だ。英文法の先生は座席順に問題を当ててくるが、明日は香純のところまで順番が回ってきそうなのだ。 宿題と予習のどちらから先に手を付けるべきか、頭を捻りながら、香純はバスルームに向かった。