雨
歩行の練習はまだ続いている。医者にも診せず、家族にも秘密の訓練である。
正直、真夏に始めたのは苦しい。今日は曇天で、強い陽射しは灰色の雲に遮られているが、その分湿気がまとわりついていて、質量を感じさせる。
二年間まともに使わなかった足は、大きく動かそうとすると痺れて痛い。
暑さによる汗と痛みによる冷や汗で余裕がない。
体の傷んだ男の訓練を、八城はせっせと手伝ってくれる。気紛れなくせに妙なところで真面目だ。本当に私と外に出たいのだろうか。
素人二人が庭で転げて、これで足が治るのか甚だ疑問だが、それでも、震えながらではあるものの、杖に身を預けずとも真っ直ぐ立てる時間は増えている。
限界が来て、呻きながら八城の上に倒れ込む。他人の心臓の鼓動を感じたのは、今日はこれで何回目だったか。
「大丈夫?」
「疲れた」
「もう一回くらい頑張れるか?」
「……」
どうせ、泣き言を吐こうと首を振ろうと、猫撫で声で言いくるめられてしまうのだから、せめてもの抵抗として仰向けの奴の胸に顔を突っ伏す。
今日は庭の垣を触るまでが目標だが、赤子が四つ這いになった方がまだ早いだろう。
外を歩き回る八城の体からは色々な臭いがする。
幾人もの香水、伽羅の香、舶来の煙草、安酒、珈琲、草原で昼寝でもしてきたのか草いきれ、今は汗と泥の匂い。
つまり手入れが悪いのだが、この男は私がいないところでもしっかり生きているのだなあと、感慨深くなる。孤独な私の生み出した、都合の良い妄想でなくて安心した。
「鈴島、早く降りろ。続きやるぞ」
「八城は、煙草を飲んでいたっけ?」
「人に貰うことはあるけど自分じゃあ買わないな。どうして?」
「シャツに染みてる煙草の臭い、覚えがあるんだが銘柄が思い出せない」
「鼻がいいなお前。犬かよ」
「はは、猫にはわからんか」
シャツに鼻を埋めて息を吸う。
「お前はいつも、違う香水と、煙草の残り香を纏っている。外の匂いだ」
「……いや、なに嗅いでんだよ離せ離せ変人」
「まあじっとしてろ。飯のぶんだけ触っていい話だったろう?」
「嗅ぐのは別料金!」
怒った八城に押し退けられ、仰向けに空を見る羽目になる。箸にも棒にもかからないお巫山戯けが楽しい。女中とも、商売女とも、無論家族ともできないやり取り。
肩を揺らす私が珍しいのか、八城が口を尖らせた。
「お前が笑うなんて、雨でも降るかも」
「今日は機嫌がいいんだ。仕事も一段落したし、弟が、好いた人と婚約した。手紙で知らせてくれた」
「へえ」
「ほら、先日反物をくれた弟だよ。二人は幼馴染みだったからな。きっと幸せになる」
「めでたいな」
「ああ、お祝いを贈らなければ。穏便に済んでよかった。元々許嫁みたいなものだったが、これで落ち着くだろう」
「ねえ、なんで泣いてんの?」
「泣いてる?」
手の甲で頬を拭う。濡れている。
「これは汗だろう」
「なんか、悲しそうな顔してたから」
私を見上げる八城は訝しげである。
「まさか」
首を振る。私の心は浮き立っている。天気に反して晴れやかだ。
まだ納得していなさそうな八城の耳元に、ぱた、と音を立てて雫が落ちた。汗ではない。
身を起こした私の脳天にも、一つ二つ雫が落ちる。
「雨だ」
八城の一言を境に、辺りが白く霞む程の雨が降ってきた。俄雨である。
「すごいな、本当に雨が降った」
なんだかおかしくなって、私は笑う。火照った体を冷やす雨は快い。
「八城、私はいいから先に雨戸を閉めてくれ」
百々(どど)と叩きつけられる雨量のせいでまともに聞き取れなかったはずだが、八城は俊敏に動いた。
まずガラス戸を閉め、次に雨戸を引いて閉じる。重い木の板をきちりとはめるのは時間がかかる。
かたわ者の私にできることではないので、のんびりと戻ろうとして、足がすべってまた転ぶ。濡れた土は軟らかく怪我はしない。着物が重い。
いっそこのまま眠ってしまえたら、強い雨に洗われて溶かされて、人よりもっと美しい物になれる気がした。
立ち上がるのが億劫になって、仰向けになり鉛の空を仰ぐ。
一つを残して雨戸を閉め終えた八城が泥を跳ね散らしながら此方へ向かってくる。
「鈴島!」
八城は半ば私を担ぐようにして引きずって行き、縁側まで引っ張り上げた。
荒々しく戸が閉まる。肩で息をしながら八城は私の隣に胡座をかいた。
「作家先生はとんちきな事を考えるな。雨降る庭で寝て良いのは蛙だけだ」
「雨戸、手伝えなくてすまない」
「どうしたんだよ鈴島。今日は何かおかしいよ」
「着替えと手拭い、どこにしまってあったかな……お滝さんは外出中だから探さないと」
八城のシャツは濡れて透けているし、私の着物は痩せた体に張り付いたままだ。
八城の問いには答えずに、着物をはだけて諸肌を脱ぐ。
八城も無言でシャツを脱いで絞り始めた。
外は滝のような大雨だ。降り止みそうにない。風も強まってきたので季節柄台風が来るのかもしれない。
八城は、ずっと黙ったままだ。
間を持たせようと、雨音を聞きながら、訥々と喋った。
「弟の婚約者は、弟と私の幼馴染みでな、元は私と結婚する予定だった」
「すげぇな。兄と弟で恋の鞘当てか。まるで芝居の世界だ」
八城の気のない茶化し。
「いや、弟と彼女は好き合っていたし、私と弟も仲が良かった。邪魔者にはなるまいと決めた。私は二人が結ばれればいいと思ってそれで、」
自分の片目を指差す。
「上手く立ち回ろうとしてこの様だ」
伸びた髪から雨滴が落ちて、薄紙越しのような片目の視界を更に滲ませた。
「しかし、二人は無事に婚約してくれたのだし、弟は私に代わって家を継いでくれるそうだし、私のやるべきことは全て終わった」
「…………」
「やっと。やっとだ。もう大丈夫だ。やり残したことはない。私はもう」
「だから死んでもいいみたいな顔してるのか」
死んでもいいと言いかけた時、言葉を八城に遮られた。
八城の口調には棘がある。
いきなり両肩を掴まれる。その勢いで私の体が前に傾ぐ。
「俺が、こんなにお前のとこに来て、一緒に飯食って、歩く練習してるのに、死んでもいいのかよ」
八城は怒っていた。頬が紅潮している。先程とは比べものにならない憤りをぶつけられて、ただ戸惑う。
水も滴る美人が怒ると凄みが出る。
「何が外の匂いだよ。まるで自分がもう外へ出れないみたいにさ。杖つきゃ何処へでも行ける、人力車だって馬車だって幾らでも使えるくせに」
肩から伝わる八城の体温は熱い。生き物の熱だ。
「お前はもう、人生が終わったと決めつけて、引き籠もってるだけの腑抜け野郎だ。人の匂いだけ犬みたいに嗅いで満足していやがる」
「八城」
「お前、自分ってものがないのか? ホントにこれから、やりたいことはねぇのかよ? 何を思って俺の手を取って歩いてたんだよ? 自分の足で行きたいとこがあるからじゃねぇのか? 仕事だってあるだろ。俺と喋るのは嫌々だったのか? お前、生きる欲が全然見えないんだ。お高くとまった悲観主義者様にとって俺如きどうでもいい存在なんだろうな。ああわかったもういいぜ、金輪際腑抜けの家なんかに…………くちゅんっ」
威勢良く啖呵を切っていた八城が、随分可愛らしいくしゃみをした。
「八城」
詰め寄られている最中なので、私は控えめに指摘する。
「顔が赤い。熱があるようだが」
八城は緩慢な動きで額に手を当て、次にその手を私の額に置いた。自他境界の薄い男である。
「お前とそう変わんねぇけど」
私も手を自分の額に当ててみる。燃えるようである。
二人で顔を見合わせて、どちらかともなく呟いた。
「風邪だな」