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野良と家付き  作者: 青沼がざみ
八城と鈴島
24/32

眠り

「あっ」


 声を上げるも遅かった。


 原稿を夢中で書いていた夜半、痺れた足を一度崩そうと体勢を変えた弾みで、肘がインク壺に当たった。


 円筒形のインク(つぼ)が、青黒い中身をまき散らしながら転がる。


 書きためた紙束が汚れぬよう咄嗟に持ち上げたため、インク壺は文机から転がり落ち、道筋を残しながら悠々と畳を渡り、よりにもよって敷いてあった布団の中心に残りのインクを全て吐き出して止まった。これが赤色であればすわ切腹かと驚くような、大胆な墨痕である。


 寝る準備までして書き物をしていたのが仇になった。うんざりする。


 濡れて汚れた布団で我慢することほど(みじ)めなことはない。


 しかし余分な布団がどこにしまってあるか、私は知らない。当てずっぽうに探して見つけたとて、この体で布団を自室まで引きずっていかねばならない。


 女中のお滝さんも既に眠っているだろう。起こすにも迷惑であるし、女中部屋は遠く離れている。


 夏場であれば座布団を枕に畳にごろ寝でもすればいいが、今は冬だ。



 仕事で疲れ果てた頭で思案して、八城のところへ行くことにした。


 八城が一応書生の身となってからは、専用の部屋を用意してある。いつも奴の方が仕事を邪魔しに私の部屋へとくるので入ったことこそないが、八城の部屋は自室からさほど離れていないのである。



「八城、入るぞ」


「鈴島!? えっなんで!?」


 襖を開けると広がるのは、ただ寝るだけ、場所を借りているだけというような、殺風景な部屋だった。


 四畳半に、家具といえば枕元で淡く畳を照らす行灯と、隅に小さな箪笥(たんす)があるのみだが、これは先だっての蔵出し品だ。知ってはいたが、八城は物を所有したがらない人間なのだ。



 がらんとした部屋の中心に布団を据えて、丸くなっていた八城は私の登場に想像以上に驚いている。


「布団が汚れた。今日はここで寝かせてくれ」


「は!? 寝小便でもしたのかこの年で」


「馬鹿」


 事情を話す。八城が「間抜けだな」と唇を歪めながら、枕の横を軽く叩いて布団に招いてくれた。猫に対する態度だが、快く入れてくれるうちに八城の隣へ腰を下ろした。寒い夜に追い出されてはたまらない。


 寝床に半分明け渡された居場所に体を納めていく度に、隣にいる八城がぴくんと震えるのを感じる。夜気にさらされた私の体が触れて冷たいのだろう。特に、怪我を負った片足は血が通いにくいのか殊更(ことさら)()てている。


 文句の一つも言われるかと思ったが、八城は黙って氷のごとき足の侵入を許してくれた。



 人肌は熱い。他人の温もりが()もった布団は、自分のものよりも温度や湿度が高い気がする。


 かじかんでいた指先がほぐれる心地につめていた息を吐くと、狭い部屋だからなのか、自分の吐息さえよく聞こえた。



「夜這いかと思ったぜ。お前が急にこっちへ来るからさ」


 腕枕をした八城の顔に、行灯の明かりが陰影を作る。


 くすんと鼻に抜けた笑声に、軽口で返す。


「夜這いの方が嬉しかったか?」


「どちらでもいいぜ? インクをこぼしたなんて小手先の言い訳は陳腐だが、箱入りの先生の精一杯の男気なら受けてやらねぇと可哀想だし、可愛い子猫が寒い寒いと鳴くなら入れてやるのが人情だ」


「……勘違いするな。断じて、同衾(どうきん)したいがためにインクをこぼした訳ではない」


「どうだかなァ。来いよ猫ちゃんあっためてやるから」


 両腕が伸びてきて、ぐいと抱き寄せられる。普段私の体を支える膂力(りょりょく)のある男でありながら、どこか優美な腕は白百合に似ていた。


 八城の足先が、私の二足(ふたあし)の間に差し込まれる。(くるぶし)から膝裏までをたどる爪先で、つつかれたところに火が灯る。


「『あっためてやる』とはそういう意味か。今夜はいつになく色を出してくる」


「だって、お前が足引きずって寝所に忍んでくるなんて愛らしい真似するからさ。いじらしさには報いないといけねぇよ」


 衣擦(きぬず)れ。衣擦れ。

 体温と共に(なま)めかしさが匂い立つ。

 いつの間に汗ばんでいた私に流し目を送り、余裕綽々に微笑まれた。


 百戦錬磨の不良少年は、私に対しては、深い仲になるかならぬか、その一線を天真爛漫に触って(もてあそ)ぶのが好みらしい。


 越えてもいいがすぐに越えてしまうのは勿体(もったい)ない。その根比べと駆け引きの愉悦はこの数か月で私も知っている。

 手を出したら負けで、手を出させたら終了の、甘い歯痒さ。



 それを今楽しむには、私は疲れが勝っている。


「八城、寝かせてくれ」


「駄目。眠るにはまだ足が冷てぇだろ、もっと運動しないとな」


 爪先を器用に操って、私の足の甲をくすぐったり、私が本当に眠くて疲れていて、襲いかかる気力がないことを見計らって誘惑してくる様があざとい。


 私が部屋に来ただけであんなに目を見開いていた癖に。



 押しのけようとすると、待ちかねていた笑顔で更に絡みつかれた。


「ああもう、足癖の悪い……。そんなに私が布団にやって来たのがおかしいのか?」


「うん。俺も懐かれたもんだなーと。お布団汚しちゃったから一緒に寝てー! なんてねだられたらさあ、そりゃあ熱を分けてやろうって思うだろ?」


「まったく、子供扱いしてくれる……お前だって度々私の布団に忍んでくる癖に」


「にっ!?」


 八城が明らかに動揺した。

 自在に動いていた足が硬直する。


「気づかないはずがないだろう。自分の部屋があるのに何故わざわざ私の布団で眠るのか、お聞かせ願いたいものだな」


「起きてるなら言えよ……」


「可愛い子猫が暖を取りにくるなら無体もできんだろう?」


 形勢逆転である。


 不利を悟った八城が絡めていた足を抜こうとするが、私の方が上背がある。四肢を回して八城の半身を抱えてそうはさせない。


「この部屋では寒くて寝られんのなら、湯湯婆(ゆたんぽ)でも出せばいいし、空き部屋はまだある。遠慮するな」


「遠慮なんかしてない」


「ならどうして?」


 わざと女にかけるような優しい声を出すと、八城が目を逸らした。


「いやさほら、たまあに歩く練習で鈴島がぐったりしちまう時があるだろう? お前が死んでないか確認に来てるのさ」


「一昨日、五日前、十日前も来ていただろう。雨が降って修練を休んだ夜もお前は来ているな」


「…………」


 じっと見つめると、八城は顔まで背けて口ごもった。


「…………後は、後は……、あ、あんまり」


 行灯の薄明かりでも耳が赤いのがわかる。


「あんまり?」


「……一人きりの部屋だと、あんまり眠たくなんないんだよ。隣に人がいた方が安心できるっていうかさ…………何笑ってんだよ追い出すぞ」


「ふっ、ふ、よく私をからかえたものだな」


「違うんだって! 餓鬼の頃から女郎の大部屋とか芸者屋とかで寝泊まりしてたから、ちょっとうるさくて人の気配がする方が落ち着くんだって! そりゃあ俺だって子供っぽいかとは思ってるけどさあ!」


 照れながらの必死の弁解が可笑(おか)しくて、笑いをこらえきれなかった。涙を流して咳き込む私をつねりなつつ、八城がふくれっ面をする。


「寝所に忍んでくるなんて愛らしい、だったか? 今度から私の隣に布団を敷いてもいいぞ」


「えっ…………。……要らねぇよお前今絶対弟さんのこと考えてただろ。それで弟は昔こうだったんだって思い出語りするんだうっとおしい」


「ははは」


 数秒本気にしていたのがますます滑稽(こっけい)だった。

 滑稽が故に、薄ら寂しいものがあった。



 八城は昼寝が多い男だ。起きている時は騒がしいが、少し静かになったと思えばうつらうつらと舟を漕いでいる。


 夜遊びが激しいのかと放っておいたが、男女と数多の浮名を流す八城にとって、夜は体を休める時間ではないのかもしれない。


 幼い頃から、色町の座敷の奥で、三味線や嬌声を子守歌にしてきた八城の眠りは、色事と直結しているのだろう。熟睡したことがあるのだろうか。


 一人では寝られないと私の布団なぞ狭苦しい場所に潜り込む八城は、大層な御尊顔(ごそんがん)を持っている。

 絶世の美男子と枕を並べる、それだけで終わる人間が何人いよう。

 一人では眠れないからと人を呼べば、人は情を交わそうと八城を暴く。慣れた八城は日課のように夜伽(よとぎ)に応じてから明け方浅い眠りに落ちる。

 昼に目を覚まし、また夜、人の布団に邪魔するために、自分を好む人を探す。それこそ、初めて私の庭に乗りこんできたあの日のように。



 行灯を消す。

 部屋にインクの色をした闇が下りてから、内側に幼さを残した男を、さっきよりも強く抱きかかえる。八城が不思議そうに身じろぎした。


「八城、お前が小遣い稼ぎに、快楽目当てに、または何か成そうとする手段として誰と寝るのも自由だ。人肌恋しいと相手を求める人間は星の数ほどいるから普遍的ですらある。享楽的な性でも、お前は善人だ。遊び歩いていても、致命的な悪事はしないだろう」


「……どうした、俺を抱きながら説教かよ鈴島」


 暗黒の中で、囁く八城の声は一段と低い。


 八城のうなじに唇をつけて、小さく呟く。睡魔よ、早くこの男の枕元に来たれと念じてみる。


「私にはお前を止める術はないし、止める柄でもない。だがな、ただ夜寝ても構わない場所が欲しいためだけに、お前が気が乗らぬ輩に体を弄らせている夜があるなら、私は、本当に嫌だ」


「…………」


 返事はなかった。


 先程はしゃぎ倒したのが嘘のように、二人布団にくるまって無言でじっとしていると、間もなく八城の腕から力が抜ける。


 安らかな寝息が聞こえてきたので、私も目を閉じた。

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