「白い結婚」で構わないと言ったのは旦那様ですよね? 離宮でスローライフを謳歌していたら、一ヶ月で「寂しくて死にそうだ」と扉を壊されました
「この婚姻に世継ぎは求めない。今後も夫婦の契りを結ぶつもりはない。形だけの夫婦として暮らしてもらいたい」
婚礼から三ヶ月目の夜、レオナルド殿下は実に凛々しい顔でそうおっしゃった。
銀色の髪は夜の執務を終えても乱れひとつなく、青い目には王弟らしい落ち着きがある。国境交渉を三度まとめた若き公爵は、妻へ白い結婚を告げるときにも隙を見せないらしい。
私たちは婚礼の日から同じ公爵邸で暮らしていた。
毎朝同じ卓で食事を取り、私は殿下の執務室に飾る花を選んだ。夕食後には居間で茶を飲み、その日に起きた出来事を話した。殿下は私のカップへ勝手に蜂蜜を足し、甘すぎると抗議すれば、自分の方が長く飲んでいるから加減を知っていると言い張った。
穏やかな新婚生活だったと思う。
ただし初夜だけは、三ヶ月にわたって先延ばしにされていた。
婚礼の夜は王宮から急な呼び出しがあり、その後も国境視察や夜間の会議が続いた。落ち着いたら時間を取ると言われ、私は急かさず待った。寝室を訪ねる約束が延期されるたび、殿下は翌朝の食卓に私の好物を増やした。
料理長の腕が上がっていくほど、私の胸には小さな疑問が積み上がった。
その答えとして渡されたものが、白い結婚の提案である。
「国王陛下には王太子殿下と第二王子殿下がいらっしゃいます。それでも旦那様のお子を担ぐ者が現れるのですか?」
「未来の息子を新たな王位継承者に、という書状が見つかった。まだ生まれてもいない子供へ忠誠を誓うそうだ。兄上の子供たちを脅かす芽は、最初から摘んでおきたい」
「だから三ヶ月間、私との初夜を延ばしていらしたのですね」
「政争が収まる可能性も考えていた。期待したほど貴族は賢くなかったが」
殿下は淡々と答え、婚姻条件を改めるための書類を机へ置いた。
「君へ夫婦の務めを求めることもない。これまでどおり公爵邸で暮らし、食事や公務を共にすればいい」
ずいぶんと都合のよい話である。
私は妻として求められる日を三ヶ月待った。
一ヶ月目には殿下の体調を案じ、二ヶ月目には私に改めるべきところがあるか尋ねた。どちらにも問題はなく、もう少し待ってほしいと答えられたので、その言葉を信じた。三ヶ月目には理由を問いただすことも考えたが、朝食で疲れた顔をしている殿下を見て、また口を閉ざした。
私は寝室へ招かれること以上に、迷いや不安を夫婦として打ち明けてほしかった。子を持たない未来を選ぶとしても、二人の暮らし方は二人で決めたかった。
殿下なりに、私を夫婦の義務から解放し、穏やかな生活を残そうとしたのだろう。その善意まで疑う気はない。
しかし殿下は私にとっての幸せを一人で決めた。私が傷つく可能性には気づかず、会話と食事だけは今までどおり求めている。
胸の奥が冷えた後、不思議なくらい頭はすっきりした。
白い結婚。その言葉どおり、夫婦の形だけを残せばよいのだろう。
「承知いたしました。では、こちらへ署名をお願いいたします」
「……用意がいいな」
「三ヶ月ございましたので、私にも考える時間は十分にありました」
机へ置いた確認書には、互いの寝室へ許可なく立ち入らないこと、世継ぎを求めないこと、必要な公式行事を除いて別々に暮らすことが記されている。私は最後の条項を指先で示した。
「王家から使用を許されたルーネ離宮へ、明朝移ります。生活費は契約どおり、旦那様の公爵家財政から年に二度ご支給くださいませ」
「明朝?」
「善は急げと申します」
レオナルド殿下は初めて隙らしい隙を見せた。青い目が丸くなり、署名用のペンが宙で止まっている。
もしや離宮の屋根に穴でも開いているのだろうか。古い建物だから多少の修繕は必要だと聞いている。雨漏りを受ける桶くらいなら自分で選びたい。
「必要な行事には戻ります。公爵夫人としての責務も、事前に日程をいただければ果たしますわ」
「いや、そういう問題では……」
「ほかに条件がございますか?」
「……ない」
ないそうである。
それなら話は早い。私は署名をいただき、その夜のうちに侍女長へ荷造りを頼んだ。
翌朝、夫が起きるより先に王都を出た。
◆
ルーネ離宮は小さな湖と森に囲まれた、石造りの古い屋敷だった。
七年も王族が滞在しておらず、庭は伸びた草に覆われ、温室の窓は半分ほど割れていた。厨房のかまどは無事で、井戸の水も澄んでいる。何より朝から晩まで父と兄の怒鳴り声が響く実家より静かだった。
うむ。大変よろしい。
「奥様、本当にこちらでお暮らしになるのですか?」
私についてきた侍女のミアは、玄関広間で天井を見上げた。そこには立派な蜘蛛の巣が三つ並んでいる。
「もちろんよ。まず寝室と厨房を整えましょう。あとの部屋は必要になってからで十分だわ」
「公爵邸には百人近い使用人がおります。こちらには八人しか残っておりませんよ」
「名前を一ヶ月で覚えられる人数ね。素敵だと思わない?」
ミアは何か言いたそうに口を開き、やがて諦めた顔で袖をまくった。彼女は私のこういうところをよく知っている。
離宮での暮らしは忙しく、それ以上に楽しかった。
庭師のハンスに教わりながら薬草園を作り、料理長のマルタとは近隣の村で乳と卵を買う契約を結んだ。割れた温室の窓には王都から職人を呼び、使える建具を残して修繕費を抑えた。湖へ続く小道の草を刈ると、夕方には水面へ沈む夕日がよく見えた。
私は朝寝坊を覚え、泥のついた靴で庭を歩き、自分で摘んだ香草を入れたスープを食べた。
何だこれ。自分のためだけに使える一日とは、こんなに楽しいものだったのか。
夫から届くものは、公爵家の紋章が入った封書ばかりだった。
一通目には、無事に着いたかと書かれていた。
私は無事ですと返した。
二通目には、離宮で不自由をしていないかと書かれていた。
私は温室の修繕費を請求した。
三通目には、王都へ戻る予定はあるかと書かれていた。
私は翌月の王家主催の夜会には出席しますと返した。
すると四通目から、封書の届く間隔が妙に短くなった。朝食には何を食べた、王都は雨だった、執務室の窓辺に置いてあった花が枯れた。返事に困る内容ばかりである。
白い結婚にも日報が必要なのかしら。
私は考えた末、離宮の月次報告書を作った。修繕の進み具合、使用人の配置、村から購入した食材の金額まで表にして送る。これなら公爵家の当主にも役立つだろう。
返事は三日来なかった。
きっと満足してくださったに違いない。
離宮へ移って三十一日目の午後、私は温室で採れた木苺の焼き菓子を食べていた。
新しい生活は順調だった。温室の窓はすべて入り、雨漏りも止まり、村の女たちが作った敷物を買う相談もまとまった。離宮で使う品を近隣から買えば、村には現金が回る。こちらは新鮮な食材と働き手を得られる。皆が少しずつ得をする仕組みは気分がいい。
「奥様、大変です!」
ミアが居間へ駆け込んできた。
「北の畑に鹿でも入った?」
「旦那様がいらっしゃいました!」
鹿より珍しいものが来た。
「先触れは?」
「ございません。門番が面会の約束を尋ねたところ、ご自分は夫だとおっしゃって、そのまま玄関まで……」
ミアの言葉を遮るように、廊下から重い音が響いた。
どん。
もう一度、どん。
古い蝶番が悲鳴を上げ、居間の扉が錠前ごと内側へ倒れた。
舞い上がった埃の向こうにレオナルド殿下が立っていた。銀色の髪は乱れ、上着の肩には乾いた泥がつき、片方の手袋を失っている。馬を飛ばしてきたのか、頬もわずかに赤い。
凛々しい王弟殿下はどこへ行った。
今いるのは高価な服を着た不審者である。
「クラリッサ。三ヶ月間、朝食も夕食も君と一緒だった。執務室の花は君が選び、夜にはその日の出来事を話していた。それが急に月次報告書だけだ。妻を迎えた結果、結婚前より一人の時間が増えているのは、どう考えてもおかしい。私の執務にも支障が出かねないから、責任を取って話を聞いてくれ」
随分とこちらのせいにしてくれる。
私は手にしていた焼き菓子を皿へ戻した。こういうときこそ、よく噛んでから話さねばならない。公爵夫人たるもの、木苺を喉に詰まらせては末代までの恥である。
「白い結婚で構わないと言ったのは旦那様ですよね? 別々に暮らすという確認書にも署名なさいました」
「言ったし、署名もした。だが君がここまで徹底して姿を消すとは想定していなかった」
「こちらの扉は昨日、磨き終えたばかりです」
「蝶番が古すぎた。私が来なくても、いずれ壊れていただろう」
レオナルド殿下は壊れた扉を振り返った。少しだけ冷静さが戻ったらしい。床には蝶番から外れた木の板と、砕けた錠前が転がっている。
「昨日いらした職人は、あと十年は使えるとおっしゃっていました」
「……なら私が壊した。弁償する」
「修繕中は警備の者を増やします。扉だけでなく、その費用も旦那様にお支払いいただきます」
「もちろん払う。警備が心配なら、私がここに滞在する方が話は早い」
「滞在は認めておりません。先触れを出し、面会の約束を取ってからお越しくださいませ」
「先触れを出し、約束を取り、許可された時刻に来る。随分と手順が多いな」
「扉を壊すより簡単です」
「……それは否定できない」
よろしい。
私はミアに新しい茶を頼み、向かいの椅子を示した。話を聞く気はある。壊した扉から入ってきた男を夫だからと許す気はない。
レオナルド殿下は椅子へ腰を下ろしたものの、落ち着かない様子で私を見ていた。
「私は、君が離宮へ移るとは思っていなかった」
「離宮へ移ると、あの夜に申し上げました」
「公爵邸の東棟を使うと思っていた。食事や茶は共にして、夜だけ部屋を分けるものだと……」
「随分と都合のよい白い結婚ですこと」
「言葉の意味について、君と私で少々認識に違いがあったようだ」
「妻の同意を取らずに決めたことも、認識の違いで片づけますか?」
「……あの晩の私は判断を誤った。これで満足か」
自分の過ちを認めるにも前置きが長い。知っております、と言いかけた言葉は茶で流し込んだ。本人が自力で気づいたのなら、私がとどめを刺す必要はない。
国王陛下には健康な王子が二人いる。それでも王弟の息子を新たな王位継承者として担ぐ計画が見つかり、殿下は争いの芽を消すために子を持たない婚姻を望んだ。その危険は私にも理解できる。
だからといって妻の気持ちまで遠ざける必要がどこにあったのか。
「私は君を政争に巻き込みたくなかった。子を望まなければ、夫婦らしい関係を求めることも君を縛ると思った」
「私へ尋ねるという方法がございました」
「聞けば君は、私の事情を理解して受け入れただろう。だから尋ねる意味が薄いと思った」
「受け入れるかどうかを決める機会まで奪っております」
「私の考えを聞かずに決めて、私は自由にしてやったと思っていらしたのでしょう?」
「君は容赦がないな。だが、その点は否定できない」
一度は言い返さないと負けた気になるらしい。最終的には認めるので、あと一ヶ月早くこの会話ができていれば扉も無事だった。
「旦那様のご不満は分かりました。それで、扉を壊してまで私に会いに来た理由は、執務への支障だけですか?」
「食事も花も夜の会話も、公爵家の生活を円滑にするために必要だ」
「公爵家のためだけですか?」
私が重ねて尋ねると、レオナルド殿下はそこで勢いを失った。壊した扉へ視線をそらし、唇を引き結ぶ。
「それと……寂しくて死にそうだ」
埃をかぶった耳だけが、先ほどより赤くなっていた。
「私は君と過ごした三ヶ月を、公爵家の生活に必要な習慣だと思っていた。君が去ると、食事も花も意味を失った。認めるのは癪だが、私は習慣を惜しんでいるのではなく、君を恋しく思っているらしい」
「私には夫婦として何も求めず、旦那様は私との会話や食事を求めるのですか?」
「馬鹿な話だがすべて失ってから気づいたのだ」
殿下は膝の上で両手を組んだ。いつも堂々としている広い肩が、今は小さく見える。
少し胸が痛んだ。
困る。顔が好みの夫がしおらしく反省すると、こちらの判断力まで鈍りそうになる。交渉の場へ顔のよさを持ち込むのはずるい。布でもかぶっていてほしい。
「公爵邸の東棟は、君の好きに改装していい。庭も温室も新しく用意する」
「つまり、戻ってきてほしいと?」
「そこまで言わせるつもりか」
「旦那様のお願いですから、旦那様の口でおっしゃってくださいませ」
「……戻ってきてほしい」
「申し訳ありませんが、お断りいたします。私は離宮の暮らしが気に入っておりますので」
「今度は理由も聞かずに断るのか。君も私のことを責められないぞ」
「生活する場所を選ぶのは私です。旦那様の気持ちまで、私が代わりに決めた覚えはございません」
「なら私がここで暮らす。客室のひとつくらい空いているだろう」
「そちらもお断りいたします。扉を壊した方と、今日から同じ屋根の下で安心して眠れると思いますか?」
「……あの扉は、いつまで私の邪魔をするつもりだ」
殿下は壊れた扉をまた見た。
あの扉は実に働き者である。倒れた後も、私の主張を支えてくれている。
「では条件を聞こう。私にも王弟として譲れないものはあるが、扉一枚分ほど譲歩する用意はある」
「まず婚姻条件を改めます。私が離宮で暮らす権利と管理権を明記してください。公爵家の行事へ出席するときは、日程と役目を事前に示し、必要な費用を別にお支払いいただきます」
「離宮を君の管理地とすることに異論はない。公務の費用についても契約へ明記しよう」
「夫婦関係を始めるか、子を望むかは、二人で話し合って決めます。旦那様お一人で結論を出すことは禁止です」
「夫婦の決め事を二人で決める。それくらい私も承知している」
「その当然を一ヶ月前にご存じなかったので、書面にいたします」
「契約書に書けと言いたいのだろう。分かった」
「王都では、私が旦那様の不興を買って離宮へ追いやられたという噂が出ているそうです。次の夜会で訂正してくださいませ」
殿下の眉が寄った。噂を知らなかったらしい。
「誰がそんな噂を広めた。すぐに調べさせる」
「調べるだけで終わらせず、ご自分の言葉でお願いいたします」
「私の失敗を大広間で披露すれば、君の名誉は戻るのだな」
「旦那様が事実を認めてくだされば十分です」
「分かった。自分の言葉で訂正すると約束する」
「最後に、一ヶ月の猶予をいただきます」
「猶予?」
「その間、旦那様には私を口説き直していただきます。本当に私との生活を望んでいるのか、寂しさを埋める相手が欲しいだけか、行動を見て判断いたします」
我ながら厳しい条件だと思う。
しかしレオナルド殿下は迷わなかった。
「一ヶ月で君が納得しなければ、そこで終わりか?」
「そのときは、一ヶ月間の行いを見て改めて判断いたします」
「なら構わない。君が頷くまで、私は延長を申し立てる」
やめてほしい。そういう台詞を、その顔で真っすぐ言うのは反則だ。
私は茶を飲み、熱くもないのに頬が赤くなった理由を湯気のせいにした。
◆
二週間後、王宮の大広間で夏の夜会が開かれた。
私が離宮から持参した薄青いドレスで入場すると、会話の波が一瞬だけ静まった。すぐに音楽と囁き声が戻る。
捨てられた公爵夫人が来た。
夫に追い出されたらしい。
三ヶ月で夫に見限られ、離宮へ送られたそうよ。
皆様、耳元で囁けば本人には聞こえないとお考えらしい。貴族の囁き声は妙によく通る。秘密を守る用途には向いていない。
レオナルド殿下は広間の中央で私を待っていた。
濃紺の正装をまとい、髪も完璧に整えている。扉を壊した日の面影はどこにもない。近くにいた令嬢たちが頬を染めているので、顔の威力も平常どおりらしい。
殿下は私の前まで歩み寄ると、周囲から見えるように深く頭を下げた。
「クラリッサ。私の浅慮によって、君の名誉を傷つけたことを謝罪する」
広間が静まり返った。
王族が妻へ公然と頭を下げたのだから当然だろう。少し離れた玉座では、国王陛下が笑いをこらえるように口元を押さえている。実の弟が妻に叱られる姿を楽しんでおられるな。
「白い結婚を提案し、別居を認める書面へ署名したのは私だ。妻は契約に従って離宮へ移った。彼女を追い出した事実も、彼女が私の不興を買った事実もない」
レオナルド殿下の声は広い空間の隅まで届いた。
「ルーネ離宮は今後、クラリッサの管理地とする。離宮で生じた利益は維持費を除いて彼女の裁量に委ね、公爵家の公務を依頼する際には相応の予算をつける。契約書は国王陛下の立ち会いのもとで改めた」
ざわめきが広がった。
離宮へ移った頃の私は、夫の都合で形だけの妻となった。今の私は、自分の管理地と収入を持つ公爵夫人である。壊れた扉一枚から、随分と話が大きくなったものだ。
殿下は顔を上げ、今度は私だけを見た。
「私は妻の望みを聞かず、よい夫になったつもりでいた。その結果、妻に捨てられかけている。諸君には私を反面教師として、伴侶との話し合いを大切にしてほしい」
大広間のあちこちで咳払いが聞こえた。笑いを隠しているのだろう。
国王陛下は隠す気もなく笑っていた。
「よく申した、レオナルド。クラリッサ、愚弟を今後も教育してやってくれ」
「成果をお約束するには、まだ観察期間が必要でございます」
今度こそ広間に笑いが起きた。
私を哀れんでいた人々が一斉に目をそらし、離宮の温室や村との取引について尋ねる人が集まってくる。社交界とは現金な場所である。だからこそ、使いようもある。
私は離宮で作る敷物や保存食を、秋の慈善市へ出品する話をまとめた。噂を聞きに来た人々へ仕事の話を持ち帰らせれば、村には新しい注文が入る。
夫の公開謝罪まで利益へ変える私は、なかなかよい管理者だと思う。
夜会の最初の曲が始まる前に、レオナルド殿下が手を差し出した。
「一曲、お願いしても?」
「本日は公爵夫人として出席しておりますので」
「公務として踊ってくれるのか」
「口説き直しの評価項目にも加えておきます」
「努力しよう」
殿下は私の歩幅に合わせ、決して急がなかった。
その夜の彼は一度も私の手を強く引かず、私が村の話をすると最後まで聞いた。踊り終えると休憩の時間を尋ね、勝手に次の曲を予約することもなかった。
うむ。今のところは合格。
◆
一ヶ月の猶予期間中、レオナルド殿下は週に二度、離宮を訪れた。
毎回三日前までに手紙が届き、到着時刻と帰宅時刻まで書かれている。最初の訪問では王都の菓子を持参し、二度目には離宮の帳簿を見て村道の修繕費を王家から引き出した。三度目には何も持たず、私が庭仕事を終えるまで黙って待っていた。
扉の修繕にも顔を出した。
職人に任せればよいものを、壊した責任があると言って古い金具を運び、上着を木屑だらけにしていた。金槌の扱いは恐ろしく下手だったので、途中から材木を押さえる役へ回されていた。
王弟殿下にも不得意なことはあるらしい。
私はそれを知るたび、少しずつ彼への警戒を解いた。
三ヶ月の新婚生活で、殿下は正しい夫であろうとし、私も正しい公爵夫人であろうとしていた。互いに整った部分だけを見せた結果、彼は一人で私の幸せを決め、私は傷ついた理由を伝えず離れた。
今は違う。
嫌なことは嫌だと言い、寂しいときは寂しいと言う。相手の返事が自分の望みと違っても、扉を壊さず話し合う。
最後の部分は、主に殿下が学ぶべき内容である。
一ヶ月後、新しい扉が居間へ取りつけられた。
磨かれた木には湖の波を表す彫刻が入り、以前より丈夫な錠前もついている。私は仕上がりを確かめるため、室内でミアと茶を飲みながら待っていた。
やがて廊下から足音が近づき、扉の前で止まった。
こん、こん。
控えめな音が二度響く。
「クラリッサ、入ってもいいだろうか」
私はミアと顔を見合わせた。彼女は笑いをこらえ、澄ました顔で茶器を整えている。
「どなたです?」
「君の夫で、現在は求婚者のレオナルドだ」
「本日の面会予定は?」
「午後三時から五時まで。焼き菓子も持参した」
「扉を壊すご予定は?」
「二度と壊さない」
よくできました。
私は席を立ち、新しい扉を開けた。
レオナルド殿下は淡い色の花束と菓子箱を抱えて立っていた。初めて会った頃と変わらず整った顔をしている。ただし青い目には、以前よりずっと分かりやすい期待と不安が浮かんでいた。
「一ヶ月、私を見てどう思った?」
「旦那様には、もう少し観察が必要です」
殿下の肩が落ちる。
「ですが、離宮の客室をひとつ整えました。王都へ戻るのが遅くなった日は、そちらをお使いください」
「それは」
「寝室は別です。白い結婚を続けるかどうかも、これから二人で決めます」
「ああ。急がない」
「それから、この扉の鍵を一本お渡しします」
殿下の顔が明るくなった。
「クラリッサ」
「鍵を持っていても、まずはノックから覚えてくださいませ」
「もちろんだ」
彼は壊れ物を扱うように鍵を受け取った。
扉一枚を壊して私の暮らしへ飛び込んできた夫は、新しい扉の前でようやく立ち止まることを覚えたらしい。
次は二人で同じ扉を開ける方法を考えればいい。
急ぐ必要はない。
離宮での暮らしはゆっくり進む。その速度を気に入ったのは、どうやら私だけでもなさそうだった。
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