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野良と家付き  作者: 青沼がざみ
八城と鈴島
20/32

生い立ち

 弟と長いこと話をした。


 会社はまずまず軌道に乗っていること。父や弟妹は壮健であること。妻君との仲も良好だということ。私と弟共通の幼馴染みである妻君は、料理の腕がとみに上がったらしく、いつかご馳走したいと伝言されたこと。弟が今日乗ってきた馬の疾風(はやて)号は、老いたがよく飼い葉を食べること。


 昼餉(ひるげ)も抜かして、夕空が焼ける頃まで話し込んで、馬のいななきに急かされようやく弟を見送った。


「八城君、兄をよろしくお願いしますね」


 別れ際、馬上で帽子を被り直しながら、弟が私と並んだ八城に目礼する。頷いた八城の笑顔に嘘はないだろう。


 遠ざかる弟の背中が見えなくなってから、私は勢い良く八城の方を向く。同じく八城もぐるりと首を此方に回したところだった。



「「お前の名前、」」「陸太郎と言うのか!?」「カナウって言うの!?」


 朝から(たず)ねるのを我慢していた疑問が綺麗に揃った。一拍遅れて二人で吹き出す。そうだ、私も八城に下の名を明かしていなかった。


「すまないな、別に隠す意図はなかったのだが、この名は仰々しくて、つい苗字で済ませてしまう」


「カナウって珍しい名前だもんな。字はどう書くんだ?」


「願いが叶うの叶だ。死んだ母が私を産んだ時、初の長男に喜んでな。『これから先の人生が安楽で、何でも望みが叶うように』との親心が籠もっている」


 凡俗な私の望みは、父に恥じぬ立派な跡継ぎとなり、ゆくゆくは家長を担い、妻と子に囲まれ会社を盛り立てる……そんなありがちなものだったので、妻帯せず社交もせず、責任を弟に押しつけている現状は、今のところことごとく願いが叶っていない。途方もなく名前負けしている訳で、有り体に申せば名乗りにくい。


 家に入って靴を脱ぐ。どっと体が重くなる。隣にいる八城も草履を投げ出して動かなくなっていた。半日愛想を振り撒いていたので疲れたのかもしれない。



「叶か。なあお前の弟、恭二って名乗ってたけど、鈴島は恭一って呼んでたよな。どちらが正解?」


 八城が磨かれた廊下に寝転んだ。今更行儀を叫んでも噴飯物なので私も真似をする。


「どちらもだ。弟は元々恭一と名付けられていた。後妻の子だからと、彼の母が兄の私に配慮して名前を改めさせたのだ。長子の私を差し置いて名前に『一』を入れるのが心苦しかったとかで」


 大人の事情など子供にはわからない。いきなりお前は今日から恭二だと言われた弟は戸惑って泣いた。

 突然名前を変えられた弟の混乱を減らす兄であろうと、皮肉なことに改名の元凶の私だけが恭一と呼んでやっていたのだ。念願の弟に対する幼気(いたいけ)な兄貴風である。


 板張りの廊下はすべすべとしていて、背に固い。


「さっきの鈴島、ちゃんとお兄ちゃんぶってて面白かった。弟がいるってそんなにいいもの?」


「ああ、弟はいいぞ。今日は泣かせてしまったが。まったく、いきり立つなど鈴島の家ではしたこともなかったのに、私も緩んだものだ…………、八城、」


「似合わねぇだろ、陸太郎。だからあんまり人に教えてないんだ」


 仰向けになって目を閉じていながら、八城が器用に私の疑問を読み取った。奴の濃い睫毛が震える。名前にまつわる話の続き。


「陸太郎。えらく真面目な名前だな」


「親父がさ、親父っていっても会ったこともないんだけど、未来の陸軍将校だったんだって。だから陸の字勝手に貰って陸太郎。母さんが名付けたんだ、短絡的だろ?」


 さらりとした語り口だった。


「品川生まれで、母さんが芸者なのも本当。母さんが二十三の時に会った親父はまだ子供で、軍の学校に通う将校の卵で、度胸試しに十五のところを十六だと年誤魔化して色遊びに来てたんだ。手も握れずに緊張していたそいつの顔を気に入って、母さんがお初を食ってやったんだと。惚れさせるだけ惚れさせて、俺を(はら)んだら母さんは親父を切って品川を出ちまって」


「待て、母君が父君を捨てたのか?」


 芸者が客に懸想(けそう)して捨てられるというのは(ちまた)にありふれた悲劇であるが、手切れ金も養育料も得ずに、芸者が客の子を身籠(みご)もって逃げるというのは並の選択ではない。大きな腹では仕事もできぬだろう。


 八城は当然だという風である。


「言ったろ? 母さんが親父を気に入ったんだ。こいつの子ならば欲しいと思ったんだよ。でもガキだった親父に家の反対を押し切って妻を決める権限なんてないのは明らかだ。だから、あんたのやや子をこさえたと詰め寄っても、親父の家族に産むなと言われるのが関の山、良くて本家に取られる、最悪お家騒動にならんよう子供諸共殺される。ならいっそと、親父に出来たことも伝えてないって。いやぁ、粘って名前ぐらいは貰って欲しかったな。多分、陸太郎よりはマシだぜ。俺、十六年経ってもしっくりこねぇもん」


女傑(じょけつ)だな」


「うーん、女傑っていうか、化け猫? 手練れだけど、芸者の張りとか意気地とか、欠片も持ち合わせてない。あいつに比べたら俺はほんの子猫ちゃんだ。たまに恐ろしくなるくらいで……鈴島とは会わせたくないな」


 それはそれは嫌そうに、口を歪めて舌を出す八城。


「母さんはおかしいよ。興が乗れば平気で足を開く閨狂いで、人の客を盗って、旦那達から金を巻き上げて、揉め事が起きれば吉原から新橋、新橋から柳橋、浅草に辰巳(たつみ)河岸(かし)を変える、骨の髄まで枕芸者…………でも、俺のことは、真心込めて育ててくれたんだよなあ」


「……そうだと思う。八城の字は綺麗だ。お前の無頓着な行動の端々にも、どこか細やかに仕込まれたものが根付いている」


 しみじみと呟く八城に同意する。


 最近は、時間が空けば八城に勉強を教えている。まだこの国には筆を持ったことがない者が少なくない。学校にも通ったことがないというのでどこまで読み書きができるか危ぶんでいたが、意外にも八城の(つづ)りは達者だった。計算も速い。誰かが根気よく手習いさせたのだ。


 今日初めて聞いた敬語も同じだ。八城は芸者の息子だという。芸者の息子が間引きされず余所(よそ)に預けられず、ここまで教育を受けているのなら、そこには強い慈愛がある。


 花街を渡り歩きながら、子の手を引く芸者の姿を思い浮かべる。女の武器を駆使して艶文(えんぶん)を流す一方で、商売の(かせ)にしかならない赤子を選んだ女の、利己と無私とが共に有る破天荒な生き様。

 それは、不思議なほど八城と共通している。



 八城が体勢を変えて横向きになった。今日は髪を結っているので、いつもは前髪に隠れている生え際がよく見える。


「読み書きは、母君に習ったのか?」


「うん、いい芸者は恋文書けんと商売上がったりだしな。小唄都々逸(こうたどどいつ)とか三味線も。金勘定は母さん下手くそだから、置屋にいた芸者衆とかに。へへ、花柳界の嗜みは満点だ」


「三味などもう何年も聴いていない。機会があれば一曲鳴らして、く、っれ、ひっ?」


「やっぱり鈴島は、俺の母さんを悪く言わないんだな。育ちかね? それとも性分?」


 耳元に息を吹きかけられて言葉が止まる。こそばゆい。


 八城が隣で仰向けになった私に覆い被さった。


 こめかみをなぞられる。(あご)をくすぐられる。着物の襟から手を突っ込まれ懐をまさぐられそうになったので、本能的に襟元を押さえると、伸ばされた腕は私の首に回った。


 心臓がどっと音を立てる。


 弟の時のように力を込めた抱擁(ほうよう)ではない。手は添えられているだけなので、絡んだ体は軽く押しのけられる。なのに、身動き一つままならない。


「坊ちゃんだなあ。でもそういうとこ、ホントに嫌えねぇわ」


 八城が、嬉しそうに、嬉しそうに、嬉しそうに微笑んだ。


 今までの度重なる遊びめいた誘惑や、友人間のてらいない接触とは比べ物にならないあけすけな好意が、細めた(まなこ)からほとばしり、私の体を沸騰させる。


 私の弟に対する健美な社交辞令とはまた類を異にする、心を開いた猫の眩しさ。


 頬ずりをされる。私の火傷で醜く凹凸(おうとつ)した肌が八城のきめ細かい肌と密着し、引っかかる。


「叶」


 熱い。

 熱い。

 熱い。


 喉笛が、回された八城の腕の温もりに焼かれて痺れる。声が出せない。


「いい男だとは知っていたけど、やっぱり、お前、いいよ。誰かに抜け駆けされる前に食っちまおうか」


 そう囁くと、八城は愛おしげに私の白髪交じりの前髪を指で()き、ゆっくりと口を開けた。白い歯と、粘膜の(ほら)に浮かぶ赤く燃える舌が鼻先にまで迫ってくる。


 床板がぎしりと鳴った。




 私の唇に吐息が掛かったその時、


「旦那様方、玄関を塞いで何をしていらっしゃいますのか」


 女中のお滝さんのしゃがれ声で我に返る。いつの間にか廊下の奥に、たすき掛けをして前掛けを締め、頭に手拭いを被ったお滝さんが立っていた。食事の仕度をしていたようだ。


「ほれ、八城の坊や、お客様がお帰りになったら次は片付けを手伝いなされ。夕食が遅れますよ」


「…………はぁーい」


 渋々と八城が立ち上がり、早足でお滝さんについていってしまってからも、私はしばらく廊下に寝たまま動けないでいた。

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