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野良と家付き  作者: 青沼がざみ
八城と鈴島
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年始

 自室の戸が滑り開けられてからきっかり一秒後、板張りの廊下に四角い革鞄が落下した。



 毛布を何枚もかけられ、頭に氷嚢(ひょうのう)までのせられた『病人の体勢』で自室の布団に寝かされていた私は、熱で重い頭を起こし、鈍い衝突音を生み出した主を見上げた。


 開けた襖に手をかけたまま、媚茶色の羊毛で仕立てた洋装で包んだ全身を硬直させている長身は、我が弟『鈴島恭一』である。


 「あけましておめでとう。正月くらい客間で袴を穿いて出迎えたかったのだが」


 自分の指が鞄を取り落としたことにも気付かないまま、恭一は呆然と痩せた私の熱を持って赤い頬や乱れた髪を、見開いた薄茶色の瞳に映し、それから力が抜けるままに膝を折った。


 「か、叶兄さん…………こんなにやつれて……」


 「すまない、体調が優れないので布団から失礼するよ」


 「─────っっ!!!!」



 何かを思い出してしまったらしい恭一がひゅっと息を呑み、そのまま口を押さえて喉奥から声もなく悲鳴を上げる。落ち着かせるべく、ぐんにゃりとした体に鞭打って布団から這い出た。


 「恭一落ち着いて」


 「どうして、この間は元気だったのに……! 嫌です、 嫌、やだっ……。兄さん! なんで、具合がお悪くなったのですか? またあんな、前みたいに……!」


 「ただの風邪だ、大丈夫だから」


 廊下にぺたりと座り込み、色を失う弟は、まるで子供に戻った(ごと)くの狼狽(うろた)えようだ。要らぬ心配をかけてしまった。


 震える背中をさすってやる。まったく、どちらが健康体だかわからない。



 元婚約者と再会し、因縁に一応の決着をつけた私は、知らぬうちに気力の全てを使い果たしていたとみえて、帰った日はこんこんと眠り、その二日後に目覚めたときは虚脱感で体が動かなくなっていた。


 禍根(かこん)がほどけたのだから気分はいいのだが、精魂が追いつかず、発熱し、そのまま寝付いて年を越してしまった。


 食欲が失せ、御節料理(おせちりょうり)どころか(かゆ)もろくに入らない。倦怠感(けんたいかん)で思考までが鉛と化している。しばらくは人の声すら水中から聞くように曖昧だった。翻訳の仕事をあらかじめ先に済ませていてよかった。


 そんな訳で、この家では年末年始の挨拶(あいさつ)も割愛され、小さな鏡餅を飾った程度の静かな正月を迎えている。私がろくに歩けなかった去年や一昨年と同じであるし、不満はない。


 しかし、『風邪を引きましたので年始の挨拶は治ってからいずれ』という手紙を読んで血相を変え、全ての社交を蹴って見舞いに駆けつける弟に、『元婚約者を探し出した末財産を渡して燃え尽きましたので力が出ない』なぞと正直に申したら卒倒しかねない。私が不具になった原因が自身にあると思い込み、罪悪感で死にそうになっていた男である。



 「お前は兄さんが床に伏しているのが相当(こた)えているようだが、人はたまには熱を出すものだし、毎日寝そべって眠るものだよ」


 くぐもった喘鳴(ぜんめい)を押し殺して、脂汗まで流している弟が私を(おもんばか)る。


 「だ、駄目なのです。壮健だった貴方が、魂が抜けたみたいに動かなくなっているのが。今も兄さんが怪我をしたあの日を夢に見る。ああ、本当にお身体は苦しくありませんか? 医者に見せましょう。大きな病院に入院するという手も」


 「入院なんて……そんな大事にしないでくれ。医者にはもうかかった。ただ疲れが出ているとのことだった」


 「……兄さん、お身体に触っていいですか?」


 (うなず)く前に、まだ呼吸の速い弟が、私の体に何度も触れた。


 私の唇に指先が触れる。呼吸を調べられている。


 私の首に手が添えられる。脈をはかられている。


 私の胸に弟の頭が押し付けられた。心音を聞かれている。


 私の背に腕が回される。体温を確かめられている。



 チョコレートに似た甘い色の茶髪を眺めながら、好きにさせてやる。もし私が逆の立場であったら、やはり平然といられる自信はない。



 「……すみません、取り乱しました」


 瞳孔が開ききっていた丸い目をまばたかせ、弟はようやく落ち着きを取り戻した。こんなわかりやすい人間が、父の跡を継いでいけるのだろうか。どうかこの柔らかさを見せるのが、私の前だけであってほしい。



 「肝が冷えました。後生ですからどうか健やかに。弟からの唯一の願いです」


 「ああ、養生するよ。お前はまた、驚くような量の見舞い品を持ってきてくれたのだろうから、それを食べながら話をしよう。先日銀座に出た話はどうだ?」


 「ええ、銀座ですか? 聞きたいなぁ。今回は年賀の挨拶も兼ねて色々持参しましたから、どうぞ一緒にいただきましょう。兄さんにも食べやすそうな甘味があるんです。舶来物の果物の缶詰とか。あっでも別にそんな量ではないのですが」


 「……何缶持ってきてくれたんだ?」


 弟の声が小さくなる。


 「…………二十缶です」



 つい吹き出してしまう。店が開けそうだ。


 「ふふ、それは重かったろう。二十缶もいただいたら、流石に私も太るかな」


 「兄さんは痩せすぎていますから食べ過ぎなくらいでちょうど良いんですよ」


 弟の調子が戻ってきたので、私も安心して自室の布団に潜った。




 桃の缶詰は甘く冷たく喉を通り、食の進まぬ身にも快かった。


 腹が満ちた後は、妻君とは円満か、父は息災かなど、枕元に座る弟と他愛ない話を続けているうちに寝入ってしまったらしい。


 気がつくと外は夕暮れで、弟は帰ったようだった。

 気温も下がり、少し寒い。額の氷嚢を取り去り、布団で体勢を変えながら二度寝を試みる。


 静かな正月だ。



 常日頃の騒がしさの元になっている八城は外に出ている。


 八城が懇意(こんい)にしている芸者衆は年末から忙しい。

 八城も親しい人間の手伝いに駆り出されているらしい。


 最近は八城が家にいることが少し減った。

 しばらくは三日と開けずに八城が通ってきていたので少々寂しい気持ちはあるが、なんとなく私は奴の中の『(そば)にいなくても許してくれる人』『少し放っておいても死なねぇ奴』として分類されたような気がする。これも信頼なのかもしれない。


 末長い付き合いになるだろう人間のとろ火の距離感を受け入れながら、眠り正月を過ごすというのも気楽なものだ。


 身を起こして、部屋の鏡を見る。

 半日もの睡眠が形作った白髪交じりの乱れ髪、顔の片側の火傷、白んだ目。

 そんな私の表情は穏やかで、些細な毎日を受け入れられている。



 「にゃーん!」


 些細な毎日にも彩りはある。


 「ああ、来たか」


 元気な(おとな)いに部屋の障子を開けてやる。

 夕日に染まる庭に白猫が一匹やってきていた。


 最近このあたりをうろついている若い猫で、尾の長い金目の雄である。野良だろうが慣れた様子で食べ物をねだりにくる。


 どこで遊んでいるのか汚れが目立つが、人怖じしなさからみると可愛がられているようだった。


 部屋の隅に寄せていた、下げ損ねた朝餉(あさげ)の膳から漆椀を取り、粥の残りを手に受けると、白猫が待っていたとばかりに縁側に飛び乗り、私の手から粥を食む。


 「美味いか?」


 「んみゅう」


 上手そうに飯を食う様子が、とりあえず飯をもらったから媚びておこうという図太い甘えが、どこぞで飛び回っている誰かを彷彿(ほうふつ)とさせる。


 「全身白いから、お前はしろと呼ぼう」


 「んにゃ!」


 「家ではもう猫を飼っているから、お前が住むのは難しいな……」


 腹がくちくなって口の周りをご機嫌に舐め回す猫の頭を撫でていると、猫がごろごろと喉を鳴らしながら私の膝の上に収まった。



 帰ってきた八城に、『お前に似た猫がいた』なぞと言ったら、どんな顔をするだろう? (らち)もなく思う。

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