エールと狐火(レヴォントゥレット)
本作は、北欧に伝わる「狐火――狐が雪を払って生まれるオーロラ」という伝承モチーフに着想を得た、創作童話です。
冬の夜の『きらきら』が、誰かの願いではなく、誰かの暮らしをそっと守る光でありますように。
短い時間のおともに、どうぞお楽しみください。
冬の森のはずれに、小さな家がひとつありました。屋根には雪が厚く積もり、朝になると、ひさしのつららが光をためて淡くきらめきます。
その家の戸口には、使いこまれた外套が一枚、かけられたままでした。持ち主は出稼ぎに出た父親です。ひと月前に届いた手紙には、『雪が落ち着くまで帰れない』と書かれていました。
家の中では、母親が熱で床に伏しています。エールは薪を割り、湯を沸かし、ぬれ布で母親の額をぬぐいました。けれど母親の息が浅くなるたび、胸の奥が冷たく締まるのです。
「だいじょうぶよ。エールがそばにいてくれるから」
母親はそう言って笑いますが、その笑みは薄雪のように儚いのでした。エールはうなずくことしかできず、心の中で何度も願います。父と母とエールが並び、同じ鍋を囲んで笑い合う日が戻ってきてほしいと。
ある夜、エールが水を汲みに外へ出ると、村はずれの広場に火を囲む大人たちがいました。焚き火の火の粉がふわりと上がり、闇に消えます。
「きょうも出たそうだよ。狐火が」
「尾で雪をはらって、結晶を空へ放るんだとさ」
「オーロラになる前の結晶を手にできたら、願いがなんでも叶うって」
エールは足を止めます。狐火とは、冬の夜空に揺れる光の幕のことでしょう。
迷信だと分かっています。それでも、願いが叶うという言葉が、凍った地面の下で燃える火種のように胸に残りました。母親を治したい。父親にも帰ってきてほしい。三人で仲よく、幸せに暮らしたい。
家へ戻ると、母親は眠っていました。頬は赤く、唇は乾いています。エールは毛布をかけ直し、火鉢の灰をならし、それから戸口に立ちました。
外は深い闇ですが、雪は月の光を受けて白い道をつくっています。エールは小さな袋を腰に結び、手袋をはめ、帽子をかぶって森へ踏み出しました。
森は静かで、木々は黒い柱のように並んでいます。雪に足が沈み、歩くたびに白い息が弾けました。
そのとき、遠くで赤茶の影が走りました。雪の上をすべるように動くキツネです。尾が長く、先がふわりと揺れています。
キツネが尾で雪を払いました。粉のような雪の結晶がふわりと舞い上がり、空へ吸われるように上っていきます。舞い上がった粒は、やがて淡い光へ変わり、夜空に薄い幕を開かせました。
エールの目が見開かれます。あの結晶だと確信しました。あれを手に入れれば、母親は治るかもしれない、と。
エールは走り出します。雪が深く、足は重い。それでも止まれません。
「待って!」
声は森に吸われ、返事はありません。キツネは振り向かず、ただ先へ先へと駆けています。尾が払うたび、結晶が舞いました。手を伸ばせば届きそうなのに、次の瞬間には空の光になってしまいます。
エールは何度も腕を伸ばし、指を握りました。つかめません。つかめないのに、追うほどに願いは強くなります。
森はいつしか形を変え、エールは知らぬ谷へ入り込んでいました。風が急に強まり、谷の底には氷の川が細く光っています。
キツネは軽やかに川をまたいで、向こう岸へ跳びました。
エールも続こうとしますが、足がすべります。体が前へ投げ出されました。氷がきしみ、冷たい気配が腹の底まで刺さります。薄い氷の下で、黒い水が動いているのが見えました。
落ちたら終わりだと悟った瞬間、喉が凍りつきます。声が出ない。指先の感覚が遠のきます。
そのとき、雪を踏む音が近づくのを感じました。
キツネが戻ってきていました。
キツネはエールの襟をくわえ、ぐいと引き上げます。エールの体は雪の上へずり上がり、氷の縁から離れていきました。
エールは転がるように斜面へ逃げ、膝を抱えて息をつきます。胸が痛いほど冷たいのに、目の奥が熱くなり、涙が勝手にこぼれました。
キツネはエールの前に立ち、じっと目を見ます。暗い瞳は、怒りではなく、どこか母のような落ち着きを宿していました。
キツネは踵を返し、尾を一度だけ揺らします。ついて来いと言っているようでした。
エールは震える足で立ち上がり、キツネの後ろを歩きます。
木々の間を抜け、雪の丘を回り込み、風の当たらぬ窪地へ入ると、土の匂いがする穴がありました。キツネの巣です。
中から小さな子ギツネが二匹、顔を出しました。丸い目がエールを映し、耳がぴくりと動きます。
キツネは巣の前に座り、子ギツネの背を尾でそっと包みました。キツネは母親のようです。
エールは小さく頭を下げ、途切れ途切れに話しました。母親が病気であること。父親が出稼ぎでいないこと。どうしても母親を治したいこと。三人で笑って暮らしたいこと。だから、オーロラになる前の結晶を求めたこと。
母ギツネは黙って聞いていました。子ギツネたちも、息をひそめるようにして聞いています。
話し終えたとき、エールの頬は涙で濡れていました。
母ギツネは巣の奥へ視線を向け、エールに身を寄せる場所を示します。エールは巣の中へ入り、冷えた体を丸めました。子ギツネの体温が、消えかけた火のようにそっと寄ってくれます。
しばらくして、母ギツネがエールを見ました。
『あなたのおかあさんは、こう思うはずだわ』
声ではありませんでした。けれど言葉の形が、雪よりもはっきりと胸に落ちました。
『わたしのために、子どもが危ない目に遭うのは、いちばん悲しいのよ』
エールは息を止めます。母親が、まさにそう言いそうだと分かったからです。だから、痛い。
子ギツネが、きゅ、と小さく鳴きました。
エールはうなずきます。
「もう追わないよ。誓う」
その言葉は、狐火のきらめきよりも重く、確かなものでした。
母ギツネは巣の外へ出て、森の匂いを嗅ぎ、風を読むように耳を立てました。
『あなたのおかあさんの病は、結晶の願いでなくても治るわよ』
そう告げて、母ギツネはエールを見ました。
『森の薬草で治るわ。けれど、谷の奥ではないの。日の光が入る、やさしい斜面よ』
エールの胸の中で、凍りついていたものが少しほどけました。闇の追跡ではなく、光の道を見つければよいのです。
その夜、母ギツネは一度だけ巣を離れました。エールは巣で待ち、子ギツネの寝息を数えながら目を閉じます。
夜明け前、母ギツネが戻ってきました。毛には、どこかエールの家の匂いが混じっています。火鉢の灰の匂い、煎じ薬の湯気の匂い。母親のそばで、じっと夜を過ごしてきたのだと、エールは察しました。
「ありがとう」
エールが言うと、母ギツネは尾を一度だけ揺らしました。
朝が来ました。雪は白さを増し、森の影は薄くなります。
母ギツネは歩き出し、エールはその後をついていきました。道は谷へ向かわず、日の差す丘へ向かいます。風が弱い斜面で、木々が雪を支え、地面がところどころ息をしていました。
母ギツネはそこで立ち止まり、前足で雪をそっとかきます。雪の下から、冬でも枯れぬ細い葉が現れました。薬草です。
エールは母ギツネの動きを真似し、根を傷つけぬように必要な分だけ摘みました。袋の中に葉が増えるたび、心が少しずつ軽くなります。
帰り道も、母ギツネは安全な場所を選んでくれました。氷の薄いところを避け、雪の固い道を通ります。
家が見えたとき、エールは走りだしました。戸を開けると、母親は弱々しくも目を開き、エールを見て安心したように息をつきました。
「どこへ行っていたの」
「薬草を見つけたんだ。森が教えてくれたの」
エールは湯を沸かし、薬草を煎じます。母親は苦そうに顔をしかめながらも飲みました。
その夜、母親の呼吸は少し深くなりました。
次の日、熱はわずかに下がっていました。
三日目、母親は自分で水を飲めるようになりました。
それから毎日、エールは薬草を煎じ、母親に飲ませました。母ギツネは遠くから見守ってくれます。道を誤りそうになると、木の影からすっと現れ、正しいほうへ先に歩いてくれるのです。
十日ほどたったころ、母親の頬に赤みが戻りました。ちょうどそのころ、父親から手紙が届きました。『雪が落ち着けば帰れる。あと半月ほどだ』と書かれています。
母親は手紙を胸に当て、涙をぬぐいながら笑いました。エールも笑います。家の中の寒さが、少しだけ薄くなりました。
ある晩、空がよく晴れました。母親はまだ長くは外に立てませんが、戸口なら大丈夫だと言います。エールは母親の肩に毛布をかけ、ふたりで外へ出ました。
雪は月明かりを受け、細かな粒が光ります。白い息さえ、きらきらして見えました。
そのとき、空の向こうで淡い幕がひらきました。緑の光がゆっくり揺れ、白と薄い赤が重なります。母ギツネの尾が払った雪の結晶が、空へ運ばれて踊っているようでした。
エールはもう追いません。追わなくても、光はここに届くと知ったからです。
母親がそっとエールの手を握りました。握る力は弱いけれど、あたたかい手。
「きれいね」
「うん。きらきらだ」
母親はうなずき、エールの頭を撫でました。
「エールがここにいてくれることが、いちばんの願いよ」
その言葉は、夜空の光よりも深く胸を照らします。
森の奥で、キツネの影が一度だけ動きました。母ギツネの後ろに、子ギツネが二匹並んでいます。
エールは小さく手を振りました。母ギツネは振り向かぬまま、尾を一度だけ揺らしました。
狐火は、つかむための光ではありません。守るために見上げる光なのだと、エールは静かに悟りました。冬の空は高く、家の窓には火の色が揺れています。そこに、帰る場所があるのです。
おしまい。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語で描きたかったのは、『願いを追いかける気持ち』と同じくらい、『いま目の前にあるぬくもりを守ること』も尊い、ということでした。
冬の夜空の光は遠いのに、手のぬくもりは近い――そんな対比が、読んだ方の心に小さく残ってくれたら嬉しいです。
感想やリアクション、とても励みになります。よろしくお願いします。
※本作は作者の執筆を前提に、生成AIを補助的に活用しています(ChatGPT:資料収集・分析・構成補助/Claude:感想・改善案の提示)。




