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言霊のコンパイラ ~『バベルの塔』と失われた神の言(ロゴス)~  作者: 如月妙美


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第3章:フォネームのレジスタ ——音素の物理演算

3-1:豪雨の廃工場

 本格的な梅雨が訪れ、東京は不気味なほど重苦しい灰色の雲に覆われていた。大気は飽和し、呼吸するだけで肺が重くなるような、ねっとりとした湿気が街を支配している。  二人がたどり着いたのは、江東区の埋立地に位置する、錆びついた巨大な廃工場だった。トタン屋根を叩く雨音は、もはや自然界のランダムなリズムを完全に失っていた。それは一定の周期で、「ア、イ、ウ、エ、オ」という音素フォネームの断片が重なり合った、不気味なパーカッションのように響いている。まるで、この空間そのものが巨大なドラムマシンと化し、不協和音を奏でながら宇宙のメモリを物理的に書き換えようとしているようだった。

 徳永は、雨に濡れたツイードジャケットを脱ぎ捨て、泥臭いカーキ色のタンクトップ姿で、工場の広大な空間の中央に立っていた。大学生時代の土方仕事で巨大な鉄骨を担ぎ、日々、重力という名の抵抗に抗って鍛え上げた肉体。その広背筋が、冷たい湿気を受けて怒れる彫刻のように不気味に浮き出ている。彼の毛穴からは、内面から発せられる熱によって蒸発した汗が白く立ち上っていた。

「見ていろ、玲子。雨音が特定の単語を構成しようとしている。これは宇宙のレジスタ(一時記憶領域)が、雨粒の一つ一つを命令セットとして処理し始めている証拠だ。誰かが、この広大な空間の反響特性を『外部演算処理装置(GPU)』として再利用していやがる。この街の雨は、もはやただの水滴じゃない。空から降り注ぐバイナリデータの津波だよ。一粒一粒に、物理定数の書き換えフラグが立っていやがるんだ。この空間を支配する音響アルゴリズムが、現実をリアルタイムでレンダリングし直している」

 玲子は、防滴仕様のトレンチコートの襟を立て、十センチのヒールで深い水たまりを避けながら、工場の音響分布を慎重にスキャンしていた。

「先生、工場の鉄骨の配置が、音の反響によって特定の波形を増幅・合成させるように物理的に再構成されています。ここ全体が、巨大な『言語コンパイラ』の物理モデルになっているんです。……あそこ! 天井付近、クレーンのキャットウォーク! 拡声器を持った影がいます! あれがこのプロセスの『クロック』を制御している発信源です!」


3-2:一音の重力固定

 工場の高所作業台に、一人の痩せ細った、しかし狂気的な光を宿した男が立っていた。彼は奇妙な、内側が幾何学模様に彫り込まれた拡声器を手にし、宇宙の基底現実を上書きするための「大規模宣言文」を読み上げようとしていた。

「我は命じる……この世界の座標系における『重力定数(G)』を……『不安定な変数』へと書き換えろ! 万物を繋ぐ鎖を……今こそ解き放て! 自由なカオスあれ!」

 男が叫び終える寸前、徳永が動いた。  彼は自らの全筋力を横隔膜と腹横筋に集中させ、肺の中の全空気を一気に圧縮し、物理的な「くさび」へと変えた。それは肺胞一つ一つを燃焼させるような、自己破壊的な発声法だった。

「【あ(固定)】!」

 徳永の口から放たれたその一音は、目に見えるほど濃密な情報の波、あるいは物理的な質量を持った透明な壁となり、工場内を駆け抜けた。  次の瞬間、天井から激しく降り注いでいたはずの数万個の雨粒が、空中でピタリと停止した。それはスローモーションなどではない。雨粒が持つ「落下ベクトル」という変数が、徳永の放った強力な音素フォネームによって強制的にロックされたのだ。空間そのものが、一瞬だけ「読み取り専用(Read-Only)」の状態にされた。重力の計算式が、徳永の声によって物理的に上書きされたのだ。

「ぐっ、あぁぁ……!」

 徳永は発声の凄まじい反動で片膝をつき、口の端から鮮血を流した。一音で世界の物理定数を固定する負荷は、人間の生体ハードウェアが耐えうる限界を優に超えていた。彼の肩の筋肉は、過負荷で白く発熱し、周囲の空気を陽炎のように歪ませている。

「先生! 無茶です、個人の肺活量で全宇宙の物理演算をハックしようなんて! あなたの血管が、内圧でバーストしてしまいます! 理論上、その一音は致死量です!」

 玲子が駆け寄り、徳永の岩のような頑強な肩を必死に支えた。徳永の体は、情報の摩擦熱で火を吹かんばかりに熱くなっていた。

「……ハッ。だが、あの男の不当な『宣言』は無効化した。コンパイラには『強制割り込み』が通用することを教えてやったよ。……玲子、今のうちにあの小僧の喉を黙らせろ。私のこの『筋肉の予熱』が消える前に、次のリブート・コマンドを準備しなきゃならん。宇宙のOSがフリーズする前に、こちらから強制終了(SIGKILL)を仕掛けるぞ」

 二人の頭上では、停止した数万の雨粒が、まるでダイヤモンドのシャンデリアのように、不気味で、そしてあまりに美しいデジタルな静寂を保っていた。雨音の消えた工場に、徳永の重く荒い呼吸音だけが、不気味な低周波として響いていた。


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