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野良と家付き  作者: 青沼がざみ
野良と家付き
3/32

「八城!?」


「訳は後で話すから! 殺されそうなんだ!」


 八城が跳ねるようにして縁側に上がり、靴を脱ぐ。



 ボタンが千切れたシャツが、彼の胸元を晒している。


 八城の、先日食べ残しを嚥下していた喉が、手指の形をした鬱血性の痣にぐるりと取り囲まれていた。

 濃く滲む紫。



「八城、」


「頼む!」


 私の答えを待たずに、八城は脱いだ靴を持ったまま家の中に走っていった。



 驚愕している間もなく、遠くから怒声が迫ってくる。



 私は八城のことをろくに知らない。

 悪人かも善人かもわからない。

 人の女を取っただとか、財布を掏摸(すり)盗ったなどの罪状であれば、私に彼を庇う理由はない。


 しかし、あの首に残る痛々しき痣は、誰かに強く絞められた跡だ。

 本当に殺されそうなら、まだ縁の薄い私を頼ってきたのなら、助けなければならぬ。



 何か武器になるものを探して、とりあえず杖を手元に引き寄せた時、怒声の主がやってきた。


「八城ぉ!!! 逃げられると思うなよ!!!」



 汗を拭いながら怒鳴り込んできた男は、恰幅のいい大丈夫ではあるが、疲れと粗野さがにじみ出た、嫌な雰囲気の男だった。まず、警官ではないことにほっとした。



「もし、そこの旦那、ここに妙な奴が掛け込んで……」

 

 男は私を見つけてそう質問しかけて、うっと息を詰まらせる。



 畳に座っているのは白髪混じりの長髪、濁った片目、青白い肌、(かたわら)にある杖、緩く着付けた着流しから火傷跡が覗く私である。


「なんだ、気狂いか……」


 男が露骨に蔑んだ眼差しを向けてくる。

 表情が顔に出ないと昔から言われていたのもあってか、気狂いと間違われてしまった。


 それも仕方ない。屈託ない八城のおかげで少しの間忘れていたが、私はだいぶん異様な風体なのである。


 気は確かであるので口は利けるものの、そもそもまともに話の通じる男ではなし、気狂いと勘違いされているのは好都合だった。



 身を乗り出し、目を見開いてみた。

 男がのけぞる。


 唸り声を上げてみた。

 ひぇ、と男が妙な声を出して怯えた。



 なんだか面白い。

 追ってきた男を痴れ者のふりして撃退する、というのは、下手な落語の筋書きのようだ。


 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり、と昔人は残したが、人助けで大路を走る者にはお目こぼしをしてもらえないだろうか。




 腕を掴んで渾身の力で爪を立ててやった。さぞ痛かろう。男の顔は引き攣っていた。


「だ、誰か! 誰かいないのか!」


 無理矢理にでも私の手を引き離したいのだが、部屋の中でおとなしくしている私に近づいたのは自分であり、そもそも自分が招かれざる者であると認識しているだけ、八城よりわきまえているようだった。



 さてこれからどうしてやろうかと考えていると、襖が開き、部屋の奥から老いた女中が姿を見せる。



「何かお困りで御座いましょうか」


「おおよかった、腕を解いとくれ」



 頷いて、女中は私の腕に触れる。

 皺に埋もれた切れ長の瞳が明らかに呆れていたので、私は素直に手を離した。


「それで、坊っちゃんに何か御用で御座いましょうか」



「いや、人を探していてな。この家の誰かに聞こうと思っただけなんだ。婆さん。ここいらで学帽を被った男を見なかったかい? 色の白い、女に好かれそうな顔立ちの。お宅の庭を抜けていったと思うんだが」


「この方は、人が家に入れば騒がれますので、そのようなことはないかと。もし庭においでになったのなら、ほれ、貴方様のように」


「そ、そうか……」


「さあ、坊ちゃんが騒がれます前に、出て行ってくだされ」


 男はすごすごと庭を出て行く。


 男の背中が見えなくなってから、老婆は私に耳打ちした。


「先日のお客様は奥に通してありますが」





 奥には客間がある。


 杖を握り、壁に身を預けながら廊下を歩く。ろくに外に出ない足を引きずりながら進むのも、家の中でならもう慣れた。


 客間は洋間である。中に入ると、安楽椅子に腰掛けた八城が小さくなってお茶をすすっている。テーブルには薬入れが置かれていた。


 私は普段ドアノブにさえ触れない場所だが、女中はしっかり掃除をしてくれていたようだ。八城の向かいの席に座ると、すぐに女中が茶菓子を持ってきてくれる。



「どうだった?」


 八城が湯飲みを置き、そわそわしながら私を見つめた。


「奴は行ってしまった」


 そう伝えると、八城の体から力が抜ける。

 緊張を解いて、安楽椅子にもたれかかっているところ悪いが、此方も聞きたいことがある。



「なんだあの悪党は。お前、何か追われるようなことをしでかしたのか?」


「いや、今回は全面的にあっちが悪い」


 苦々しい口ぶりである。


「首を絞められたんだよ。懐剣も持ってた。情死と洒落込もうとしたんだか、勢い任せに殺そうとしたんだか……」


「色絡みの問題だったのか」


「昨日運悪く、跡を付けたがる御仁に当たっちまってさぁ、朝帰りに道を歩く俺を待ち伏せしてたあいつに家へと連れ込まれて、吸われた跡を見て逆上されてこれだ」


 八城はところどころ避けたシャツを億劫そうに脱ぐ。



 息を呑む。


 肌に広がるのはおびただしい痣の群れであった。

 腹に、肩に、二の腕に、背中に、殴られたのかつねられたのか吸われたのか掻かれたのか、赤く熱を持ったもの、緑色したもの、治りかけてうっすら黄色くなったもの、喉元と同じ紫のもの。

 使い古しの調色板の如き濁った色の混交が、平らな体を汚している。




 こことここはあの男が、ここいらへんは昨日の夜、これはその前のと説明しながら、八城が困った風に笑う。



「面目ねぇや。久々に失敗した」

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