庭に立つ
今年初めての蝉が鳴いてから四日目の朝。
梅雨は明け、暑さは増すばかりだ。
実家から山のように反物が届く。絹紅梅、麻、薄手の綿、藍染めの絞り、張りのある白生地、絽など、どれも夏らしい涼しげな素材である。
贈り主は弟だった。分厚い近況を読むところ、息災のようだ。
女中の老婆が着物と浴衣をこしらえると張り切っていた。
七月も半ばになって、ようやく夏支度をするのもおかしいが、家に誰かを呼ぶのも自分が出向くのも億劫な体であるので、つい先延ばしにしてしまっていた。
そのため弟の厚意は有難いのだが、私に沢山の着物が必要だろうか。
「何を仰います旦那様。浴衣は一夏着て終わりにして、後は雑巾などにおろすのが粋なものですよ」
そんな考えを見透かされて、老婆に鼻息荒く反論される。
「お滝さん、沢山反物を頂いたのだから、今から一人で縫うには辛いでしょう。貴女の分も選んでどこかに頼んでおきなさい」
女中の老婆は、おや珍しいこともあることよ、という風に皺だらけの眉間を寄せた。
そういえば、私が老婆の名を呼ぶのは、これが初めてかもしれない。
「旦那様、洋装ならともかく、浴衣くらいであれば誂えなくともあたしが縫ってやりますよ」
「なら、別に急がなくとも構わない。どうせ、外出もしないのだ」
「なんだ、こんなに布を貰って和服だけしか作らないのかい?」
猫が今日もやってきた。
詰襟を小脇に抱え、シャツを二の腕までまくった八城は、いつものように庭から上がって縁側に腰掛け、シャツのボタンを四つ開ける。
私も女中ももう驚かず、至極当たり前に八城を会話に交ぜた。
「これとか、これをシャツにするのはどうだい? 絹は涼しいから」
奴が指さしたのは、とろりと柔らかい白絹の生地だ。普通は好みの色に染めてから使うものだが、なるほど遊び慣れた八城らしい趣味である。
白シャツ如きに絹を使うなどとんでもない、という顔をしている女中を後目に、私は頷いた。
「折角だから、八城も作るといいよ。柔い生地を、お前はすぐ破いてしまいそうだけど」
「そしたらお滝さんがなんとかしてくれるだろ」
なんとも甘ったれた野良だ。
昼動かず夜飛び回っている八城はあまり日に焼けていない。白猫に白絹は大層似合うだろう。痣と傷の多い肌にも優しい。着たきりのボタンの足りないシャツの洗い替えに、一着くらい作っても良いと思った。
女中が八城に茶を淹れる為に台所へ行った。
「外に出ないのに、反物ばかり送られてもな」
二人きりになった室内の、新品の布の匂いが漂う畳の上でぼやいてみる。
私が体を傷めてからは、家業は弟が継いでいる。それだけで十分なのに、何かと気に掛けてくれる優しさが、骨身に染み、心に堪えた。兄として腑甲斐ない。何か返礼を考えねば。
「贈り主は? いい趣味してるが、女か?」
八城が首を傾げた。その耳元に手を伸ばすと、くすぐったそうに目を細められる。
「いや、弟だ」
「そりゃあよ、弟に、『これで服作って外に出ろ』って言われてんじゃあねえの? 心配されてるんだろ」
「…………」
その可能性はある。
黙ってしまった私を案じてか、ごく自然に八城が体を寄せてきた。そこには珍しく、媚態のない労りがみえる。
「鈴島、矢張り、杖で外を歩くのはキツいのかい?」
そっと体を確かめてみる。腕も足も、肉がなく細い。生白い肌は骨が透けて見えそうだ。
「…………わからない。片目と片足を駄目にしてから、庭さえろくに出ていないから」
「試してみよう。使わねえと萎えるだけだぜ」
「それは、確かに、そうだろうが……」
思い立ったが吉日!と叫んで、八城が弾みを付けて立ち上がる。素足で庭へ降り、振り返って手を差し出した。
「無理だ」
首を振る。
「むずかるなよ鈴島、お前、この家だけで終わるのは勿体ないよ」
「私は」
しきりに遊びへと誘う猫の目は輝いていた。
「なア、揃いで新しい服を着てさ、一緒に美味い飯屋に行くんだ。お前は勉強好きだから本屋にも寄って、それからいい女の都々逸でも聞こう。俺の行きつけ、鈴島にも案内してやりたいんだ」
「こんな顔で外へなど」
「お前、男前だよ。平気だから、な」
「嫌だ」
「鈴島、来いよ」
夏風が吹き抜けた。
眩しい陽射しが、押しの強い男に降りかかり、その輪郭をきらきらと輝かせる。
その指が温かいことも、存外力強いことも、私は知っていた。
人に構いたがる猫。結局私は八城の気紛れな戯れに弱い。
猫を追うべく、ゆっくりと立ち上がる。
日夜体重を預けていた部屋壁と杖がないと、視界がぐらぐらと揺れる。葦草になった気分だ。心許ない。
「ふっ、」
渾身の力を込めて、一歩踏み出す。両手で均衡を取りながら、すり足で、畳の縁を構わず踏んで、縁側に出る。
八城が私を待っている。
伸ばされた手を掴んだところで、膝に限界が来た。
「あっ」
かくんと膝が折れ、前につんのめる形で八城の胸に飛び込んだ。
八城はたたらを踏んだが、すかさず腰を抱えて、私を支えてくれる。細身の美少年は、その実しっかりと男であった。
二年ぶりに、杖なしで庭に降りた。
両手を八城の肩に置く。素足に文月の地面は温かい。先ほど打ち水をしたので庭は濡れていた。
八城は得意気だ。
「ほらな、立てるじゃんか」
「はーっ、はぁあぁっ、っ、そうだな」
「久しぶりのおんもはどうだい旦那?」
「す、こし、怖いな」
古傷だらけの足が痺れる。汗が吹き出る。息が苦しい。
精一杯体を真っ直ぐにしようと震える体は、暑さも相まって真っ赤になっているだろう。
常に体を曲げて生活していたから知らなかったが、私の背は、八城よりも高かった。
「あっ」
体の軸が、今度は横にぶれる。
目を丸くしながら庇ってくれた八城もろとも倒れ込んでしまった。
湿った地面が、容赦なく私と八城を汚す。
私は慌てたが、男に覆い被さられても、白い肌が泥にまみれても、八城は機嫌よさげに笑っている。
「鈴島、あんよの練習はまだ始まったばかりだな」
人に手を借りるのは恥だと思っていた。弟に対してでさえもそうだった。
しかし、今身を預けていても、不思議と八城には薄暗い気兼ねが湧かない。
「この有様じゃあ、外へ出るのはいつになるやらだ」
荒い息を収めて素直に軽口を叩くと、八城がくつくつと声を立てる。
夏の庭の青草さは、新品の布のつんとした香りよりも好ましかった。