10:作戦名は「仔うさぎ」
「聞いたよ、香純。家でお父さんを隠し撮りしてるんだって?」
数日後の朝。
教室に入った香純に、おはようの挨拶もそこそこに紅葉が掛けた言葉がこれである。
「な、なにそれ? 誰が――」
「鳴海のデジカメ持って、廊下でこそこそ何かしていたらしいね? 目撃情報もあがってるんだ。大人しく白状しなさい」
ここまで聞けば、情報ソースが誰かは明白だ。相手が紅葉だからって口が軽すぎだと、心の中で鳴海を罵倒する。
二人に共通のネタ元である自分が、面白おかしい話題を提供しているという事実は、四階建ての校舎の屋上よりも高い棚に放り投げている。
「違うよ。まだなにも撮ってないし」
「そうなの? つまらないな。折角だから見せて貰おうと思ったのに」
「あのね……」
期待外れだと口を尖らせる紅葉に、香純は机の上に置いた鞄の上に、脱力して突っ伏す。
「狙ってたことは認めたね。今度は何を企んでるんだい?」
「べつに、なにもないよ」
「なにもなくて、父親をストーキングする娘っていうのは、相当不健全だと思うけどねぇ」
ストーカー呼ばわりされた香純だが、口をつぐんで黙ってしまった。怪しい行動をしている自覚はあったのだ。
再び鞄に顔を埋めて、頭を抱える。
無いものは作ればいいのだと、鳴海からデジカメを借りたところまでは良かったが、そこではたと立ち止まってしまった。
(あんなに拘ったあとで、写真撮ろうなんて……どう考えてもワザとらしい!)
自然に、そういう流れに持っていく方法はないか、考えても咄嗟には思い付かない。
階段に座ってリビングを伺いながら、どうしようかと考え込んでいた姿を、鳴海に目撃されたに違いなかった。
「やっぱり、どこかに出掛けたときとかじゃないとなー。皆で撮るのには……」
ため息混じりにぼやく。
そんな香純の呟きを聞き付けた紅葉は、何事かに頭を悩ませている親友を、興味深く観察していた。
「香純が撮りたいのは、お父さんの写真じゃないの?」
「ううん、皆で写ってるやつ」
「それは、こっそりじゃ撮れないねぇ」
それはもう分かってる、とばかりに、香純が深いため息をつく。
「そんなに欲しいの?」
「あたしが欲しいっていうか、あってもいいかなって」
「なるほど。……そういえば、昔から誰にでもなつくの早かったよね」
紅葉は、先生や友達と打ち解けるまで時間がかかる方だが、香純は真逆だった。
相手が子供だろうと大人だろうと、怖れる素振りなど微塵もなく話しかける。おかげで何処でもすぐに友達を作るし、年長者からもおおむね可愛がられていた。
あまりにも恐怖心が薄いので、心配した優香が、出掛けるたびに「お母さん以外の人について行ったら駄目よ」と念を押していたほどだ。
さすがに今は、幼いときほど開けっ広げではなくなったものの、他者を自分の近くに引き寄せる、その力は健在らしい。
その力の源は、外から見える距離や態度というより、香純の心の中に依るもののようだ。周囲は知らないうちに、そこに巻き込まれていく。
初期の段階で巻き込まれた紅葉は、何を言われたのか今一つ飲み込めていない表情の香純に、にこりと笑ってみせた。
「古文のプリントじゃないんだから。焦らなくても、時間はまだあるよ」
「そだね」
「十分に計画を練ってから行動に移さないと破綻するけど、準備が長すぎてもターゲットに気取られる」
「そこなんだよね〜。何か良いアイデアない?」
「何かの記念にかこつけるのが、無難なところじゃないかな」
そこで予鈴が鳴り、話は一旦打ち切られる。
作戦参謀と実働部隊は、アイコンタクトと「また後で」の一言で、昼休みに再び作戦会議を開くことを合意した。
・ ★ ・
六現目の授業を終えた鳴海は、机を片付けて自分の鞄を掴むと、その足で図書室に向かった。
入り口の引き戸についた窓から、中に明かりが点いているのがわかる。中に先客がいるようだ。
先に図書室にやってきた人物を脳裏に思い浮かべながら、引き戸をがらりと開ける。
「やぁ。今日は早いね」
入り口のすぐ横にある貸出しのカウンターの中から、想像通りの声がかかる。返却本の棚の前で、こちらに微笑んでいるのは紅葉だ。
鳴海はカウンターを回り込んで受付の中に入り、紅葉の隣の椅子に座る。
「今日は福田の持ちネタが不発だったから」
「あぁ、そういうこと」
納得した紅葉がくすくすと笑う。
福田というのは、物理の教師のことだ。彼の授業は面白いと評判だが、それは主に教科からは多少脱線した無駄話に依るところが大きい。
薀蓄好きの説明好きの彼の授業は、三分の一がその豆知識の話に費やされる。雑談の類とはいえ、物理と無関係でもないところが、真面目にノートを取るべきか聞き流すべきか、判断に困るのが悩みどころだ。
しかも脱線した分の内容を終盤で取り戻そうとするので、最後は非常に忙しい。板書の量も半端ではないので、終業の鐘が鳴った後も、図や数式をノートに写しきるまでは帰れないのだ。
「四限目に物理がないのは、絶対にそれのせいだと僕は思うね」
「確かに、昼休み前にあれをやられたら堪らないな」
高等部は、生徒の昼食は基本的に家から弁当を持参することになっているが、購買部に学食という名のパン屋が設けられている。弁当を持たずにパンを当てにしてくる生徒も多々おり、学食のパンの競争率はわりと高い。
そんな状況では、たとえ一分でも出遅れると、人気のパンからどんどん売り切れてしまい、下手をすると昼食にありつけない場合も出る。
鳴海は、誰か知らない先達が、真顔で先生に授業中の無駄話の短縮を求める姿を思い浮かべた。生徒の抗議を受けた教師陣が、苦心して時間割を引くというのも、ありそうな気がしてくる。
「今日は返却が多いんだ。予習始める前に、棚に戻すの手伝ってね」
益体もない想像を打ち払う声がして、目の前にどさりと本が積まれる。先日に行った返却督促の効果か、返却本の棚には確かに普段よりも多めの本たちが乗っていた。
隣では、棚から本を取り上げた紅葉が、裏表紙の内側にてきぱきと貸出カードを挿していく。
「……了解、副委員長」
紅葉の指令に従い、鳴海は積み上げられた本を抱えて本棚へと向かった。
鳴海が図書委員に立候補したのは、別に本が好きだからという訳ではない。
ほかの委員会に比べて地味だが、その分仕事が少ないからだ。
普段の活動は図書室の受付の手伝いが主で、隔月でA4サイズ片面のみの「図書だより」を発行している程度。
時期によって忙しくなるということもなく、受付のローテーションは、委員同士の話し合いによって決まる。
簡単に言えば、放課後の時間の予定が立てやすいのだ。受付の手伝いも、基本的に人が来なければ暇なので、読書はもとより自分の予習・復習などにも時間が使える。
委員にならない方が自由度は高いのだが、他のより面倒な委員を押し付けられるリスクを冒すよりは、このもっとも自分に都合の良い立場を確保することを選ぶ。
それが鳴海が図書委員に収まった理由の一つだ。
一方の紅葉は、単純に読書が好きだから図書委員になったクチである。
時々、図書委員の特権を利用して、自分の読みたい本をリクエストしているらしい。当然ながらその本は、本棚に並べる手間を省略して、紅葉に貸し出されることになる。
今、受付の中で紅葉が読んでいるのも、そうした本の一冊だ。アメリカの作家が書いた小説の訳本だと聞いている。
そのわりに、頬杖をついている姿は気怠い雰囲気で、ページをめくる手には熱心さは感じられない。
鳴海の記憶が正しければ、彼が数ページ分の予習を終わらせる前と後でも、紅葉の手元はそれほど動いていなかった。割と速読な紅葉にしては珍しいことだ。
「それ、面白くないのか?」
「まだ四分の一も進んでないから、何とも」
そう言いながら捲っているページは、それでもすでに半分近くまで達している。どうやら上下巻だったらしい。
「まだ序盤の雰囲気だからね。元々この作者の書くものは、舞台が作られるまでに時間がかかるんだ。これからの展開に期待?」
「結構点が辛いんだな」
「前の二作品の評価が高かったぶんだけ、期待値も上がっちゃってね」
そう言って、紅葉は軽く笑ってみせた。あとは家に帰って読むつもりなのか、しおりの紐を今のページに移動させて本を閉じる。
「そうだ。鳴海にも聞いてみようと思ってたんだ」
「何を?」
「おばさんたちの結婚記念日がいつか、知ってる?」
鳴海が無意識に回していたペンが、ぴたりと停止する。
「誰の、何だって?」
「鳴海のとこのお母さんたちの、結婚記念日」
「……知らない」
懇切丁寧に答える紅葉に、鳴海は怪訝そうな顔で答える。紅葉は、やっぱりかと呟いて、一人で頷いた。
「うちなんて二人揃ってても祝ってないのに、離れてたら余計にそうなるよね」
「――もしかして香純の奴、それを口実にしようとしてるのか?」
「ご明察。ちなみに発案は僕」
にっこりと目を細める、その瞳の輝きは、明らかに面白がっている。
「よかったね。デジカメ壊されなくて」
「いやもう、そこはある程度諦めてたけど……」
つまるところ、香純は結局正攻法を取ることにしたのだ。
会話の流れで結婚記念日を聞き出し、あくまでお祝いのうちの一つとして、記念写真を撮ろうと言ってみるのだ。
「あとは、おばさんにさりげなく話題を振ってみるわけ。一応練習したんだけど、少し不安が残るんだよね」
「そんな事までしたのかよ」
「鳴海も知ってるでしょう? 昔から香純は、演技のできない子なんだから。せめて棒読みにならないようにしないと」
「あいつの場合は、下手にシナリオ作るより、アドリブに任せた方が自然になると思うけどな」
言いながら鳴海はため息をこぼした。
このところ、どうにも家の中が落ち着かない。
それはたぶん、香純が今までと違う素振りをしているからだ。
母は父が帰ってきたあの日こそうきうきとしていたが、次の日には普段通りの落ち着きを取り戻していた。むしろ、漸くあるべき物が在るべき処に収まったというような、安心感すら感じられる。
父は、自然体でいるように見える。それが常態なのか、そう見せているのかは、情報が足りなくて、鳴海には区別がつかなかった。
鳴海自身は、いつも通りに過ごしているつもりだ。
大袈裟になにかを催すことよりも、今までと同じようにすることが、“受け入れる”という事のような気がしたからだ。
そんな考えの鳴海から見て、一人空気を乱しているのが香純だった。
彼のデジカメを理由も言わずに「貸して」の一言で持ち出して、使うでもなくただ持ち歩いている。何をするでもなく廊下でじっとしていたり、夕飯のときには時々不自然に黙ったりする。
明らかに挙動不審だ。ばれていないと思うのは本人だけである。
「自然にとか、今さらなんだよな……」
「そこはまぁ、努力したことは評価するということで」
本人が聞けば顔を赤くして怒りそうなコメントだが、生憎と――むしろ幸いなことに、香純の耳に届くことはなかった。
どこかずれている同い年の姉に思い煩う鳴海に、紅葉は自分の見解を言ってみることにする。
「気を遣って言い出したと思われたくないんだよ。断られることにばっかり頭がいってたからね。「何を言い出すかと思ったら。気にする程の事じゃない」って」
紅葉は声のトーンを落として、会ったこともない大人の男の口まねをしてみせた。思いのほか再現度の高いそれに、鳴海の脳裏で音声がチューニングされ、映像が補完される。
「……言いそうだな、確かに」
「だから、一番断られなさそうな理由を考えてみたわけ」
それで結婚記念日なのか、と鳴海はようやく納得した。父にではなく母に話を持ちかけるというところにも、香純のものではない周到さを感じる。
父に対しては、その手の話は唯一判明している“弱み”だ。母をうまく巻き込めば、成功確率は上がるに違いない。
香純の計画がどう転ぶかは予想できないが、とりあえずあの不審な行動が収まると分かって、少しほっとする鳴海だ。
「悪いな。変なこと頼んで」
「別に。いつものことだよ」
少し神妙になる鳴海に、紅葉は笑顔を返す。実際、紅葉が親友の悩みを聞くのは日常茶飯事なのだ。
「でも、あいつに入れ知恵するのは、それぐらいにしといてくれよ」
「なに他人事みたいな顔してるのさ」
「皆でとか言われた時点で、十分当事者だと認識してる」
「そうじゃなくて。香純のこと、ちゃんとフォローしてあげてよ」
“follow”。 ①…に続く、あとを継ぐ ②…についていく、ついて来る ③(忠告などに)したがう ④(道などを)たどる ⑤(仕事に)つく、(商売を)いとなむ ⑥(成り行きなどを)見守る ⑦わかる、意味を理解する――
早すぎて読めないスタッフロールのように、辞書の解説が鳴海の頭を過るが、紅葉は別に英語を話したわけではない。聞き間違いなら良いのにと思う、単なる現実逃避だ。
「なんでおれがそんなことを――」
「上手く行ったら、写真を見せてもらう約束したんだ。プチ・ラパンのケーキセットのおまけ付き」
鳴海の文句を遮って、紅葉は昼休みの作戦会議で合意済みの成功報酬を披露した。条件付きの対価のはずだが、紅葉は評判の洋菓子店でのお茶会が実現することを確信している。
得意気に目を細める紅葉は、鳴海は協力するものだとして疑いもしていない。どうやらこの件に関しては、市原家の男たちは弱みを突かれる運命にあるようだ。
「……それ、どっちがおまけなんだ?」
「鳴海も一緒に行くかい? 僕的にはグレープフルーツのタルトがお勧めだよ」
茶化してみた鳴海を、紅葉はにっこり笑ってお茶会に誘う。協力者への謝礼という事かもしれないが、自分の懐からではないあたりがちゃっかりしている。
既に香純から抗議を受けることがほぼ確実な鳴海は、これ以上は恨まれたくないと、肩をすくめてその申し出を辞退した。