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野良と家付き  作者: 青沼がざみ
八城と鈴島
30/32

相対

 婚約者であった女の顔を見る。一度しか顔を合わせていない人間だ。記憶にあるのは濃い化粧で固めた見合い写真と、私の骨を踏み折る鬼の形相のみだった。素顔はこんな顔だったのか。


 灰色に色あせた着物だけ着込んでいて寒そうだ。を外に出ていないためか、色が白くなった気がする。体も一回り小さい。癖のある髪が結われずに、くるくると巻いた房となって背中に垂れているのも相まって、寝台に机と椅子という、洋風の部屋にいる彼女は異人のように見えた。


「ようこそいらしてくださいました。手狭ですがお座りになって」


 女に椅子を勧められるままに座る。あの日のおどおどとした雰囲気や、憤怒(ふんぬ)の形相はどこにもない。彼女は堂々たる、この病室の女主人だった。低く、さびのある声以外は、昔の面影がない。


 ……いや、私が彼女の何を知っているだろうか。


 一つある椅子に座る。どう話を切り出していいか迷った。


「どこか静かな場所で暮らしていると風の噂に聞いたが、家族は居場所を教えてくれなくて、結局鼻の利く知人に調べてもらいました。東京にいたのですね」


「はじめは結核の転地療養の名目で軽井沢にいましたが、そのうちあちこちの病院を転々として、一度喉を突こうとした折に癲狂院(てんきょういん)へ入れられました。父の事業が傾いて、所有していた座敷牢のある古屋敷も売られたそうなので、幽閉といってもいい身分です」


「……今まで読み上げていた、あれは遺書ですか」


 女が首を縦に振る。


「筆をろくろく習っていねぇもんで、書くのに二年も費やしちまいましたよ。カタカナも書けずじまいでしたから、人に教えてもらいながら何年も書き直して、毎日推敲して。それでもまだ、下手糞だけれど」


 女が、懐から便箋(びんせん)の束を取り出してひらひらと振る。


 カタカナ、ひらがな混じりで、なんども消した痕跡のある鉛筆で書かれた手紙だ。先ほど読んでいたものだろう。



 二年以上も狭い部屋で遺書を書き続けていたのかと思うと、胸をつくものがある。遺書を盗み聞いてわかった。彼女は、(はな)から狂ってなどいなかった。


 あれはまったくの正気での抵抗で、思考に欠けがあったのは、(めと)(めと)らせようとした我々男の方だった。


 彼女が血を吐くように(つづ)った遺書にある通り、私は真実、彼女がどんな顔でも素性でも構わなかった。

 かわいい弟が惚れた幼馴染みを奪わない為に、他の娘と結婚することが最優先で、家の興隆(こうりゅう)も兼ねると来たらばこの上はなかった。名前と年と過去を知る前に、見合いの場は設けられた。


「あの時、父に飛びかかろうとする(アタシ)をお止めくだすってありがとうございました。おかげでつまらない人を殺して死刑にならずに済みました」


 けろりとした顔で物騒な礼を言う彼女にどういたしましてと返すのもおかしな気がして、曖昧に「間に合ってよかった」と濁そうとすると、女が寝台の上で正座した。


「申し訳ありませんでした」


 女が両手を揃えて深く、深く頭を下げる。


「貴方様にはとんだ悪党を致しました。あれは八つ当たりに他なりません。妾は、貴方が憎かった。美しさも、穏やかな育ちも、木偶みたいな恭順も、妾に対してなんの感慨もない表情も、貴方様と連れ添えば待ち受けるだろう、『玉の輿の結婚生活を降ってわいた幸福だと思え』というばかりの押しつけがましい人の目の矢も。それでも、あれはいけないことだった。父母への敬慕も特にない恩知らずの馬鹿な女ですが、貴方様を恨みに巻き込むのは間違いだった。鈴島様は、何一ついけないことをしておられない」


 恨みは湧いてこなかった。以前は夢にまで出て来た婚約相手の暴力だが、今はとんと二年前の私も、きっと報復なぞ考えない。


 魂の傷が癒えたというのもあるが、今更ながら、自分自身の虚ろに気付く。


 二年前に、彼女が私に怒りを向けず、生きるのが(いや)になったからどうか心中して呉れろと懇願(こんがん)してきた場合、「そういう時は夫が付いていくものなのだろう」と、私はきっと二人で川に飛び込んでいた。私がいずとも弟が跡を継ぐのだから、何も心配はない。


 仮に去年、婚約者が病院を抜け出し、不具の私と一緒に死にたいと泣くならば、一も二もなく了承していたと思う。

 家の恥になった者同士、元婚約者同士で義務的に殉死(じゅんし)を遂げるのは、ある意味完全な終結だ。


 八城なら、「家付きのボンボンは飼い馴らされているねぇ」と小突いてくるだろう。


「間に合ってよかった」


 今度ははっきりとそう言えた。


 彼女が自ら命を絶つ前に、この足で歩いて会えた。本音を聞けた。何よりだ。



 ゆっくりと立ち上がる。足を引きずり、転ばぬよう注意を払いながら、彼女の隣に座る。背広の内側に手をやり、内側の隠し(ポケット)にしまってある今日の目的を探る。


「これを受け取ってほしい」


 謝罪に対していささか外れた要望に、怪訝そうに女が顔を上げる。


 長方形のぶ厚い、紫色した袱紗(ふくさ)の包みを彼女の膝に落とした。


「これは、なんでございますか?」


「私のきっかり二年間の稼ぎです。既に使った分は家の所蔵を売って補填しました。財閥の元御曹司が渡すには心許ない額ですが、ここを出て、新しい暮らしを始めるには充分に足りるでしょう。昔の事を気にしているのなら、そろそろよして、互いに忘れようじゃありませんか」


「鈴島様。妾は、貴方の幸せを根こそぎ奪ってしまったのですよ」


 聞き覚えのある言葉を、淡々と、女は吐く。


 罪悪感に呵責(かしゃく)されていた弟とは別種の、己の罪を知ったとて後悔をしていない、気の強い女の眼光。


「妾の遺書を読んだとき、貴方様は扉のすぐ外にいらっしゃった。薄い壁を通して妾の声は届きましたかね?」


「ええ」


「貴方様は、妾のことなど、真実どうでも良かった」


「……ええ」


「他の男達のように妾をまた、金でどうこうするおつもりですか」


 静かにこちらを刺す問いかけ。


「……詫び料のつもりで持ってきましたが、今日お会いしてそれは違うと感じました。これはけじめですよ。そちらの遺書と交換にしましょう。貴方の二年と私の二年を交換して、それきり終わりに致しましょう」



 彼女の側に放り出された遺書を、そっと摘まんで隠し(ポケット)に納める。


 二年。


 女の二年間を引き取りしまいこむわずかな間に、過去二年あまりの記憶が思い起こされる。


 火の熱さ。病院の消毒液の匂い。()んだ傷。泣く弟。怖がる姪。痩せてゆく体。一部が白んだ髪が伸びていく。与えられた母の実家と、女中の老婆。物書きを始めて、ただ一人、縁側から月を見る生活。



 ────山梔子(くちなし)のふくよかな薫り。


「ああ」


 脳というのはおかしなものだ。今は冬なのに、ここは寒々しい病室だというのに、あの露を含んだ柔らかな花が、一瞬強く香った。



 日の射す縁側。


 転げ回って足跡だらけにした庭。


 雨夜の布団。


 揃いの着物。


 洋菓子の味。


 鈴島、と気安く私を呼ぶ声。


 私の諦めきった生に挑みかかり、日向へ手を引いていく、美貌の雄猫。



 八城。



 ああ、牛鍋と共に、世界はひっくり返された。

 私のお膳立てされた人生も、あそこから確かに変わったのだ。



 無意識に笑みを浮かべていたらしい。女が目を丸くする。


「あんた、笑えるんですね。あの日は妾に殺されかかろうが、お父上とおんなじ能面みてぇだったのに」


 私も彼女の驚く顔を見たのは初めてだ。新鮮である。


「私だって人ですから笑いもします。ええ、人間万事塞翁じんかんばんじさいおうが馬と言いますが、私は今、結構愉快にやっているのです。面白い友達もできた。貴方と会う前の生活とはずいぶん様変わりしてしまったが、それでも、満更でもないのです」


 女は、ふ、と溜息を吐く。


「なんというお人好しですこと。いっそのこと、殺しに来てくださればよかったのに」


 冗談なのか本気なのか。しかし彼女も二年のうちのどこかで私と死ぬ未来を脳裏に浮かべていたのかもしれぬ。私のように。


 それが来たらぬ未来であるように、私はわざと両手を挙げておどけてみせる。


「勘弁してください、殺すも殺されるも御免です」


 張り詰めていた空気がにわかにゆるんだ。


「左様でございますか。妾が(ほう)けている間に、鈴島様は本当にお変わりになられましたね。……ふふふっ!」


 女は笑った。


「どうしました?」


 そう尋ねると、笑いたくないのについ私に釣り込まれて笑ってしまったという、素に近い柔らかさで、女は口元を押さえながら答えた。


「いえ。いえ。今少し、貴方様と結婚しなかったのを後悔したでございますよ」

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