昼下がり
男が目覚めたのは昼過ぎだった。
小さく欠伸をしてから、文机に向かっている私をじっと見つめる。
「なんだ、手を出さなかったのか」
布団を被って、頭だけ出した男の第一声はそれだった。随分な挨拶である。
「夢うつつに手や足を取られていたのを覚えているから、俺はてっきり」
「布団を泥で汚したくないから服を脱がせただけだ。それに何度も言うが、私は男に興味がない。恋に破れて自暴自棄なのかは知らんが他を当たれ」
自分の部屋にこの男を置いている理由は、別室に引きずっていくのが手間であったのと、まだ強盗や詐欺師かもわからぬ男から目を離しておけないからである。
「恋? 何故そう思うんだ?」
「疲れていなければ、無体をされてもいいとばかりの無防備を晒さないだろう。そうでなければ恋に破れたとかで自棄になったとか」
「破れてねえよう。此方が振ってやったんだ」
勢いよく起き上がった男は、自分が寝乱れた浴衣を着ていることに気づいたらしい。ちなみにこの浴衣は私の物である。
「俺の服は?」
万年筆の先で庭を指す。物干し竿には、男の服が干されていた。シャツが陽光を透かして眩しい。
「女中が気を利かせて朝に洗ってくれていた。今日はいい天気だからあらかた乾く頃だろう。服まで面倒見てやったのだからとっとと帰れ」
「欲がない奴……」
「飯のぶんだけ触っていいとお前は言ったが、私の食べ残しにお前をどうこうできるほどの価値はないよ」
私の一言がお気に召したらしい。男は声を立てて笑った。こうしてみると、まだ少年といってもよい幼さだ。案外年がいっていないのかもしれない。
酒精が抜けて白い頬は、黒髪と黒目を濡れたように映えさせている。なるほどこの顔を使えば悪さも自在だと思う。
そこだけは色の抜けていない唇をつり上げながら、男は布団を蹴って立ち上がり、縁側から庭へ下り、自分の衣服を回収した。
「世話になったな。また寄るよ」
「二度と来るな」
「そうだ、お前、名前は?」
「名乗る義理など……」
「別に構わねえよ女中に聞くか玄関とこの表札を見るから」
「…………鈴島」
「鈴島か。俺は八城。浴衣、また今度返しに来るから」
最後まで人の話を聞かずに、八城と名乗る男は、するりと庭から外へ出て行ってしまった。
「忙しないな」
つい、独り言が漏れる。
自分が外へ出ていないうちに、何か治安でも悪くなったのだろうか。それともあれが流行なのか。私が時代についていけないだけだろうか。
あんな奴が何人もいてはたまらない。最近の若者は……と文句も垂れる年寄りが出るのもわかる。
気を取り直して、仕事に戻る。
足を引きずらねば歩けない不便な体は、高等遊民として遊び回ることもろくにできないような厄介者になるのが関の山だが、勉学というのはそれなりに役に立つもので、今は異国の書籍の翻訳などで暮らしている。
私を養う金くらい父は惜しまぬだろうが、なにも出来ぬ息子と落胆されるのは恐ろしい。
高等遊民などと最近は称す、趣味と学問の徒にも望めばなれるだろうが、あれは「俺はいつ何処においても何者にでもなれるのだ」という自信の上に成り立つものだ。
今の私にどこまでも行ける足はなく、見目も損なわれてしまった。
ならば、家でできる仕事を細々と続け、書物と草木を愛でて生きるのが良い道なのだろう。
「八城か」
悪人ではなさそうだった。
人の家で残飯を食らって勝手に眠って帰るなど、まるで半野良の猫である。
知人に八城のような人種は皆無であるし、あの奔放さはある意味清々しい。
また近いうちに、酔い醒ましついでに餌をねだりにくるかもしれなかった。
その予感は当たった。
一週間、やはり晴れた日の昼下がりに、切羽詰まった表情の八城が、庭の垣根を乗り越えて私の元に飛び込んできたのだ。
「頼む鈴島!!! 匿って!!!」