飯の残りで男を買う夜
「やあ、俺を買ってくれよ」
月明かりを受け、闇夜の庭に浮かぶ山梔子の純白がかさりと揺れる。
私は縁側から月見酒としゃれこんでいたところだった。縁側に横たえた身を起こし、酒に酔った目を凝らすと、一人の男が壊れかけた垣根をくぐって庭に滑り込んで来ているのが見えた。
とっさに物盗りか何かだと思い、身を竦ませた私をちらと見るなり、男は軽やかにそう言ったのだ。
その男は美しかった。細身のズボンと薄いシャツを着て、学帽を被っている。デカダンな物語の主人公のような、大層な麗人である。
紅顔は酒のおかげでもあるようで、元の肌は白く玉さながらであることだろう。
男は許しも得ずずかずかと上がりこんでくる。庭に沈殿していた山梔子の香りが男の足取りにかき混ぜられ、甘く鼻をくすぐった。
そのまま縁側から上がり込んで、胡坐をかき、警戒している私に男は笑いかける。
「おい聞いていたかよ旦那? いいことをしよう。俺を買ってくれよ」
肩で揺れる伸びた髪には泥がこびり付いている。若々しい未来を持ち崩した、柄の悪い色気に、つい目を逸らしてしまう。
「そんな趣味はない」
「なんだ、このぐらい立派な家構えなら、俺との夜をしぶるほど貧しくはないだろうに」
「生来男に興味がないのだ。他所をあたってくれ、しまいには人を呼ぶぞ」
「ふぅん? 人なんぞ呼ばずとも、逃げるか俺を殴るかすればいいのに、お前、ずいぶんな箱入りだなあ」
「黙れ」
私が殴ることも逃げることもできないとわかっての物言いだろうか。
酔いに背中を押されて睨み付けると、さも不思議そうに男は首を捻り、ついでに私が残した酒肴に目をつけた。
「なあ、これ、食っていい?」
私の返事も待たずに、男は私の前にあった夕餉の膳を自分の方に引き寄せた。食い残しの冷え切って油の白く浮いた煮付けや、乾いた小魚を指でつまんで貪り始める。
「美味いなこれ」
「………」
何か言おうとしてやめた。
こうも堂々と、見知らぬ男の残り物を腹におさめる奴だ、どう出てくるかわからない恐ろしさがある。どう出ればよいかとんとわからない。
箸を使えと怒るのも滑稽な気がして、結局指を舐める男の前で、ただぼんやりしていた。
まず、人を呼ぶべきだろう。もう遅いような気もするが。小間使いの老婆はもう寝ている頃だろうか。
口元を手の甲で拭う男は家主よりも我が物顔である。
「ああいい味だった。そんじょそこらの飯屋よりも美味かった。お前の奥さん、料理上手なんだな。それとも母親か?」
「いや、女中が作った。食ったならもう帰ってくれ。私もそろそろ寝るころだから」
「んー、飯をいただいたら、俺も眠くなって来たんだ」
「は?」
「飯ついでに寝かしてくれよ」
「は?」
完全に毒気を抜かれた塩梅である。
私が呆れるのも当然のはずだが、彼はそう思わなかったらしく、不満げに口を尖らせた。
「そう抜かすな、俺は高いんだ。俺が眠っている間、飯の分だけ触っていいぜ」
本当に疲れていたのだろう、片目を閉じてそう言い置いた男は、私が断る言葉を探しているうちに、すでにもう片方の目を閉じて寝息をたて始めていた。
「おい、起きろ。おい!」
他人の家で丸まって眠れるのも、私を信用しているというよりかは、疲れ果てて致し方ないというような流れを感じる。
何かしでかしたのだろうか。追われる罪人をかくまったらことである。
安らかに上下する腹は、山梔子と同じかそれ以上に月に映えていた。
泥付きのシャツは安物で、簡単に引き裂けそうな薄い生地を通して、上下する腹に穿たれたへそのくぼみや、しなやかな肩の流線が透けている。
「……」
どっと疲れた。
他人と話すのはいつぶりであったろうか。
およそ二年もの間、庭より外に出ていない身だ。
「そういえば、何も言われなかったな…………」
縁側に掛かっているステッキのことも。
私の、二十半ばにして白髪まじりの、紐でくくった長髪のことも。
頬に残る火傷の跡と、白く濁った右目のことも。
自分が色男だと、人の顔も気にならなくなるのだろうか。一度外に出た時には、子供に泣かれたものだけれど。
鏡の前にいざり寄り、覆いを取ってみる。
いつも通りの壊れた顔が映る。
両手をついて立ち上がる。体が傾く。
とりあえず女中を呼んで、布団の支度をさせることにした。