エピソード11 大変だ!
催促されてボクはケータイをお巡りさんに渡した。
お巡りさんが、完全に冷静さを失っている母さんとどんな会話をしたのか
知らないが、噛み合わない会話を1分ほどしてから電話を切った。
というか、一方的に切られたようだ。
そしてお巡りさんはボクにケータイを返しながら
「お母さん、やっぱり北口のパチンコ屋にいたみたいだね。」
「は、はあ…それで?」
「いますぐこっちに来るそうだ。」
「そ、そうですか…」
あ、そういえば
「父ちゃ、あ…父が大変だとか言ってましたけど…」
「あ、うん。そうらしい。救急車で運ばれたとか…」
母さんはだいぶ取りみだしていたので、詳しいことまでは
さすがのお巡りさんも聞き出せなかったという。
救急車で運ばれた?
それは大変だ。
どうりでケータイが繋がらない訳だ。
「マジっすか!?で、父ちゃ…父は大丈夫なんですか!!」
「う~ん…それが…お母さん、だいぶパニくってて何言ってるか
よく分からなかったから…」とお巡りさんもバツが悪そうだった。
要領を得ないお巡りさんに痺れをきらしたボクは、もう一度
母さんに電話をかけたが、何度呼び出しても母さんは電話に
出なかった。
そのときだ。
「いぬお!!」
母さんが息を切らしながら交番の前に現れた。
肩を上下に揺らして仁王立ちしている。
「か、母さん!」
「犬雄!あんた、こんな所で何やってんのよ!」
「え、あ、ああ…何をって…」
いったいどこから説明すればいいんだろう?と考えていると
お巡りさんが助け船を漕いでやってきた。
「まぁ、お母さん、落ち着いてください。」
母さんは、お巡りさんのその言葉で、初めてそこに他人が居たことに
気付いたらしく、驚いてお巡りさんの顔に視線をやった。
「あ、お巡りさん…。こんばんわ」
とっさに母さんの口から出た言葉が『こんばんわ』だったことに
ボクは思わず笑いそうになったが必死で堪えた。
…と、そんな場合ではなかった。
「お母さん、いったいどうされたんですか?」
先に質問したのはお巡りさんだった。
こうなっては、もうボクの銃刀法違反どころの騒ぎではない。
母さんは肩を上下に揺らしながら呼吸を整え、やっと声を出した。
「…火事よ、火事!」母さんはそう言うと唾を飲んだ。
「火事?」
「そうなのよ!お父ちゃんのアパートが火事になって…それで、お父ちゃん病院
に運ばれたって」
母さんは真っ青な顔をしている。
そのとき、ボクはついさっき電車の中で聞いたアナウンスを思い出した。
『旭日駅前で建物火災がありました…云々』
あれは父ちゃんのアパートのことだったのか!
そうと分かれば、こんな所で油を売っている場合じゃない。
一刻も早く病院に行かなければ!
と、そのとき、お巡りさんが母さんに声をかけた。
「お母さん、落ち着いてください。ご主人が運ばれた病院はどこですか?」
おお!そうだ。さすがお巡りさん。冷静かつ的確な質問だ。
「そうだ、母さん!どこ?」
ボクもお巡りさんに追随して母さんに迫った。
しかし母さんの頭の中はスクランブルエッグ状態で、質問の意味すら理解できず
にいるようだった。
えーっと、えーっと、を繰り返している。母さん、それはこのお巡りさんの口癖
だよ。
「母さん、父ちゃんはどこの病院に運ばれたんだよ!」ボクは母さんの両肩に手
を置いてもう一度聞いた。
すると、今度はそんなボクの肩を誰かがポンポンと叩いた。
ふり返るとお巡りさんと目が合った。
いつの間にかけたのか、お巡りさんは電話を耳に押しあてて誰かと話をしている。
はい、はい、と電話口で返事をしながらボクにアイコンタクトを送ってきた。
それが『いま確認中だからいいよ』って意味だというのがすぐにわかったので、
ボクは母さんの肩から追及の手を離した。
お巡りさんはすぐに電話を切り、ボクと母さんに向き直ってこう言った。
「病院が分かりました。旭日第一病院です。」
お巡りさんがそのことを誰に聞いたのか知らないが、警察と消防なのだから、
それなりのネットワークがあるのだろう。
旭日第一病院…あ、あそこか。
ボクにはすぐにピンときた。なぜなら、その病院はボクが(ボクたち親子が)通う
学校のすぐ近くだったのだ。
「母さん、すぐに行こう!」母さんの腕を掴んで交番を飛び出そうとしたボクの
腕をお巡りさんが掴んだ。
「ちょっと待ちなさい」
あ、やっぱり?
このどさくさに紛れて無罪放免になるかなぁと内心企んでいたボクだったが、
やっぱりお巡りさんに引き留められてしまった。
「はい?」こんなときに何か?とでも言いたげに、とぼけて返事をしてみると、
お巡りさんが意外なことを言い出した。
「病院まで送りますよ」
電車より早いから…と交番の外を指差している。
外は真っ暗だった。南口の駅前ロータリーには、いつ来るか分からない客を待つ
タクシーが3台並んでいて、その近くのベンチには、3人の運転手がタバコをふ
かしながら暇そうに話をしている。
その他に人影は見えない。「送るって…タクシー?」ボクが呟くように聞くと、
暗かった駅前ロータリーが突然真っ赤な光に照らされた。一台のパトカーが赤灯
を回転させながら近付いてきたのだ。
パトカーは、ゆっくりと速度を落として音もなく交番の前で止まった。
運転席から、白いヘルメットを被った若いお巡りさんがこっちを見ている。
「さぁ、乗って」お巡りさんに声をかけられ、ボクと母さんは言われるまに
そのパトカーの後部座席に乗り込んだ。
そして、お巡りさんも助手席に乗り込む。
運転席のお巡りさんは、突然ボクたちが乗り込んできたのに驚いて、ヘルメット
のつばを持ち上げながら「この人たち何なんですか?」と助手席に向かって言っ
た。
「説明はあとだ。旭日第一病院に急行しろ」口調からして交番のお巡りさんは、
このヘルメットよりも先輩なのだろう。
先輩の命令を受け、ヘルメットのお巡りさんは「了解」と短く返事をした。
そしてパトカーは勢いよく走り出した。
お巡りさんの言うとおり、電車で行くより断然早かった。
交番を出発して10分ほどで、父ちゃんが運ばれたという『旭日第一病院』に到着
することが出来た。
途中、車内では、交番のお巡りさんが運転席のお巡りさんに事情を説明してくれ、
ハンドルを握る後輩らしきお巡りさんは、「そうですか~」と状況を察して、なんと
サイレンまで鳴らしてパトカーを飛ばしてくれた。
これには、さすがにボクも母さんも面喰らったが、おかげで渋滞も赤信号も関係なく
病院に到着し、ボクたちはお巡りさん達へのお礼もそぞろに病院内へかけ込んだ。
初めて足を踏み入れた夜の病院は、電気が消され真っ暗だった。
受付は当然のごとく閉まっている。ボクと母さんはキョロキョロしながら廊下を
進んだ。
その廊下の一番奥に1ヶ所だけ白く光る案内板が見えた。『夜間・救急受付』と書いてある。
「母さん、あそこだ!」
ボクはそういうと、廊下をなるべく音をたてないように気を使いながら走った。
受付には、白衣を着た中年の男性が一人、伝票のようなものの整理をしていた。
「すいません!さっき駅前の火事で運ばれた者の家族なんですけど」
ボクは、受付の男性に言った。
男性は「あ、はい。お名前は?」と聞いてきた。
「牛山です。牛山竜馬です!」答えたのは母さんだった。
そう、ボクの父ちゃんの名前は『牛山竜馬』という。
名前だけを聞くと、歴史の教科書のどこかに出てきそうな名前だが、実物は
(我が父ながら)そんな大そうな人物ではない。
父ちゃんが言うには、名前に動物を入れるのは牛山家の伝統とのことだが、竜馬なんて
かっこいい名前ならいいけど『犬雄』はどうなのさ。
その前に、名字に牛がいるんだからいいじゃない。
ボクと母さんはエレベーターに乗って受付で案内された病室へ向かった。
306号室…父ちゃんの病室を探しながら、ボクと母さんは3階フロアを迷走した。
旭日第一病院は、この辺りでは一番大きな総合病院だ。3階だけでも相当な数の病室
があって、306号室がなかなか見つからない。
ナースステーションを見つけたボクは、「すみません。306号室はどこですか?」
と声をかけた。
すぐに若いナースが出てきて「案内します」と言ってくれた。
ボクたちがさまよっていたのは『南棟』と呼ばれる病棟だったらしく、父ちゃんがいる
306号室は『東棟』にあるらしい。どおりで見つからないはずだ。
ナースの後について南棟から東棟へ移動した。途中長い渡り廊下を通って、何度も
右へ左へ廊下を曲がり、ようやく辿りついた。
「306号室はこちらです。」
ナースが病室入り口にあるネームプレートを右手で指して言った。
「ありがとうございました。」ボクと母さんは深々と頭を下げた。
ネームプレートには、確かに【306】と書かれている。そして、そのすぐ下には
『犬山竜馬』と見慣れた名前がマジックで書かれていた。
他に患者の名前はない。
というか、このネームプレート自体、入院患者の名前を書くスペースが一人分しかない。
――個室。
ボクは、このとき初めて全身の力が抜けて行くのを感じた。
個室って、まさか。
父ちゃん、そんなに悪いの?
一瞬、ボクの脳裏に暗い思い出がよみがえってきた。
そう、あれはボクがまだ小学生のころだった。
ボクの母さんの母さん。つまり、ボクのおばあちゃんが重い病気になって入院した。
末期のガンだった。
ボクは入院中、何度となくお見舞いに行ったけど、はじめおばあちゃんは6人部屋に
入院していた。
それが、病気が徐々に進行するにつれて、おばあちゃんの体力もだんだんと衰えてきた。
そして、いよいよとなった時、おばあちゃんは『住み慣れた』6人部屋から個室へと
移ったのだ。
おばあちゃんが亡くなったのは、それから間もなくのことだった。
あれ以来、ボクの中で病院の個室は『いよいよの時に入る部屋』というイメージしかない。
これは、ボクの母さんにとっても同じだったようで、母さんはナースが「どうぞ」と
言ってもなかなか病室のドアを開けようとしなかった。
普段、ちょっとのことじゃ動じない母さんだが、さすがに今回ばかりは弱弱しく見えた。
犬山家の長男たるもの、ここで男を見せねばならぬ。とボクは、すっかり力が抜けた
身体にもう一度血液を循環させて気合を入れ直してから「母さん、開けるよ」と、
母さんの背中を軽く叩いたあと個室のドアノブに手をかけた。
個室の大きなドアは意外なほど軽かった。
緊張して力の入れ具合を間違えたボクは、必要以上の力でドアをスライドさせてしまった。
ガラララララ!!!と静まり返った病院内にすごい音が響き渡った。
つづく