12:明日ヘ続く日常
翌日の昼休み。
弁当の包みを抱えた香純は、紅葉と一緒に校舎の屋上に向かっていた。
普段は教室で昼食をとる二人だが、鳴海と持ち合わせる場合は、天気が許せば屋上を利用することにしているのだ。
屋上は普段生徒の立ち入りが禁止されているエリアなのだが、屋上に出るドアは数年前から鍵が開きっぱなしになっている。
それを知っている一部の生徒は、目立たないように入り込んで、勝手に憩いの場所として使っているのだった。
教師の姿がないのを確認して、四階からさらに上へと階段を上る。
踊り場を折り返すと、屋上への出口である小さなアルミのドアがそこにあった。
普段の掃除区域からは外れているので、全体的に埃っぽい。ドアに張られた立入禁止の張り紙も剥がれかかっていて、ほとんど用を成していなかった。
ノブを回してドアを押し開けると、蝶番がきしむ音がした。なるべく響かないように、少しだけ開けて隙間から外に滑り出る。
今日の空は見渡す限り一つの雲もない、文句なしの快晴だ。
「うわ、暑っ! 日陰に行こう、日陰」
そっとドアを閉めていた紅葉も頷き、二人は出入り口と給水塔を兼ねた建物の北側に回る。
目指した場所には、二人の先客がいた。
「遅い。全部食い終わるかと思ったぞ」
壁に寄り掛かるように座っていた鳴海が、八割がた空になった弁当箱を手に、香純と紅葉を見上げた。
「こっちは体育だったの。乙女の着替えには時間が掛かるのよ」
「それでも遅過ぎ。おれはお前の身代わりやってたんだから――ほら」
鳴海がぽいと放った丸っこいものを、香純は慌ててキャッチする。無事に手の中に収まったそれは、香純が言うところのデザート、商品名はクリームパンだ。
「香純、鳴海にパン買いに行かせたのかい?」
「だって、今日は出遅れそうだったからさ」
「僕に一言もなく?」
にこっと口角を上げてそう言う紅葉だが、目はあまり笑っていない。香純は内心しまったと思ったが、同じ表情のまま返答を待つ紅葉に誤魔化しは効かない。
「えっと、ごめん……?」
「紅葉。これも買っといたから」
口元をひきつらせる香純の横から、紅茶のペットボトルを鳴海が差し出す。紅葉お気に入りのロイヤルミルクティーだ。
「いいの?」
「後で香純から徴収する」
ぱっと顔を綻ばせる紅葉に、しれっと答える鳴海。資金の出所について香純は抗議したかったが、そんなことができる雰囲気ではなかったので、黙るしかない。
「――お前ら、人が寝てる横で面倒くさい会話してんじゃねぇよ」
もう一人の先客であった瑛郁が、不機嫌さを微塵も隠さない声音で言った。
何か用事でもあったのか、勇の姿はない。
鳴海と瑛郁だけが並んでいるというのも、最近にしては珍しい光景のような気もする。
「てか、何で佐倉もいるわけ?」
「馬鹿か。俺が先に来てたんだよ。文句あっか」
寝転がったまま領有権を主張して、移動するつもりがさらさらない瑛郁に、香純はうーんと悩む。できれば、無関係な暎郁が居ないところで話をしたかったのだ。
だが、鳴海と紅葉にはそんな拘りはないようで、暎郁を避ける素振りは見せない。
そもそも、移動しようにも屋上に日陰はここだけだ。
早くも夏日となった今日の日差しを直に受けながら、話をする気にはなれない。
紅葉はさっさと鳴海の隣に腰を下ろした。香純も二人の正面にぺたりと座り込む。
二人もお弁当の包みを広げて、昼食に取り掛かった。
「――それで、昨日の首尾はどうだったんだい?」
「うん。とりあえず成功かな」
「良かったじゃないか。……じゃあ、約束の」
「ん。行くなら日曜日だよね」
「モノが出来上がるのはいつ頃なんだい?」
「撮るのが来週だから、その次の週くらいかなぁ」
「わかった。予定空けとく。ふふ、楽しみだね」
横で交わされる、聞きようによってはいかがわしい取り引きじみたやり取りを、鳴海は半分右から左へと聞き流していた。
食事しながらも会話が途切れることのない女子二人に、暎郁は完全に背を向ける形になっている。
「……あ、そうだ。ちゃんと消したんだろうな」
弁当の中身が一通り片付いた頃合いで、鳴海が声を上げた。眉間にやや力が籠った、不機嫌な表情だ。
「何を?」
「昨日の、携帯に入れてたやつ」
「あー、あれね。――まだ」
弁当箱を包みなおしていた香純は、そう言ってにまりと笑った。その返答に鳴海の眉が吊り上る。
「消せよ。今すぐ」
「やだ。いいじゃん、見られたって。減るもんじゃないし」
自分が有利な事を確信している香純は、自慢げに胸を張った。
止せばいいのに悪乗りして、取り出した携帯を寝転がっている瑛郁に向ける。
「佐倉、佐倉、良いもの見せてあげようか?」
「俺は昼寝中だ。邪魔すんな」
背中を向けた瑛郁の態度は徹底していた。
鳴海への友情などではなく、自分に直接関係のない利害に進んで首を突っ込むつもりがないだけだ。
「香純、それ以上調子に乗ってると、参考書貸すの止めるぞ」
「えぇっ、それ困る!」
「勝手に困れ。忘れてきたお前が悪い」
実力行使の前に、香純の弱点を突いて取り引きする鳴海に、隣の紅葉が意外そうな顔を向けた。
「あの画像、自分で消さなかったの?」
「ロックが外せなきゃ消せないだろ」
何を今更と言わんばかりに、鳴海は紅葉を見返す。画像にロックを掛けさせたのは、十中八九、紅葉の入れ知恵のはずだ。
しかし、紅葉は少しきょとんとしてから、急に腑に落ちたようにあぁと声を漏らした。
「そういえば鳴海って、たまに鈍感なところもあったね」
一人で納得している紅葉に、鳴海は怪訝そうに眉を顰める。
まだ気付いていない様子の幼馴染に、紅葉はなんとか笑いを堪えていた。ここで笑っては、本格的に機嫌を損ねてしまいそうだ。
「香純が暗証番号にしそうな四桁の数字なんて、限られてると思わない?」
紅葉は、自分が最後は誰の味方なのかを、鳴海に教えた。
その台詞を聞いて、鳴海が考えた時間は一秒ほど。
香純の手にあった携帯を素早く取り上げて、まさに今表示されていた問題の画像を消去するのに五秒とかからなかった。
騒ぐ香純にぽいと携帯を返した鳴海は、いかにも清々したという素振りで、校舎の壁に背を預ける。
「あぁ、ほんとに消しちゃった!」
「だから言ったじゃないか。暗証番号は誕生日にしてたら駄目だって」
紅葉の言葉は慰めとも揶揄ともつかない。香純は不満げに頬を膨らませた。
「消さなくたっていいじゃん。紅葉が見せてくれたんだからー」
「俺は見せる気はなかったんだよ。約束が違うだろ、紅葉」
「うん、それは、ごめん。……でも、鳴海ならすぐに消せるって思ったから」
「……いや、そういう問題じゃなく」
小首を傾げる紅葉に、ますます苦い顔になった鳴海。
「まあまあ、喧嘩しないでよ」
あの顔は説教モードだ、と悟った香純は、フォローのつもりで声を掛けた。
しかし、それは完全に的外れだったらしく、二人からの呆れた視線が突き刺さる。
「それ、香純には言われたくないなぁ」
「誰のせいだと思ってんだ」
「あれっ? だって鳴海が紅葉に話したんでしょ?」
「あぁ、それはそうだけどね」
「何言ってんだよ。そもそも香純が余計な事考えるから――」
「余計じゃないもん」
「お前ら、ごちゃごちゃうっせえんだよ。俺の安眠を妨害すんな」
「音が気になるなら耳栓すればー? こっちは大事な話をしてるの」
「どこがだ。下らねぇ事ばっか喋りやがって」
「あー、盗み聞き」
「聞かれたくねぇならでかい声出すんじゃねえよ」
「誰の声が大きいってのよ」
「お前だお前。市原二号」
「あー、また! 生まれたのはあたしが先なの!」
「相変わらず拘るね、香純」
「……なんか急にどうでも良くなってきたな……」
「よくないの!」
「――おーい、そこの二年ども。もちっと静かにしろよ、下に響く」
不意に掛けられた声に、全員がぴたりと口を閉ざした。
翠峰学園の制服には、各学年によって決まった色が使われている。
冬服はネクタイやリボンタイ、夏服はシャツの襟と袖の縁に使われているその色を見れば、初対面でも学年を特定するのは簡単だ。
しかし、いま不思議だったのは、のんびりしたその声が頭上から聞こえたことだった。
四人の視線が上を見ると、給水塔の上にひょろりとした人影がある。手すりもない屋根のへりで立て膝になり、香純たちを見下ろしていた。
制服の縁取りの色が赤なので、どうやら三年生のようだ。ちなみに香純たち二年生の色は緑である。
香純たちだけでなく、鳴海と暎郁も彼の存在を知らなかったようだ。鳴海たちが来るより先に、給水塔に登って寝転がっていたらしい。
「ここの鍵と管理は生徒会が預かるってことで、出入りを黙認してもらってんだ。あんまり騒ぐと、先生たちも流石に無視してくれなくなるぜ」
長めの髪を襟足で括っているその顔に、若干見覚えがある気がするが、香純の記憶からは名前が検索できなかった。
上級生らしい注意に、香純は少し小さくなる。
「すいません」
「気を付けます」
「おう。絶好のサボりスペースは、ちゃんと後輩に受け継いでいかないとな」
素直な反省の言葉を受け取った彼は、そう言ってフランクに笑った。
にまりという擬音がぴったりな表情は、やはり見たことがあるようでいて、どうしても思い出せない。
ちょうどそのとき、階段室のドアが開き、きれいなストレートヘアの女子生徒が姿を見せた。
「あ、森川先輩」
香純の声を聞き付けて振り返った彼女は、優しげにふわりと微笑んだ。
「こんにちは、市原さん。ここでお昼ですか?」
「はい。あ、もしかして鳴海に用事ですか」
彼女は三年生の森川燈。
香純も面識のある上級生で、生徒会長であり茶道部の部長でもある。
艶のある黒髪に優しげで楚々とした風貌は、陽光降り注ぐ屋上よりも、夕暮れ時の音楽室が似合う。
一部の下級生から陰でこっそり「燈お姉さま」と呼ばれている彼女が、その似つかわしくない場所にやってきた理由がそのくらいしか思いつかなかった香純だが、燈はゆっくり首を振る。
「児玉君を探しているんです。見かけませんでしたか?」
穏やかに尋ねられて、香純はきょとんとする。こだまくん、と脳裏で反復するが、誰のことだか分からなかった。
しかし、香純の代わりに上からののほほんとした声が燈の問いに答えた。
「おー、森川。どした?」
給水塔の上で気安く片手を上げる彼を見上げて、燈は少し眉を顰める。
「……またそんな所に登って。何をしてるんです」
「可愛い後輩に、ちょっとした指導をな」
燈が確認するように香純に視線を向ける。香純はコメントを控えて曖昧な笑みを浮かべた。
概ね間違いではないのだが、屋根に登った理由にはなっていない。
「昼休みに生徒会室に来て下さいって、私、言っておきましたよね?」
「あ、悪りぃ、忘れてた」
「そうだろうと思いました」
あっけらかんとした回答に、燈は困ったようにため息をつく。
「態々来なくても、呼び出してくれりゃいいのに」
「携帯の電源、オフのままでしょう? 皆待ってますから、早く来てください」
鉄製のはしごを軋ませて降りてきた彼は、燈に軽い調子で謝罪を繰り返しながら、そろって屋内に戻ってしまった。
二人が去った入り口の方をじっと見ていた香純は、うーんと首を捻る。
あいかわらず、謎の先輩――名前は児玉というらしいが――の正体が、分かりそうで分からない。
「ねぇ、さっきのひと誰?」
振り返って訊ねてみたのだが、三人ともまじまじと香純を見て、誰一人として答えてくれなかった。
「……こいつ、マジボケか?」
「狙ってボケるような高等テクを、香純が使えるわけないだろ」
「香純って、全校集会の話は記憶するつもりが無さそうだからねぇ」
唖然・達観・苦笑と、それぞれ表情は違うが、酷いことを言われているのだけは分かる。
「ちょっと……え、みんな知ってるの?」
「全校生徒の中でも、知らないのはお前くらいじゃねえの」
「まあ、あと一人くらい居る可能性も、確率的には否定できないけどね?」
「でも期待値は一未満、だろ」
「それって、遠回しにいないって言ってるよね」
むぅ、と口を尖らせた香純の肩を、紅葉がにっこりと笑ってぽんぽんと叩く。
「大丈夫。知らなくても生きていけるから」
確実に面白がっているその顔は、答えを教えてくれそうにない。
隣の鳴海を見ても、涼しい表情で無視された。
そうなると、残る選択肢は一つだけになるのだが。
「たまには頭使え。阿呆」
瑛郁からは、何も言わないうちから冷淡にあしらわれる。
四面楚歌、孤立無縁とはこの事だ。
みんな意地悪だという香純の嘆きは、当然のように無視された。
「紅葉、今日なにか予定ある?」
予鈴を合図に教室に戻る途中、香純が唐突にそう言った。
「特にないよ」
「じゃあさ、フェアリー・ロンドに付き合わない?」
香純が口にしたのは、駅前商店街の一角にある輸入雑貨を扱うセレクトショップの名前だ。
北欧系のインテリア小物が豊富に揃ったその店が、香純のお気に入りであることは紅葉も知っている。
「何か買うのかい?」
「うん。ちょっとね」
言葉を濁して照れ臭そうにする香純の姿に、紅葉はひらめくものがあった。
香純はさっぱりした性格で気が強い印象のわりに、少女趣味で可愛いもの好きなところがある。
そのちょっとしたギャップのせいか、自分の趣味嗜好が一般受けするかどうか、あまり自信が持てないでいるらしい。
だから、自分以外へ贈る物を選ぶ時は、必ずと言っていいほど他人の意見を求めるのだ。
なるほどね、と心の中で呟きながら、紅葉は自然と頬が緩むのを感じた。
「僕で良ければ、何処へなりとお伴致しますよ、お嬢様?」
「えっ、なにそれ執事キャラ?」
「そこはメイドって言うところだよ」
「んー、そこはかとなく黒っぽい感じが、どっちかというと執事かなって」
「……へえぇ、そう。なるほどね。やっぱりついて行くの止めようかな」
「あぁっ待って! 今のは無し! 紅葉は可愛いメイドさんですっ!」
「力一杯言われると逆に恥ずかしいね、それ……」
そんなやり取りが、同級生たちの喧噪に紛れていく。
この程度の騒がしさは、平穏な日常以外の何物でもないのだ。
・ ★ ・
その日の夕方、市原家のリビングの窓辺に、新しいインテリアが追加された。
アンティーク調の木の額縁にリボンの装飾が彫り込まれた、比較的落ち着いたデザインのフォトスタンドだ。
今はまだ、それには何も入れられてはいない。
主役として飾られるべきポートレートが出来上がるのは、いま少し先の事である。
第一章、終了です。
ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございます。
設定的には、これは六月下旬から七月はじめにかけての話なのですが、私の遅筆のため、公開時期が木枯らしの便りが聞こえる時期に…。
次の話も、作中では夏真っ盛りです。
激しく季節外れですが……文章からは季節感が感じられないから、まあいいか(よくない)。
再び暑くなる前に、次を書き上げられるように、頑張ります。