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言霊のコンパイラ ~『バベルの塔』と失われた神の言(ロゴス)~  作者: 如月妙美


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第4章:バベルのファイアウォール ——言語のスクランブル

4-1:図書館の地下の禁書庫

 梅雨の合間の、まとわりつくような不快な湿り気を帯びた熱風がキャンパスを抜けていた。  徳永隆明と中尾玲子が向かったのは、国立至達大学図書館の最深部、通常の名簿インデックスからは完全に抹消された禁書庫だった。そこには、数世紀にわたって人の目に触れることがなかった、古びた羊皮紙や、文字が勝手に動く不気味な石碑が所狭しと並んでいた。

 室内には、酸化した紙の粉塵と、古いインクの匂いが重く沈殿している。徳永は、ルーペを片手に、一冊の巨大な……もはや本というよりは『物理的な記憶装置』と呼ぶべき古文書を睨みつけていた。その装丁は人間の皮膚を思わせる質感で、触れるだけで微かな電気信号が指先に伝わってくる。

「玲子、君は『バベルの塔』の伝説をどう解釈している? 神が人間の不遜を怒り、言語を乱したという甘ったるいお伽話か? 言葉が通じなくなったから塔が倒れたという、道徳的な訓話か?」

 玲子は、埃を避けるようにシルクのスカーフを口元に当てながら、冷徹な視線で書架をスキャンしていた。 「社会学的には、共通言語の喪失による意思疎通の断絶、およびそれによる巨大組織の崩壊、とされていますが……先生の口からその程度の退屈な答えが出るとは思えませんね。あなたは常に、神を意地の悪いエンジニアとしてしか見ていない。……もっとも、その見方の方が現状を正しく説明できているのが癪ですが」

「ふん。真実はもっと実用的で、かつ狡猾な工学的解決策だよ。バベルの塔とは、当時の人類が総力を挙げて構築した、巨大な『宇宙共通ソースコード』への直接アクセス端末だったんだ。神……つまりこの世界の管理者は、人類が宇宙の基底システムを共有し、自分たちの都合のいいように勝手にパッチを当てるのを恐れた。だから、管理者権限によって人類の言語プロトコルをランダムにスクランブル(暗号化)し、互いの関数を呼び出せないようにしたんだよ。それが『バベルのファイアウォール』の正体だ。我々が今使っているこの不完全な言葉は、元々の言語を何重にも暗号化した、低レベルなスクリプトの断片に過ぎないんだよ。パケットは届いても、ヘッダーが壊れていて中身が読めないんだ」


4-2:スクランブルの解除コード

 徳永は古文書の特定の記述を指差した。そこには、意味をなさないアルファベットと数式、記号の羅列が刻まれていた。だが、徳永の目には、それが高度な復号キー(デコード・キー)に見えていた。

「人類はそれ以来、『言語』という名の、解読に数千年もかかる暗号化された不完全な通信プロトコルを使い続けてきた。私たちが会話だと思っているものは、実はランダムに断片化されたパケットのやり取りに過ぎない。本来の全知全能に近い言語能力は、このファイアウォールの裏側に封印されている。……だが、見ていろ。ここに、当時の管理者が居眠りをした際に残した『復号関数』の残骸がある。奴らは自分たちのためのバックドアを消し忘れ、あるいはあえて残していった。いつか誰かが『デバッグ』に来るのを待っていたのかもしれないな」

 徳永がその文字列を、特定の不協和音と、心臓を直接叩くような重低音を伴って低く囁いた。その音は、鼓膜を震わせるのではなく、神経系に直接バイナリデータを流し込むような、不快な響きだった。

「……【リ・ブート・コード:ゼファー】」

 その瞬間、書庫内の空気の密度が急激に変化し、棚に並んでいた古書が一斉に、生き物のように勝手に開き始めた。ページがめくれる音は、いつしか「意味のある多言語の合唱」へと変わり、重なり合って一つの巨大な、しかし調和の取れた基本旋律となった。

「先生、壁が……文字化けしています! 空間のレンダリングが剥がれていく!」

 玲子が指差した先、書庫の石壁の表面から、古びた壁紙を力ずくで剥がすようにテクスチャが剥がれ落ち、その下に「宇宙の共通構文」である青白いコードの羅列が露呈した。それは、この現実という名のソフトウェアの裏側に隠された、真実の骨組みだった。世界が、ついにその隠しファイルを、警告なしに公開し始めたのだ。

「くく、ログイン成功だ。管理者のスクランブルを一時的にバイパスしたぞ。……玲子、この生データをすべて君のタブレットにダンプ(出力)しろ。これが、失われた『根源の文法プロトコル』を復元し、世界を再コンパイルするためのマスターキーになる。神様が数千年も隠したかった人類の『真の権利』を、今こそ力ずくで強奪してやるんだ。お前の官僚的な整理能力で、この膨大なログをインデックス化しろ!」

「……了解しました、先生。人類が数千年間封印されてきた『真実の定義』を、私のメモリに焼き付けてみせます。……でも先生、これ、ログのサイズが大きすぎて、私のメインボードが熱を上げ始めていますよ。私の演算能力じゃ、受け取るだけで精一杯です。……このままじゃ、私の思考回路もリブートが必要になりそうです」

 二人は、黄金の文字の吹雪が舞う禁書庫の中で、神が隠蔽した世界のソースコードを白日の下に晒し出していた。


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