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野良と家付き  作者: 青沼がざみ
八城と鈴島
29/32

独白

「…………もう何年も、海を見ていません。この部屋は狭く、風も入らず、あんなに嫌だった潮風山風がなつかしい。


 昔は、平気で俺、おらと言っていたくせに、粗末な紙にかすれた筆で、(アタシ)、などとかしこまって手紙をつづるのは恥ずかしうございます。


 (アタシ)。ええ、本当はこんなそぐわない言葉を使うのも恨めしいのです。(アタシ)はどこにでもいる、ただの貧乏な村娘でした。でも、都会を夢見て女工に身売りしようと考えていた時の方が、今より百倍マシでした。


 別に村にいて満ち足りていた訳ではありません。好いた人もいませんでしたし母親らしいことをしてもくれない母に情もありません。ただ、そこしか知らなかっただけ。


 屋敷の主人に手を付けられて田舎に戻ってきた母から生まれた癖毛(くせっけ)(てて)なし子。そんな(アタシ)は田舎の寒村で、いつか白飯をいっぱい食べたいナアなんぞとよだれをたらして、いつか母のように奉公に出されるかと考えておりました。



 そこに、前触れもなく父の家の者が乗り込んで来ました。

 父の仕事が商売敵に押されて傾きかけているおり、ふと思い出した娘を相手方に嫁がせようというのです。政略結婚っていうのはやんごとなき方々同士で初めて成り立つものじゃあありませんかね。馬鹿らしい。



 やってきた男達は女衒(ぜげん)や借金取りよりも凄まじい剣幕でした。だって、(アタシ)がいなければ屋敷全体がおまんまの食い上げって話ですからね。必死にもなるんでしょうよ。


 脅され、金を積まれ、暴れる(アタシ)は数人がかりで馬車に乗せられました。釣り上がった手切れ金を受け取ってほくほくだった母はその金を使う前に病であっけなく死んだとか。


 腹の大きな母を屋敷から叩き出し認知もせず、(かえり)みなかった娘に全てをかけた父は、体がたるんだ成金らしい醜男(ぶおとこ)でした。


 あって初めてかけられた言葉が「こんな醜女が使えるか!」でしたのよ。お前に言われたくないって話ですよね。


 それでも目をぎらつかせた父は、独り者の嫡男はお前のものだと肩を掴み、山猿そのものの(アタシ)から令嬢の風情を(にじ)ませようと苦心していましたよ。


 まあ、最も苦心したのは勿論、(アタシ)です。

 鉛筆も握ったことがなかったのに読み書きそろばん、詩の朗読に、見たことのない楽器を弾かされ、(なま)ればぶたれ、脂っこい西洋料理をしこたま食べさせられました。なんで箸という重宝なものがあるのにわざわざ肉刺(フォーク)なんて使うんだか。


 (アタシ)処女(おとめ)かどうかさえ医者に調べられましたからね。あれは屈辱だった。


 さて、一寸も厚みがあるんじゃないかと思うほど化粧を塗りたくられ、(かつら)を被せられ、精いっぱい見目良くした写真付きの釣書(つりがき)を先方が受け取り、婚約の仕度が整いました。


 屋敷の使用人がね、(アタシ)に着物を着せながらちやほやとお世辞を言うのです。


 彼方(あちら)は家事一切人手がおありだから、遊んで暮らせますよと。


 相手は物静かな美男子だから、(アタシ)にも穏やかに接してくださるでしょうと。


 父も、貴方様のことを人形のような御せる男だから惚れさせてしまえと。できないと知った口で、釣り合わないと悟った頭で、口々にこれを良縁だとのたまうのです。



 ああ、おふざけでないわ。

 これが幸運だというならば、世に幸いなぞはない。


 上辺さえもろくろく取り繕えぬのはおっ(とう)の血と、お前達がおらと母を見捨てたからだろうと、叫んではみたがいいものの、(アタシ)は最早、故郷(さと)に帰る理由もない天涯孤独で、そして布団を下げもしなくなった、急速に贅沢を覚えちまったどうしようもない成金の娘だったんです。




 初めての顔合わせは、洋食の食べ方がどうしても下手だったから、まだ箸を使える牛鍋にしました。畳の上でじいっとうつむいていると、貴方様と、そのお父上がやってきた。



 貴方様は、それはそれは垢抜けておりました。故郷の男がどんなに体を洗おうとこうはなるまい、日に焼かれぬ肌、すべらかな手、まっすぐな長身。ぴったりと寸法の合った三つ揃い。

 上等な石鹸を使っているのか、いい匂いがしました。


 塗りたくった化粧が、京都から取り寄せたという自分の振袖が、急にみすぼらしく見えました。



 婚約者はさぞ無念だろうと、可哀想になるくらいでした。

 こんな、深窓のご令嬢から山ほど釣書を貰える立場の男が、親の指図一つで、(アタシ)のような大女を伴侶(はんりょ)にしなけりゃいけないんですからね。


 お父上は、貴方様に瓜二つでした。きっと、貴方様も、(アタシ)(アタシ)の父を、似ているナアと思ったに違いありません。(アタシ)、その時気付いたんですよ。成金の父がいくら頑張って、娘に無理をさせても、本当のお金持ちの仲間入りはできないんだって。本当のお金持ちっていうのは、豪遊なんてしないでもっと淡々としてるもんなんだって。


 しかしこれは玉の輿(こし)でした。

 きっと見合いがまとまれば、美しい子供を産んで、乳母を付けて、飯の仕度も野良仕事も一生しなくていい。故郷に手紙を送れば、村中の女が羨んだでしょう。売られた田舎娘は都会で美しい旦那様と悠々自適に過ごす。ほほほほほ……。そんな安い脚本が作れそう。


 安値で女郎屋に売っ(ぱら)われる娘もいる中で恵まれているんでしょうね。

 貧乏同士で山奥に嫁に嫁いでふんぞりかえった夫と舅姑(しゅうとしゅうとめ)に一生こきつかわれるよりは、輝かしいんでしょうがね。




 (アタシ)は横目で婚約者の顔を見ました。


 貴方様は、涼しげな顔をしていました。見つめていると、目が合いました。


 貴方様はゆっくりとまばたきをした。


 その目には、醜女の大女である(アタシ)と結婚する落胆も、敵対会社と縁を結ぶ気負いも、お愛想の笑みも、父親に人生を引きずり回されている女に対する哀れみも、何もなかった。心底透明な表情でした。



 つまりはね、貴方様は誰でも良かったんですよ。

 婚約者が別嬪(べっぴん)だろうが、年増だろうが、未通(おぼこ)でなかろうが、無教養の無筆だろうが、頭にトサカが生えていようが、不機嫌だろうが、商売敵の娘だろうが。


 結婚することが大事で、それによって醜女と床に入ることになっても、外に女を作ればいいだけなんでしょう。


 嫌だ嫌だと泣きながら、無理矢理おっ(とう)の人形にされた(アタシ)は、これからそれが嫌だとすら考えられないお人形と結婚するのです。


 苦役を苦役とも思えぬ、涙をわかちあうこともできない、親に命令されればはいそうですかと言いなりになって、心に波風さえ立てない生き方を当たり前だと思っている、成金ではない本当のお金持ちに。


 それを貴方様は当然のことだと思い、世間は幸福なことだと褒めそやすのです。ああ、皆が皆、人を虚仮(コケ)にしくさって。


 花嫁修業はまったくの無駄でした。




 ですから、限界が来たのです。

 (アタシ)は思い切り暴れました。


 牛鍋をひっくり返し、畳をむしり、床の間の調度品を叩きつけ、婚約者の骨を折りました。



 ああ、この美しいだけのお人形を壊してやったぞという野蛮な喜びが胸の中いっぱいに広がりました。


 この方は、貧乏がどういうことかも知らない、(アタシ)がどんなに気でここにいるかも知らない、ただ結婚できればいい人形なのです。


 これは、父への復讐でした。そして、親孝行でもありました。

 どうせ、家の存続を結婚なんかに任せる父が、本当のお金持ちになんてなれっこないのです。

 あがいてまわりを不幸にした末に限界を知るよりは、愉快じゃないですか、娘ごときに計画をご破算にされる方が。



 これは、母への手向けでありました。そして反逆でもありました。捨てられた父への恨みを募らせ、それでも娘と自分がいつか都会で優雅に暮らす一縷の望みにすがっていた母への。


 これは、自分一人の命さえままならなかった娘達の代表として婚約をぶち壊しにし、不幸な娘が玉の輿に乗る物語をきゃあきゃあ喜ぶ娘に冷や水を掛ける行いでした。


 父は、叫ぶ(アタシ)を恐れていました。腰を抜かして何やら怒鳴っておりました。娘の、自分への愛を愚かにも信じていたんでしょうか。


 ついでに父を絞め殺してやろうと息巻いて、踏み鳴らしていた(アタシ)の足を、血まみれの手が止めました。

 そう、今しがた怪我を負わせた婚約者。貴方様です。



「尊属殺人は死刑ですよ」


 どこかとんちんかんに(いさ)められ、(アタシ)は我に返りました。


 貴方様のお父上は、眉根を寄せたくらいで顔色さえ変えず、商談の続きのように、父を糾弾していました。本当のお金持ちは、息子が大怪我をしてもやはり冷静でした。



 それでおしまい。


 父と名乗る男の野望は潰え、会社は半ば乗っ取りのような形で合併したらしいですね。


 その日から、(アタシ)は色々な病室を転々としています。あわよくば、抜け殻同然になった父の顔を拝みたい。よく眠れそうだ。殺しにかかってくるかもしれませんが、(アタシ)、返り討ちにしてやる自信がありましてよ。


 ええ、ここは病院です。

 (アタシ)は病人です。ええ、病気です。

 (アタシ)がいなければ万事快調だった皆々様に、不幸をまき散らして感染させました。


 だからね、もう満足なんです。

 ここは狭いけど、三食昼寝付きで、(アタシ)、すっかり堪能(たんのう)しました。


 (アタシ)ばっかりいい思いをするのは不公平ですから、これ以上欲張りになる前に………………」






 こつーーーーん。


 木の床に、杖を突く音が殊更強く響き渡る。


 扉から漏れ聞こえていた、朗々とした長い独白が、ひたと止まった。



 看護婦に、扉を解錠してもらう。


 ゆっくりと開いた扉の前で、一度息を吸ってから入室した。



 狭い部屋の、簡素な寝台の上に、長い髪を結わずに垂らした、女がいる。


 帽子を取って挨拶した。


「お久しぶりです。約束はしていませんが、掟破(おきてやぶ)りに押しかけました」


 女は私の顔を見て、かすかに微笑んだ。


「お久しぶりですね、鈴島様」


 寝台の上で正座して、長い紙切れを握りしめているのは、たった一度会ったきりの、私の婚約者だ。

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