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第四話:隣人の刃

天文三年 神無月 / 西暦一五三四年 十月

 嵐が去った後の阿波は、美しくも残酷な静寂に包まれていた。

 吉野川の氾濫は人々の営みを等しく泥に沈めたが、その中で唯一、平島館だけが「蔵一杯の籾」という、この世で最も罪深い宝を抱えて残ってしまった。

(……最悪だ。均衡が崩れた)

 三郎は館の物見櫓から、遠くの村々から立ち上る弱々しい煙を見つめていた。

 本来なら、父・義維が領主として民に食糧を分配し、徳を積むべき場面だ。しかし、足利の名門としての誇り――あるいは「京への復帰」という執念が、父の目を曇らせていた。

「三郎。またそのような湿気た面をしておるのか。見ろ、我が館だけが神仏に守られた。これぞ足利が正統である証よ」

 兄の幸若が、自慢げに刀の柄を叩く。八歳の彼にとって、蔵の籾は自分の武勇を支えるための燃料に過ぎない。

「……兄上。神仏の加護に見えるものは、飢えた者には『奪うべき標的』に見えるものです。周辺の村に少しでも炊き出しをせねば……」

「馬鹿を言え。民を甘やかしてどうする。奪いに来るというなら、この幸若が切り伏せるまでよ」

 幸若は三郎の忠告を「四歳の臆病風」と笑い飛ばし、稽古へと向かった。

 だが、事態は三郎の予想よりも早く、そして醜く動き出していた。

 その日の夕刻。

 平島館の門前に、近隣の小領主・大郷一族が兵を引き連れて現れた。

 「嵐で蔵を失った。足利の慈悲をもって、籾を分けていただきたい」

 表向きは嘆願だが、その手には槍が握られ、目は飢えた狼のそれだった。

 父・義維は断固として拒絶した。

「我が備蓄は、京に登るための聖なる糧。大郷ごとき土豪に分ける道理はない」

 交渉は決裂し、夜の帳と共に、殺気が館を包み込んだ。大郷一族は、闇に乗じて館を力尽くで奪う決断をしたのだ。

「来たか……。柳斎先生、準備は?」

 三郎は蔵の影で待機していた柳斎を見上げた。柳斎は、手にした竹筒を弄びながら不敵に笑う。

「若君が『泥遊び』で作られたあのアレ、試すには絶好の機会ですな。大殿や幸若君は正面の門に固執しておいでですが……」

「敵は、水が引いたばかりの『北側の沼地』から来ます。あそこが一番、警備が薄いと思い込んでいるから」

 三郎の脳内には、前世で学んだ「浸透流」のシミュレーションが展開されていた。北側の沼地は、一見すると足を取られるだけの泥濘に見える。しかし、三郎は嵐の間にそこへ「ある細工」を施していた。

 夜半。

 「掛かれッ!」という低い号令と共に、百余名の大郷勢が北側の沼地を突き進んできた。彼らは、泥の中に敷かれた「竹の足場」を見つけ、ほくそ笑んだ。

「運が良い! 誰かが逃げ道を作っていたようだぞ!」

 だが、それこそが三郎の罠だった。その竹の足場は、三郎が「計算された崩壊」のために配置したものだ。大郷の兵が数十人、その足場に乗った瞬間。

 ガコォォォォン!!

 三郎が遠隔で引き綱を引くと、支柱となっていた「青石の楔」が外れ、竹の足場が一斉に反転した。同時に、溜め込まれていた上流の濁水が、三郎の作った簡易ダムから一気に放流される。

「な、なんだ!? 水が――! 足場が沈むッ!」

 兵たちは底なしの泥濘に引きずり込まれ、そこへ流木や石が混じった濁流が襲いかかる。もがき、叫ぶ兵たちの前に、闇の中から小さな人影が現れた。四歳の三郎だ。

「……柳斎先生。今です」

 柳斎が三郎の指示通り、上流に溜めておいた「藍の滓」と「生石灰」を混ぜた粉末を一斉に投げ込んだ。泥水と化学反応を起こした水は、激しい熱を帯び、目や喉を焼く刺激臭を放つ。

「目がッ! 目が見えぬッ! 鬼だ、この館には鬼が住んでいるぞッ!」

 大郷の兵たちは、合戦に至る前に正体不明の「怪異」に呑み込まれ、次々と逃げ出した。三郎はその凄惨な光景を、ただ無機質なエンジニアの目で観察していた。

(死者は最小限に留めた。だが、これで分かったはずだ。この館を攻めることは、理不尽な死に直結するということが)

 翌朝。

 泥まみれになり、戦意を喪失して道端に転がる大郷の兵たちを見て、兄の幸若は首を傾げた。

「……何が起きたのだ? 大郷の連中、戦わずして敗走したというのか? やはり、足利の威光に恐れをなしたのだな!」

 幸若は勝ち誇り、父・義維もまた「神仏の加護」を確信した。誰も、四歳の三郎が夜通し紐を引き、計算に基づいた水流制御で敵を追い払ったことなど、露ほども思わない。

 ただ一人、柳斎だけが、泥を洗い流す三郎の小さな手を取った。

「若君。今宵の戦、兵法ではございませぬな。これは……『管理』です」

「……管理?」

「ええ。お主は敵を倒したのではありません。この地における『生存の理』を書き換えたのです。捕食者が、毒を持つ虫を避けるように、彼らはお主を避けるようになる」

 柳斎は三郎の耳元で囁いた。

「ですが、お気をつけて。恐怖による支配は、いつか更なる強欲を呼びます。次は三好か、それとも――」

 三郎は柳斎の手をそっと振り払った。

「俺は、ただ静かに暮らしたいだけなんです。そのためなら……阿波の土すべてを、毒に変えても構わない」

 四歳の少年の瞳に、深い、深い泥のような影が宿っていた。平穏を求める心が、一歩ずつ、彼を「冷徹な支配者」へと変貌させていく。

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