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野良と家付き  作者: 青沼がざみ
八城と鈴島
26/32

帝都

 新調した杖で床を突く。いかにも堅牢な音が響いた。

 黒樫の柄に、彫りもない銀の握りが着いた杖は、英語でいうTの形をしていて、紳士の持つお飾りのステッキではなく実用に耐えうる製品の風情がある。体重をいくら預けても、道中折れることはないに違いない。


 着ている背広服の一揃いは、信頼している洋裁店からのもので、持っていると厚みを感じる羊毛が、腕を通すと不思議に軽い。


 髪に油をつけて()かし、後ろに結んでから山高帽を被る。少し悩んで、前髪で火傷跡を隠すことにする。立ち鏡の向こうに一応は体裁の整った紳士がいた。



「まあ、こんなものかな」


 八城が口笛を吹く。


「よぉ色男、輝いてるぜ」



「前髪を下ろすとやはり決まらんな、片眼鏡でもすれば、片方色が白んだ眼を隠せるだろうか」


「片眼鏡はやり過ぎだって、これ以上伊達になってどこに行くつもりだ? 華族様の舞踏会?」


「色男はそちらの領分だろう。八城も早く着替えろ、馬車が来ている」


「えー……堅苦しいの、嫌いなんだよな」


「揃いの服で飯を食いに行きたいと、前に言ったのはお前だろう? それに既製服と違って仕立ての服は体に沿う。まず着てから文句を言え」


 家の周りをぐるりと散歩するだけの練習を経て、今日は二年ぶりに外出する。

 外向きの杖もあることだし、馬車を借りれば人の背に負われて帰還する醜態もさらさないだろう。



 お滝さんは感涙の体である。


「よもや、アタシが耄碌する前に旦那様のご立派な姿を見られるとは……」


 片手の手巾(ハンカチ)で目をぬぐいながら、もう片方の手で着替えを渋る八城を逃がさまいと襟首を(つか)まえているのだから周到である。



 頼んだ馬車を待たせたくないので、八城の髪に櫛を入れ、タイを締めてやる。猫でさえ毛繕いは自分でやるというのに、横着者の美少年である。


 しかし、馬子にも衣装というが、元がいい八城が盛装をするとその色香が際立つ。

 化粧もしていないのに蠱惑的な薄紅の唇や、前を閉めぬ外套の胸元から覗く絹シャツが白い肌に照るようで、それこそ後光が差す美しさであった。


 私よりも洋装で固めた回数は少ないであろうに堂々たる着こなしぶりで、それこそ老若男女問わず十人が十人、振り返るだろう。

 すでに玄関前で待機していた、馬車を操る馭者(ぎょしゃ)が八城に見蕩れていた。



 がたがたと馬車に揺られながら、溜めていた予定を指折り数えてみる。


「まず、革靴が欲しいな。痩せると足の大きさも縮むと初めて知ったが、履ける靴がほとんどなくなってしまったから」


「あの洋裁店のおじさんみたいにウチに来させればいいんじゃないの?」


「家まで来てくれと手紙で頼んだら『店まで歩いて来ないなら靴もいらんだろう』と断られてしまった」


「偏屈な靴屋だな」


「良い職人というのはそういうものだ。それに、ある程度頑固者であると、私の姿に驚かない」


「お洒落してんのに卑屈になんなって。それから、本屋に行って、食事はカツレツに、牛の尻尾のスップだっけか。前そういう話をしたろ」


「夏前にした話をよく覚えているな。……資生堂でアイスクリーム……は真冬だしやめにしようか」


「んふ、お前も覚えてるじゃんか。なんだかんだ今日を楽しみにしてたんだな」


 悔しいほどにその通りであるが、言わぬが花である。

 脇を小突く八城をいなしているうちに賑やいだ界隈に着いた。




 馬車の上り下りを八城に手伝ってもらってから、わざと大きな音で杖をつく。


 はじめは緊張していたが、意外にも、火傷顔の長髪で足を引きずる私が見咎められることはなかった。


 衆目の全ては終始、隣にいる猫を被れば社交界を揺るがすこと必至の不良紳士に注がれているのである。


 八城は常に冗談を飛ばして笑い、一瞥(いちべつ)で町行く娘を恋に落とし、または粋筋の女の軽やかなお誘いに「今日は連れと遊ぶからまた今度」と上手に返す。


 踊る足取りで都会の道を行く美貌と並んでいる限り、私は単なる奴の随行者であった。実に気楽である。そのつもりで呼んだ訳ではないが有り難い。



 目当ての靴屋に行き、その次に書店で本を何冊か購入した。


 馬車へ再び乗って、昼前に銀座へ(いた)る。


 帝都の壮麗さは自室に引きこもっていた私の筆舌には尽くしがたい。二年前よりさらに発展している。


 文明開化の先駆けの煉瓦を組んで建てられた店。広い大通り、景気のよい呼び込み。時折見られる洋装の婦人。


 人混みを見下ろす銀座の柳が風に揺れると、常に人に囲まれていた昔、私が鈴島の家を継ぐつもりで生きていた昔を思い出した。懐かしくなる。



 八城が空腹を訴えるので食事とした。


 洋椅子に座って食べるカツレツの、舌に弾ける狐色の衣と濃厚な味、一口噛み締めると(あふ)れ出る脂の強さは洋食ならではの美味だ。


 八城が右手に肉刺し(フォーク)を持って、カツレツを丸々串刺しにして頬張っている。今度、ナイフの扱いを教えてやってもいい。


 酒もないのに高揚していた。八城と庭に立った晴れの日、八城と指切りをした雨の日、あの些細な約束が実現して嬉しい。




 西洋料理の、ざくざく、こってり、ふわふわ、とろとろ、ひんやり、しゃくしゃく、ねっとり、ふるふるとした各々の食感と、多彩な香辛料の刺激の渦を経て、カフェー・パウリスタの店内で、珈琲をすすりながら八城が呟いた。


「どれも美味しかったけど、洋菓子は鈴島が作った方が一番旨いな」


 苦笑する。


「お前、それだけ食ってよく言うな」


「褒めてるんだぜ? 出来たての湯気が立ってるケエキは何よりだ」


 銀座の煉瓦亭でカツレツに舌鼓を打ち、カフェー・プランタンで休憩をし、八城が留守居番しているお滝さんへの土産をせがむのでそれを買いに回り、次にテールスープを飲みに西洋料理屋へ、食後カフェー・ライオンで珈琲を飲み、八城に何か買ってやろうとデパートメントストアをひやかした後のことである。


 西洋料理屋二件、カフェーを三軒梯子する、実に飲食本位の外出であった。

 次から次へ料理を頼んで平らげる八城をみると、擦れていても育ち盛りの少年なのだと感慨深い。


 景気が良さそうに世辞を言っていた馬車の馭者が、私の財布を心配するようになってきたので、心付けを余分に振る舞うことにする。


 カフェーの女給が数人集まって八城を指差してはうっとりしている。白い前垂れの可愛らしい娘が、お近づきにと細々世話してくれるのを愛想良くあしらってから、八城がにやりとして身を乗り出した。




「さて、次はどうするよ鈴島」


「次?」


「早めの夕飯が終わったんだが、あともう一軒行くか? 酒か、それとも女? どちらもいいとこ知ってるぜ。 一日出歩いてるんだからこのまま帰ってもいいけどさ」



 何を迂遠な物言いを、と、問おうとして思い当たる。そういえば、八城と初めて庭に立った日に、いい女の都々逸がどうとかさえずっていた。


 元来遊び好きな八城の一日を、私の付き添いで終えさせようとしているのだから、食事だけしても八城は物足りないのかもしれない。


 賭博はともかく飲む買うくらい最後に合わせてもいいだろう。八城の言うとおり疲れてはいるが、若い女に酌をされるくらいでも慰めにはなろう。


 私は同意する。


「そうだな。私も、たまには女を買うか」




「…………えっ?」


「ん?」


「え?」



「そうこなくちゃな!」くらいの返しを予想していたのに、八城があんまりにも驚いた表情をしたので、かえってこちらの方が戸惑ってしまった。

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