妻に言われて会社のインターンに土下座謝罪させられた俺、離婚したら彼女が高嶺の花と仰ぐ『デザイン界の父』になっていた
導入
神崎モビリティデザインが一年がかりで進めてきた大型案件は、ようやく無事に納品を終えた。私はデザイン部と開発部に、案件が終わったら一人ひとりに特別慰労金を出すと約束していた。ところが支給当日、妻の神崎玲奈は私に断りもなく、全社員への慰労金をアメリカンヒーローの限定フィギュアセットに変えてしまった。理由は、ただひとつだった。新しく入った年下インターンの星野巧が、何気なく「これ、欲しいな」と言ったからだ。
その夜、巧はさっそくSNSにそのフィギュアセットを載せた。写真の中で、彼は玲奈の袖を軽くつかみ、甘やかされた子犬のように笑っていた。玲奈はその隣に立ち、耳を赤くしながら、私には一度も見せたことのないほど柔らかな目で彼を見ていた。添えられた文章は、さらに目障りだった。
【女王様にちょっと願いごとをしただけなのに、本当に全社員分のプレゼントまで僕の好きな限定フィギュアにしてくれた。感動しすぎて泣きそう。女王様のために、これからも頑張ります】
コメント欄はすぐに盛り上がった。
【甘すぎる。自然に彼へプレゼントするために、全社員分そろえたってことでしょ】
【年下の甘え上手なインターンと強気な女社長、この二人は推せる】
【正式な披露宴をやるときは、主賓席に呼んでください】
巧はさらに、自分のコメントを固定していた。
【皆さんの言葉を励みに、仕事も恋も頑張ります】
その一文を見た瞬間、私はようやく気づいた。腐った関係は、置いておくだけで悪臭を放つ。SNSを閉じた直後、数人の核心メンバーが私のオフィスの扉を開けた。彼らは一年間、徹夜を重ね、巧の尻拭いまで何度もさせられてきた。それなのに最後に渡されたのは、案件とは何の関係もないフィギュアだった。もう誰も、我慢するつもりはなかった。
1.限定フィギュアと冷え切った社員たち
先頭に立っていたのは、デザイン開発部のプロジェクトマネージャー、高橋だった。彼は長年私についてきた男で、普段は誰よりも言葉を選ぶ。だがその日、彼がフィギュアの箱を私のデスクに置いたとき、その表情はひどく冷えていた。オフィスの外には、数人のエンジニアとプロジェクトアシスタントが立っている。誰もが怒りを押し殺した顔をしていた。
「黒瀬さん。約束されていたプロジェクト慰労金が、どうしてこれになったんですか」
隣にいたエンジニアがスマホを差し出した。画面には、巧のSNS投稿が映っていた。
「僕たちは星野の資料を何度も補って、モデルの修正も何度も代わりました。案件が終わった途端、報酬が彼の好みで決まるんですか。いま、この会社を動かしているのは誰なんですか」
別の古参社員が扉の外を一度見てから、低い声で言った。
「俺たちは、黒瀬さんがいるから神崎モビリティに来たんです。これから会社が一人のインターン中心に回るなら、早めに言ってください」
私はデスクに並んだ、きれいに包装された限定フィギュアの箱を見つめた。滑稽だった。この案件は、神崎モビリティデザインにとって今年最大の受注だった。核心チームは数か月にわたり終電も休日も削り、家に帰れない日さえ珍しくなかった。玲奈がそれを知らないはずがない。ただ彼女は、最も偏ってはいけない場面で、最も資格のない男を選んだ。
その日のうちに、私は自分の口座から全員分の特別慰労金を補填した。核心メンバーには、さらに高額の成功報酬と、次期案件の利益配分を約束した。ほかの社員にも、貢献度に応じて改めて手当を支給した。その瞬間、巧がSNSで自慢していた限定フィギュアは、ひどく安っぽいものに見えた。
古参社員たちも、黙ってはいなかった。その日の夕方、社内のSNSにいくつかの投稿が流れ始めた。
【貢献はフィギュア数箱で済まされるらしい。本当に案件を支えていた人間には、金と敬意が必要だ】
【会社に金がないわけじゃない。ただ、使う相手を間違えているだけ】
半日も経たないうちに、星野巧が玲奈を通じて神崎家の中枢に入り込もうとし、私に正面から押し戻されたという話は、ビル中に広まった。
午後三時、巧がコーヒーを持って私のオフィスに入ってきた。彼の目は潤んでいたが、指先は少しも震えていなかった。次の瞬間、熱いコーヒーが私の手の甲にかかり、皮膚が赤く腫れた。彼は頭を下げながら、ほんの一瞬だけ笑みを隠しきれなかった。
「すみません、黒瀬さん。玲奈さんは僕にこういうことをさせたことがなくて、まだ慣れていなくて」
私が口を開く前に、オフィスの扉が再び開いた。玲奈はまず巧を見た。私の手にはほとんど視線を向けず、彼を自分の後ろへかばうように引き寄せた。
「蒼真、彼はあなたの機嫌を直したかっただけなの。コーヒーも自分から持ってきたのよ。そんなふうに責めないで」
私はゆっくりと顔を上げた。目の前にいるこの女は、私の妻だった。十年間、「私が一番信じているのはあなた」と言い続けてきた女だった。ようやく私の手の火傷に気づいた彼女の目が、ほんのわずか揺れた。
「フィギュアの件は、私の配慮が足りなかった。ちゃんと処理する。だから、これ以上大きな問題にしないで。巧はまだ社会に出たばかりで、職場のルールもよく分かっていないの」
私は潔癖なところがあり、自分の空間に他人が不用意に踏み込むのも好きではない。結婚後、家の整理や掃除を少しだけ玲奈に分担してほしいと頼んだことがある。彼女は面倒くさがり、半年経ってもまともにやろうとしなかった。そんな玲奈が、いまは一人のインターンのために声を低くし、当然のように頭を下げている。
巧が急に私の前へしゃがみ込み、指先で私のズボンの裾をつかんだ。
「僕、あんな高いものをもらったことがなくて、つい嬉しくなってしまったんです。だから皆さんにも誤解させてしまって。玲奈さんにも叱られました。これから一か月、僕が黒瀬さんのデザインアシスタントについて、許してもらえるまで働きます」
オフィスの外から、押し殺した笑い声が漏れた。誰もが知っていた。私は業界でも名の通った高級EVの内装デザイナーだ。私のデザインアシスタントにつけば、経歴に大きな箔がつく。その「罰」は、どう見ても彼のために敷かれた道だった。
私は足を引いた。
「ここは会社だ。芝居をする場所じゃない。馴れ馴れしく距離を詰めるな」
巧の顔から血の気が引いた。
「私のチームに入りたいなら、少なくとも美術大学や工業デザイン専攻で学んだ実績か、国際的なデザインコンペの受賞歴くらい持ってこい。君には何がある」
彼の目がまた潤んだ。私は視線をそらさなかった。
「会社で近道をしたいだけなら、人事と法務が君のインターン資格を改めて確認する。業界は狭い。信用を失えば、そう簡単には戻れない」
巧は唇を噛み、玲奈を見た。玲奈は、すぐには彼をかばわなかった。巧はようやく立ち上がり、部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、玲奈は私の前に膝をつき、火傷の手当てを始めた。動きは丁寧で、表情にもようやく焦りが浮かんでいた。けれど私は分かっていた。彼女が残ったのは、私を心配したからではない。巧の経歴を守りたかっただけだ。
薬を塗るためにうつむく彼女を見ていて、私はもう、かつて愛されていると信じていた感覚を思い出せなかった。
2.十年の結婚と年下インターン
私は玲奈と、子どもの頃から何かと競い合ってきた。幼い頃は成績で争い、大人になってからは仕事で張り合った。彼女は神崎家の一人娘で、昔から抜き身の刀のように誇り高かった。そんな彼女が、ある日、雨の中で私に助けを求めて跪くなど、当時の私は想像すらしていなかった。
十年前、神崎家の資金繰りは行き詰まり、神崎モビリティデザインは破綻寸前だった。玲奈の両親は債務と保証に追い詰められ、一時は屋上へ向かったと聞いた。玲奈は傷だらけの体で、雨の中、黒瀬家の前まで来た。膝が青くなるまで濡れた石畳に跪き、それでも顔を上げていた。
「蒼真、会社を助けて。あなたが助けてくれるなら、私はこれから何でも言うことを聞く」
認めるしかない。あの瞬間、私は彼女に心を動かされた。かつて高みから人を見下ろしていた玲奈よりも、泥水の中でなお折れまいとする彼女のほうが、ずっとまぶしかった。私は政略結婚を提案し、彼女は迷わず受け入れた。
結婚してから十年、私は黒瀬家の資源、自分のデザインチーム、顧客とのつながり、そして業界で積み上げてきた信用を、すべて神崎モビリティデザインへ注ぎ込んだ。会社は破綻寸前から、日本の新鋭EV内装デザイン企業と呼ばれるまでになった。玲奈もまた、自信に満ちた女社長へ戻っていった。
私は、私たちの関係はもう揺るがないものになったのだと思っていた。
だが彼女は、星野巧のために何度も境界線を越えた。
その夜、玲奈が私の火傷を処置し終えたあと、私は用意していた資料を彼女の前へ押し出した。
「玲奈。これは一度目で、最後だ」
彼女の手が止まった。
「今日、私が慰労金を補填したのは警告だ。君は会社を何より大切にしている。核心チームの心が冷えたら、どれほどの損失になるか分かるはずだ」
玲奈は顔を上げた。その目は、珍しく弱っていた。
「分かってる。もう二度としない」
以前の私なら、信じていたかもしれない。けれど、会社を何より重んじるはずの人間が、社会に出たばかりのインターン一人のために、一年働いた社員たちの心を折った。これは単なる偏りではない。彼女の判断そのものが歪み始めていた。
その後、玲奈は表向きおとなしくなった。しかし巧は止まらなかった。彼はいつも私たちの前に現れた。全社員分の差し入れを抱えて汗だくになっていることもあれば、本来なら彼の仕事ではない雑務を、給湯室の外で勝手に抱え込んでいることもあった。玲奈を見るたびに、彼は慌てて立ち上がり、ひどく傷ついたような顔をした。
私は、玲奈ならその程度の小細工は見抜くと思っていた。
次に巧のSNSを目にするまでは。
【職場で年上の先輩に目をつけられました。でも女王様が気晴らしに連れ出してくれて、業界のすごい方々にも会わせてくれました】
添えられていた写真は、その年もっとも重要な国際インダストリアルデザインサミットの会場だった。あのサミットには、本来、私の席があった。玲奈は以前、主催側が急に名簿を調整し、私の招待がなくなったのだと言っていた。
招待がなくなったのではない。私の席を、彼女が星野巧に渡したのだ。
さらに下へスクロールすると、盗み撮りのような写真があった。玲奈が片膝をつき、巧の膝の擦り傷を手当てしている。コメント欄は、まるで祭りのようだった。
【年上の女社長と年下インターン、この組み合わせ好きすぎる】
【旦那、ただ嫉妬してるだけじゃない?】
【そこまで甘やかすなら、もう結婚しちゃえばいいのに】
だが、中には冷静なコメントもあった。
【この人、神崎モビリティデザインの神崎社長ですよね。既婚者ですよね。相手に夫がいると分かっていて、こういう投稿をするのはどうなんですか】
そのコメントは、上に上がってきて間もなく削除された。
私は数人の部門責任者を呼んだ。彼らは最初こそ言いにくそうにしていたが、やがて口を開いた。
「黒瀬さん、星野をいじめている社員はいません。あれは全部、本人が勝手にやっていることです」
「今は業務が最も忙しい時期なのに、彼は神崎社長の予定ばかり追っています。しかも社長は、彼に三か月の特別休暇を出して、海外サミットへ連れていきました」
「私たちは何日も徹夜していました。本当はもっと早く黒瀬さんに報告したかったんです。でも、神崎社長に止められていました」
私はもう迷わなかった。その日のうちに人事へ調査を指示し、星野巧のプロジェクトアクセス権を一時停止させた。設計資料と顧客資料への閲覧権限も外し、黒瀬家が負担していた出張関連の手配もすべて撤回した。
彼らが帰ってきたくないのなら、帰ってこなくていい。
3.譲られた席
玲奈からの電話は、すぐにかかってきた。その声に、ここ数日だけ見せていた柔らかさはもうなかった。
「蒼真、どうして社会に出たばかりの子をそこまで追い詰めるの」
私は窓の外を見ながら、十年の結婚がひどく滑稽に思えていた。彼女は私を理解していなかった。あるいは、そもそも理解しようとしたことすらなかったのかもしれない。
「私は陰で嫌がらせをする趣味はない。まして、心が別の男に向いている女のために動くほど暇でもない」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
「何を言っているの」
「君たちは業界サミットまで一緒に行ったんだ。いっそ披露宴も一緒にやればいい。そうすれば、彼の傷ついた心も慰められるだろう」
玲奈の呼吸が、明らかに重くなった。
「私は会社の中の公平を守っただけよ。あなたのその醜い考えで、私と部下の関係を勝手に決めつけないで」
私は短く笑った。
「公平?」
彼女は何も言わなかった。
「業界サミットは、どれだけのデザイナーが参加したくても届かない場所だ。君は私の席を、何の実績もないインターンに渡した。それが君の言う公平か」
玲奈の声が冷えた。
「どう説明しても、あなたは私が巧をひいきしていると思うんでしょう。だったらこれからは、堂々と彼をひいきするわ」
電話は切れた。
その日から、私たちは本格的に冷戦に入った。玲奈と巧は海外で楽しそうに過ごしていた。巧のSNSは毎日のように更新された。玲奈は彼を乗馬クラブへ連れていき、彼が馬に乗れなければ後ろに座って手綱を握った。各種のビジネスディナーにも連れていき、彼がマナーを知らなければ、名刺の渡し方から茶室での座り方まで手ずから教えた。
ある取引先が軽い冗談を言うと、玲奈はその場で顔色を変え、次の四半期の契約更新を見送った。業界の知人たちから、神崎玲奈とあの若い男はどういう関係なのかと、何度も電話が入った。
彼女は、私が黒瀬家のプライベートジェットを他人に使わせることを何より嫌っていると知っていながら、巧をその機体に乗せて帰国させようとした。私は彼女の使用権限を取り消した。機体は規定に従って最寄りの空港へ着陸し、以後の費用はすべて神崎モビリティデザインへ請求された。
機長から報告が届いたとき、私はしばらく画面を見つめていた。想像していたような報復の快感はなかった。ただ、くだらないと思った。
だから私は、玲奈に短いメッセージを送った。
【離婚しよう】
彼女の返事は、たった一言だった。
【絶対に嫌】
私はスマホを伏せた。彼女が体面を保って終わるつもりがないのなら、彼女にも分かるやり方で終わらせるしかない。
4.誕生日の侵入者たち
私の誕生日には、すべての清算準備が整っていた。ところがその朝、港区のマンションの外が騒がしくなった。佐伯さんが慌てて玄関へ向かう。声には明らかに怯えが混じっていた。
「どちら様ですか。ここは私邸です。すぐにお引き取りください」
扉の外には、若い女性たちの集団がいた。星野巧は彼女たちの後ろに隠れている。高価な新作スーツを着て、いつもの無害そうな顔をしていた。どうやら彼のフォロワーたちが、彼の味方をするつもりで直接押しかけてきたらしい。
先頭の女が私を指さした。目には、自分が正義だと信じて疑わない怒りが浮かんでいた。
「この人です。玲奈さんと巧くんの邪魔をしているのは。皆さん、怖がらないでください。ただ嫉妬しているだけです」
目の前の光景が、あまりにも馬鹿げていた。私、黒瀬蒼真は、神崎玲奈の法的な夫だ。その私が、一人のインターンのフォロワーたちに、関係を邪魔する部外者のように扱われている。
私はスマホを取り出し、警察へ通報した。
「私邸への無断侵入と、器物損壊の恐れがあります」
言い終える前に、巧が素早く前へ出て、私のスマホを払い落とした。画面が床に落ち、鋭いひびが走った。女性たちはそれを合図のように一斉に詰め寄り、私の腕をつかんだ。警備員が駆け寄ろうとしたが、私は彼らに直接もみ合うなと目で制した。ただすぐに通報し、監視カメラと現場映像をすべて保存するよう指示した。
彼女たちが一線を越えるたびに、証拠は増えていく。
佐伯さんが私の前に立った。
「やめてください。この方はこの家のご主人です」
彼女は突き飛ばされ、危うく玄関の収納棚にぶつかりそうになった。巧は階段のそばに立ち、目の奥に得意げな色を隠していた。
「皆さん、ちゃんと見てください。この人は高級マンションに住みながら被害者ぶっているだけで、本当はずっと玲奈さんに執着しているんです」
近所の住人たちが、次々に顔をのぞかせた。私は顔をかばいながら、襟元を乱され、腕や肩にも何度か衝撃を受けた。罵声と撮影音が混ざり合い、安っぽく滑稽な裁判のようだった。
やがて見慣れた黒い車が、マンションの下に止まった。玲奈が降りてきたとき、その顔ははっきりとこわばっていた。巧はすぐに、あらかじめ用意していたような擦り傷を見せながら、彼女のもとへ駆け寄った。
「玲奈さん、僕はただ黒瀬さんの誕生日を祝いに来ただけなんです。でも、こんな貧乏な人間がここに入る資格はないって言われて」
玲奈はすぐには彼を支えなかった。全員を越えて、玄関脇で服を乱されたまま立つ私を見た。その瞬間、彼女の表情が変わった。
玲奈は巧を押しのけ、私に手を伸ばした。私は避けた。
巧の目が一気に潤んだ。
「玲奈さん、先にひどいことをしたのはこの人なのに、どうしてこの人を助けるんですか」
私は警備員に、監視映像のバックアップを警察へ渡すよう伝えた。
「どちらが先に手を出したかは、警察が判断する」
玲奈の顔が沈んだ。
「蒼真、この程度で警察を呼ぶ必要はないでしょう」
私は彼女を見た。
「君の夫が家に押しかけられ、関係を邪魔する男として押さえつけられた。それを、この程度と言うのか」
彼女は答えなかった。
「それなら何が大ごとなんだ。君が彼の子を妊娠したことか」
今度は、玲奈は否定しなかった。彼女は突然、その場に跪いた。周囲の人間が全員、息をのんだ。
「蒼真、巧はまだ社会に出たばかりなの。警察沙汰になれば、就職にも響く。私がどれだけ跪いてもいいから、彼だけは追い詰めないで」
二十五歳の玲奈は、かつて雨の中で跪き、私に神崎家を救ってほしいと頼んだ。三十五歳の玲奈は、また私の前に跪いた。ただし今度は、別の男のためだった。
私は用意していた離婚届と合意書を取り出した。
「その後のことは弁護士に任せてもいい。条件はひとつだ。署名して離婚しろ」
玲奈の目が赤くなった。
彼女がまだ迷っているところへ、神崎宗一郎と美智子も到着した。私は、彼らが少なくとも法的な配偶者である私に一言くらいかけると思っていた。だが美智子は到着するなり、慌てて玲奈の手を取った。
「玲奈、お腹は大丈夫なの。どこか苦しくない?」
私は巧の挑発するような視線とぶつかった。胸の奥に残っていた最後の温度が消えた。玲奈は、かつて子どもを持たない人生を望んでいた。そのために私はパイプカットを受けた。術後も毎年検査を受け、意図しない妊娠が起こらないよう確認してきた。そこまで子どもを恐れていた彼女が、いま星野巧の子を身ごもっている。
神崎夫妻は、私たちに子どもがいないことをずっと不満に思っていた。私はこれまで、子どもができない責任をすべて自分が引き受けてきた。いま巧が玲奈を妊娠させたことで、彼らは判断力を失うほど喜んでいた。
美智子は声を潜めたが、私の耳には十分届いた。
「あの人が離婚したいなら、そうさせればいいわ。神崎家はもう、彼なしでやっていける。今は子どものほうが大事よ」
巧は目尻を拭い、去ろうとする芝居をした。
「僕が望んではいけないものを望んだのは分かっています。玲奈さん、子どもが生まれたら僕が一人で連れていきます。これからは、あなたの目に入らない場所で幸せを祈っています」
玲奈は背後から彼を抱きしめた。声は低かった。
「分かった。署名する」
離婚届に、神崎玲奈の名前が一画ずつ書き込まれていった。私は目的を果たしたはずだった。だが、少しも晴れやかな気分にはならなかった。
ただ神崎家は、今日の選択の代償を必ず払うことになる。
5.神崎モビリティデザインの崩壊
誕生日の席は、無理やり続けられた。神崎美智子はすぐに、玲奈が通っている産婦人科へ連絡した。医師は電話で症状を確認し、翌日に受診するよう勧めた。今のところ明らかな異常はなさそうだと聞いて、美智子と玲奈はようやく息をついた。
食事の席で、巧はずっと美智子のそばにまとわりついていた。美智子はもともと、私の性格が強すぎて玲奈には合わないと思っていた。今では巧をだしにして、玲奈は結婚が早すぎた、私では神崎家に子を残せなかった、離婚届に署名したのは幸いだったと、何度も私を刺すように言った。
神崎宗一郎は横で玲奈と会社の話をしていて、聞こえていないふりをしていた。私は静かに葡萄を口へ運んだ。まるで意図的に切り離された透明人間のようだった。
美智子が将来の披露宴について機嫌よく語っていたとき、玲奈のスマホが鳴った。スピーカーから聞こえてきた秘書の声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「社長、李原産業が契約更新を拒否しました。黒瀬さん側と改めて協議するそうです」
玲奈の顔色が変わった。
「李原はうちの大口顧客よ。営業部は何をしているの」
秘書は一瞬言葉を詰まらせた。
「営業部とデザイン開発部の核心メンバーが、本日、順次退職届を提出しています。何名かのプロジェクトマネージャーも、引き継ぎを終えたあと黒瀬さんの新チームへ移る意向を示しています」
玲奈が私を見た。秘書の声は続いた。
「人員だけではありません。これまで黒瀬さんが担当していた顧客が、黒瀬さんの退職を知って、相次いで取引条件の見直しを求めています。社内はすでに混乱していますし、下請け先からも説明を求められています」
全員の視線が私に集まった。玲奈は信じられないという顔で私を見つめた。
「蒼真、嘘だと言って」
私はナプキンで指先についた葡萄の汁を拭いた。
「本当だ」
彼女の唇がわずかに動いた。
「私は、もともと私のものだったチームと信用を、黒瀬家へ戻しただけだ」
リビングが静まり返った。玲奈は椅子の背に手を置き、初めてはっきりとした焦りを見せた。
「この会社が私にとってどれだけ大切か、あなたなら分かっているでしょう。神崎モビリティデザインは、私たちが一緒に支えてきた会社なのよ。それを壊して、本当に満足なの」
巧が場違いに口を挟んだ。
「黒瀬さん、ひどすぎます。玲奈さんは絶対に許しません」
神崎宗一郎と玲奈が、同時に振り向いた。
「黙って」
巧は怯えたように身を縮めた。私は玲奈を見た。
「君が彼を乗馬クラブへ連れていき、サミットへ連れていき、顧客に会わせていたとき、私が夫だと一度でも考えたか」
彼女は答えなかった。
「君の母親が何度も、私の性格が強いとか、子どもを残せないとか言ったとき、君は一度でも私の味方をしたか」
玲奈の顔から、少しずつ色が抜けていく。
「何の実績もないインターンを業界サミットにねじ込み、特別休暇と案件権限まで与え、会社中に私を笑いものにさせた。そのとき、私たちが夫婦だと思い出したか」
私は離婚届の控えをテーブルに置いた。
「君が思い出さなかったのなら、私ももう君を気遣う必要はない」
玲奈は駆け寄り、その書類をつかもうとした。私は避けた。彼女は私の手を握った。その力は震えるほど強かった。
「認めるわ。最初はたしかに、巧に構いすぎていた。でも彼を見ていると、子どもの頃、近所にいた弟みたいな子を思い出してしまったの」
その話は知っている。玲奈は幼い頃、近所に住む少年に淡い好意を抱いていた。その少年がいじめと噂に追い詰められたとき、彼女は彼をかばう勇気を持てなかった。以来、その出来事は彼女の中に長く残り続けていた。
しかし、星野巧は、もう死んでしまったその子ではない。
私はゆっくりと手を引いた。
「死んだ人間への後悔を、生きている誰かに重ねるべきじゃなかった。まして、そのために私の限界を何度も試すべきではなかった」
玲奈は首を振った。
「違うの。途中からは、あなたが強すぎることに腹が立っていただけだった。あなたに先に折れてほしかったのに、あなたは私の前で少しも崩れなかった。だから悔しくて、苦しくて、間違ったことを重ねてしまったの」
彼女は私を見つめた。その目には、ようやく本物の恐れが浮かんでいた。
「蒼真、お願い。一度だけ許して」
「私に折れてほしかったから、別の男の子を妊娠したのか」
彼女の顔が真っ青になった。
「詳しいことは言わないで」
私は遮った。
「気持ちが悪い」
玲奈の手が落ちた。
「君がどんな理由をつけようと、傷つけた事実は消えない。離婚届には証人二人の署名もそろっている。区役所で受理されたら、私たちはもう他人だ」
私は神崎家の人々を見た。
「婚前に取り決めた合意書も残っている。黒瀬家固有の資産には、一切触れさせない」
言い終えると、私は警備員に彼らを送るよう命じた。その瞬間、思っていたような爽快感はなかった。ただ、十年間背負っていた重い荷物が、ようやく肩から落ちたような気がした。
玲奈は車に押し込まれかけたとき、急にドアの縁をつかんだ。手はすぐに青紫に変わったが、それでも彼女は離そうとしなかった。
「蒼真、このまま帰るなんてできない」
彼女自身も気づいていないだろうが、その声にはもう制御しきれない焦りが滲んでいた。結局、私は警備員に手を離させた。玲奈は私の前に戻り、両手で私の顔を包むようにして、無理に視線を合わせさせた。
「本当に分かったの。たとえ私たちの関係に問題があったとしても、たとえあなたが強すぎるところを憎らしく思っていたとしても、私は直接あなたに言うべきだった。関係のない人間を入り込ませるべきじゃなかった」
彼女の声が低くなった。
「離婚しないで。お願い」
6.子どもと戻れない裂け目
玲奈は、差し出せるものをすべて私の前に並べた。会社の受注は、私が持っていけるだけ持っていっていい。自分名義の株式も譲る。神崎家を離れ、海外で暮らしてもいい。そうすれば、母親が二度と私に干渉することもないとまで言った。
結婚して十年、私たちは甘い夫婦ではなかったが、互いに支え合ってきた時間は確かにあった。ここまで無様な玲奈を見るのは、これが初めてだった。以前なら、私は心を揺らされたかもしれない。
だが今は、もう遅すぎた。
「玲奈。今ここで同意すれば、少なくとも私たちの間には体面が残る」
彼女は私を見つめた。
「私たちは、どちらもこの業界で名前を知られている。きれいに別れたほうが、お互いのためだ」
その夜、玲奈は誕生日の席を離れた。だが諦めなかった。それから数日、彼女は毎日花を送り、手料理を作り、まるで付き合い始めた頃のように私のオフィスの外で待っていた。私の辞任願を承認せず、HRに核心メンバーの退職手続きを引き延ばさせようともした。私が神崎モビリティデザインへ戻ったのは、肩書きに未練があったからではない。
そこには、私が自分の手で育ててきた人間がまだ大勢いた。黒瀬の新会社は、すぐに全員を受け入れられる状態ではなかった。だからこそ、私は引き継ぎを終えなければならなかった。かつて私について命を削って働いてくれた人たちを、崩れかけた現場に置き去りにするわけにはいかなかった。
星野巧については、玲奈がようやく全社員の前で処理をした。それは感情任せの即時解雇ではなかった。人事と法務が調査を始めた。SNSでの扇動、社内行程の漏洩、職場秩序を乱した行為、無断欠勤、会社の信用を傷つけた記録が一つずつ確認された。さらに彼は、フォロワーたちと私邸へ押しかけた件で、住居侵入、器物損壊、傷害の疑いにより警察の捜査を受け、最終的に書類送検された。
彼は刑務所に入ったわけではない。だが業界内での評判は、完全に終わった。まともなデザイン会社で彼を採用しようとするところは、もうどこにもなかった。
玲奈は後悔すればするほど、巧の姿に耐えられなくなった。彼女は毎日のように彼へ冷たい言葉を投げ、優しさなど一切見せなかった。かつて彼を持ち上げていたSNSのフォロワーたちも、真相が広がると手のひらを返し、彼を攻撃し始めた。巧は、「女社長に可愛がられる年下男子」から、「相手が既婚者だと知りながら近づいた男」へ変わった。
玲奈は何度も、産婦人科に今後のことを相談したいと言い出した。美智子は慌てて彼女を神崎家へ連れ戻し、毎日そばについて見張った。まるで神崎家に残された最後の切り札を守るかのようだった。
ある日、玲奈がふいに巧に会いたいと言い出した。長く玲奈に会えていなかった巧は、神崎家に来るなり、ほとんど泣き出しそうなほど喜んだ。彼は玲奈のわずかにふくらんだ腹を見て、目を輝かせた。
「玲奈さん、僕を捨てるはずがないって信じていました。もう五か月くらいですよね。名前は考えましたか」
玲奈は聞こえていないかのようだった。彼女は自分の腹を見つめ、目を赤くした。
「蒼真の『蒼』を入れるわ。名前は、蒼にする」
巧が固まった。このとき、玲奈はもう彼に心を許していなかった。
彼女は巧を向かいに座らせ、彼が語る幼稚な未来を黙って聞いていた。子どもは神崎姓にできる、僕が専業で育ててもいい、あなたが蒼真さんとの復縁に失敗しても、僕はずっとそばにいる。そう言えば言うほど、玲奈の顔色は白くなっていった。
その夜、玲奈と美智子は激しく言い争った。玲奈は産婦人科へ相談に行きたいと言い、美智子は断固として反対した。口論の最中、玲奈は感情の糸を切らし、腹痛を訴えて倒れた。救急車が着いたとき、神崎家の絨毯には暗い染みが広がっていた。
玲奈は救急搬送された。
子どもは助からなかった。
美智子はその場面を見て倒れた。その後、彼女は脳卒中の後遺症で長く寝たきりになった。宗一郎は妻の介護をしながら、悪化し続ける会社の経営を処理し、流産後に陰りを増した娘にも向き合わなければならなかった。ついに彼の怒りは爆発した。
子どもがいなくなれば、星野巧に神崎家での価値はない。その日のうちに、彼は神崎家から追い出された。彼と玲奈は一度も婚姻届を出していない。誰かに訴えようにも、その立場すらなかった。
最後に彼へ残されたのは、冷たい一言だけだった。自業自得だ。
7.間違った相手から離れたあと
私は都心に新しく高級マンションを借りた。玲奈はしばらくの間、毎晩のように酒に酔って私のマンションの下へ現れた。植え込みのそばに座り込み、コートを抱えたまま、何度も私にメッセージを送ってきた。
私は降りなかった。
ある夜、星野巧がどこからか彼女の居場所を聞きつけてやってきた。彼は私が捨てた古いコートを着て、立っているのもやっとの玲奈を支え、その場から連れていった。その夜に何があったのか、私はもう尋ねなかった。後日、玲奈は自分がはっきりした意識で受け入れたわけではないと説明しようとした。
私は一言だけ返した。
「それは弁護士と警察に相談すべき話だ。私を引き止める材料に使うことじゃない」
それ以来、彼女は私のマンションの下へ来なくなった。
やがて、玲奈の妊娠が確認された。巧は最後の命綱をつかんだような顔で、私の前に現れた。まだ若いはずなのに、顔には隠しきれない歪みが浮かんでいる。マンションの入口に立つその目つきは、ようやく獲物に噛みついた野良猫のようだった。
「黒瀬さん、自分が勝ったと思っていますか」
私は何も言わなかった。
「あなたは玲奈さんの会社から顧客を奪い、僕を追い出しました。でも最後に玲奈さんのそばにいるのは、僕です」
彼は得意げに顎を上げた。
「彼女、また妊娠しました」
私は彼を見て、ただ哀れだと思った。人生のすべてを他人に賭ける人間は、いつか必ずひどく転ぶ。だが巧にはそれが分からない。私が何を言ったところで、彼は敗者の嫉妬だとしか受け取らないだろう。
玲奈は再び妊娠したあと、ようやく離婚手続きに協力した。離婚届が区役所で受理された日、彼女は車の中で長いあいだ動かなかった。あの夜のことを説明しようとしたが、私は手を上げて止めた。
「もういい」
彼女は私を見た。
「もう、気にしていない」
玲奈の目から、少しずつ光が消えていった。
だが、それはもう私とは関係のないことだった。兄の黒瀬悠一の支援を受け、私は自分の会社を立ち上げた。社名は、黒瀬モビリティデザイン。最初は小さなデザイン事務所にすぎなかった。だが私についてきてくれた核心チームがいる。私たちは、必ずもう一度立て直せると信じていた。
玲奈と巧は、少しずつ私の生活から遠ざかっていった。神崎モビリティデザインは、かつて業界でも知られた新鋭企業だった。しかし核心チームが離れてから、勢いは目に見えて落ちた。玲奈は社長でありながら、自分で営業へ回らなければならなくなった。かつて彼女の周りに集まっていた人々も、もう以前ほど顔色をうかがうことはなかった。
最後に私たちが正面から顔を合わせたのは、同じ商談案件の競合プレゼンだった。私はアシスタントとともに相手企業の要望を事前に調べ、完成度の高い提案書を用意した。相手社長の夫人が健康と地方工芸に関心を持っていると知り、コンプライアンスの範囲内で、地方工芸の茶器と無添加の菓子を手土産にした。手土産はあくまで訪問時の挨拶にすぎない。結果を決めたのは、私たちが準備したデザイン案だった。
一方で、玲奈と巧は部屋の隅に座っていた。テーブルの上には、場にそぐわない安物のネックレスが置かれていた。打ち合わせの間、相手の夫人はずっと私とデザイン理念について話し、彼らには一度も目を向けなかった。
階下へ降りたあと、玲奈は巧の頬を打った。
「ビジネスの場にふさわしいものを用意してと言ったでしょう。こんなものを渡して、誰を相手にしているつもりなの」
巧は頬を押さえ、壁際へ縮こまった。
「普段は実家に送金したり、弟の家のために何十万も使ったりするくせに、本当に仕事で必要なときにはこんなものを出すのね」
彼女の声は、言うほどに冷えていった。
「この案件を落としたら、会社の人間が全員困るのよ。まだお坊ちゃんみたいに暮らせると思っているなら、夢を見るのもいい加減にして」
巧は床に座り込んだ。その姿は、かつて彼が最も見下していた敗者そのものだった。
玲奈は私に気づいた。駐車場の出口に立ち、長いあいだ私を見つめていた。その瞬間、私は十年前に雨の中で跪いていた彼女と、いま自分の選択に縛られている彼女を、同時に見た気がした。
私は足を止めなかった。
その後、玲奈は何度か協業の名目で私の会社を訪れた。だがそのたびに、受付が丁寧に彼女を断った。今の神崎モビリティデザインには、黒瀬と組む資格はもうない。
息苦しい結婚から離れてから、私の仕事はますます順調になった。
兄は後に、一人の若いデザイナーを紹介してくれた。彼女は率直で、冷静で、自分の考えをきちんと持っていた。初めてコーヒーを飲んだとき、私は先に自分の考えを伝えた。
「しばらくは、結婚を考えるつもりはありません」
彼女はコーヒーカップを両手で包み、軽く笑った。
「それなら、まずは一杯のコーヒーから始めましょう」
その瞬間、私はふと思った。間違った相手から離れても、人生は空っぽにはならない。風はまた吹き込んでくる。光もまた差し込んでくる。
そして私はもう、誰かの過ちの代金を払う必要はない。
――完――




