仕事
血相を変えて、八城が縁側を走ってくる。
「あっちの部屋に変なのがいるんだけど!」
「挨拶なしに入ってくるお前と違って、彼は正式な訪問客だが。そうか八城はまだ会っていなかったか」
「誰も使ってないはずの洋間から物音がするから覗いてみたら、上から下までしっかり洋装の男がいたんだもの、幽霊かと思った」
八城が気味悪そうにしているが、彼は全く一般の人間である。
「担当者の戌井君だ。私の仕事が終わるのを待っている」
本日、洋間には客人がいる。出版社に勤めて二年目の戌井という若者で、丸眼鏡にそばかすが目立つ素朴な顔をしている。私がこの仕事を始めたころからの付き合いだ。
「すまないが、今は、構っている、暇がない。……ああ、ここのHilfsmittelはどう訳すればいいのか……八城、そこの辞書を取ってくれ。黒い表紙の」
「あいよ。鈴島は異国の言葉がわかるのか、知らなかった。異人と会ったこともあるの?」
「通ってた大学で、教えて、貰ったからな。独逸の牧師で、麦藁色の髪で目は黒くて……」
「へぇ。あっちの国にも黒い目の人間がいるんだ」
よく回るお喋りな口が、今回はありがたい。蝉時雨と万年筆の筆記音ばかり聞いていたら舟を漕いでしまいそうだ。
目を閉じた拍子に寝落ちてしまわぬように息を深く吸う。
「俺以外にもここに来る人間がいたんだな」
「急ぎの仕事が回されてな。締切が迫ってきているから不安なのだろう。鈴島、悪いが女中に」
「お滝さんな」
「お滝さんに、お茶をお願いしてきてくれ。それとついでに障子を閉めたい」
基本的に私は、異国の童話や機械の仕様書などの翻訳を生業としている。住んでいる家は父より買い与えられていたものなので家賃の心配はない。それだけで十分暮らしていけるが、思うところあって筆をとっている。
八城は素直に障子を閉めてから、私の隣に胡座 (あぐら)をかき、医者のように額に触れた。
「顔色悪いな。もしかして寝てなかったりする?」
「これが終わらなければ、眠れない」
作家というものは兎角、自由奔放な御仁が多い。飲む打つ買うを稼ぐ以上にやるもの、仕事の期日を守れないもの、思索がまとまらないので追っ手を振り切って行方をくらますもの。
そうするとなんとしても冊子に穴を開けたくない出版社の人間は、代役を立てざるをえない。代わりに書いてくれる人を探すのである。翻訳であれば仕事を回されるだけだが、童話や小説となるともはや代作だ。これが許される世界というのは不思議である。
今回の戌井君は見張り役である。
本作りや新聞作りに携わる人間は、嫌がる物書きの尻を叩き、弱音を吐いたら鼓舞し、逃げないよう監視する役目もあるのだ。
その点私は非常に都合がいいらしい。
足が不自由だから逃げられる心配はない。外に出ないので仕事の期日は破ったことがない。尋ねればいつでも家にいるので急な仕事を頼めるし、父の手前、小説なぞで名を売る訳にもいかないので、代作依頼にも文句を言わない。体のいい補欠として理想の人材である。
かといって気は抜けない。印刷する直前になっても原稿が来ないとあっては大ごとだ。
今回は量が多い。そしてあまりにも急だった。
振りすぎた仕事が終わらず、音を上げることを危惧してか、戌井君はまめに様子を覗きにやってきて、私を激励しつつ、出来上がり次第すぐに原稿をもっていけるように控えているのである。正直、八城と今まで鉢合わせなかったことが驚きだ。
時たまだった急ぎの依頼が、徐々に増え、締切も次第に早まっている。急ぎの依頼は値段を上げてみたが、出版に穴を開けられるほうが怖いらしい。助けてくれと泣きつかれては仕方なく夜を徹している。
八城の手はまだ私の顔から離れない。ぺたぺたと遊ばれている。頬を引っ張られると少し痛い。奴の表情は不満げだ。
「多分、少し熱もあると思うぞ」
「そうかもしれないな」
「元が丈夫じゃないんだから無理は禁物だって。ほいほい言うこと聞いてたら馬鹿を見るだけだぜ」
「しかし、人を待たせては……」
私が言葉を続けようとしたその時、足音が聞こえた。二人して動きを止める。
やってきたのは女中ではなく戌井君だった。障子越しに彼が話しかけてくる。
「先生、進捗はいかがですか? まだ終わりませんか」
「まだだな。悪いが今日は帰ってくれないか。締切は明後日のはずだ」
「期日前に出してはいけない法はありませんよ」
「そもそも期日をむやみに早めたのはそちらだろうに」
「障子を開けても構いませんか」
「気が散るから堪忍してくれ」
「では僕はここで待っています」
戌井君は、どっかりと腰を下ろしたらしい。
自室を出てすぐの縁側。そんな八城の定位置に今日は別人が座っている。私の部屋からは、障子を隔てて薄く人影が見える。
気に入りの場所を取られた八城が目を吊り上げた。
「なんだあいつ。追い払ってやる」
「荒事はよせ」
「舐めるなよ。大丈夫さ」
「……できるのか?」
「おうよ。ちょいと黙ってな」
そう囁くと、八城は片目を瞑って手早く私の首に腕を回し、
「あぁあ先生。鈴島せんせ。まだお仕事ですか? 早く可愛がってくださいよぅ」
一声鳴いた。
およそ男には出せないような、上玉の娼妓と紛うしっとりとした声が、これから起こる戯れを期待して熱く潤む、そんな媚態だった。
障子の外の空気が明らかに変わった。
女の声真似ができるのかと、質問しようと八城に顔を向けた瞬間、障子が弾けるように開けられた。
そこにいるのは驚愕した戌井君である。
「人の情事を聞きこむなんざ、好き者だなお兄さん」
楽しそうに八城が笑う。しかし目がぎらぎらと光っている。
「馬鹿みたいな量の仕事を放り込んで、体の弱い先生を寝ずに働かせるなんて、出版社様が聞いて呆れるぜ」
「あ、貴方は」
「俺か。俺は先生の好い人。なあ、先生と早く休みたいんだ、お前はお呼びじゃないんだよ」
その後も立て続けに八城が嘲けるが、戌井君は悪し様な罵りを全く無視して、白い四肢を絡められている私を注視した。
まさか美少年に入れ込む色好みにされるとは思わなかった。面倒な事になった。
「そのようなご趣味があったのですか。ご婚約者様がいたと伺ったのですが」
「…………破談になってもう二年になるから」
婚約者との情報に、八城が身じろぎした。
さて、彼は客人なのだという言い訳も立つまい。誤解はしばらく解けなさそうである。おろおろと此方を窺う戌井君だが、私は無表情の鉄仮面で通っているので感情を推し量るのは難しいようだ。
「とりあえず、今日は帰ってくれないか。元々先約があった日なのだ。仕事は五日後に必ず間に合わせる」
「あ、はい」
「では五日後に」
「は、はい」
戌井君はそばかす顔を真っ赤にして、ふらふらと帰ってくれた。相当の衝撃を受けたところにつけ込んで、私がさりげなく締切日を伸ばしたことにも気付かない、純情な青年である。
戌井君がおぼつかない足取りで去って行くのを確認してから、八城はけらけらと笑って私から離れた。そこにはしてやったりという喜びがあるのみだった。変わり身の早さに舌を巻く。
「追い払ってやったぜ先生。祝杯をあげよう。今日は鰻がいいな」
「八城、うぶな青年をからかうな」
「あいつがここで待つとか言わなかったらもっと穏便に済ませていたよ。だって、ここは俺の場所だもの」
一応諫めたが、野良猫は早速奪還した日当たりのよい縁側にごろりと寝転がり、満足そうに喉を鳴らした。
私はため息をつくしかなかった。