第10話 アリサと世界
アリサの知っている世界は、生まれ故郷の領地──といっても、こじんまりとした村にすぎない。
それと、王都だけだった。
公用語や算術といった基礎の学びは、領内の小さな学校と家庭で教わった。
母は街の小貴族の出で、村の誰よりも学が深かった。それは、アリサのひそかな誇りだった。
難しい本を読むより、剣を振るほうが好きだった。
けれど、決して学をおろそかにはしなかった。騎士として生きると決めた日から、学問も礼儀作法も、恥じぬようにと努力してきたつもりだった。
──だが。
それでも王国の歴史や、他国の情勢について、学校でも家でも語られることはなかった。
自分の国のことを、そして世界のことを知らない。
それを不思議とも思わずにいた自分に、アリサは今さらながら──ぞっとするような闇を感じていた。
レイラから見れば、何も知らされずに育ったという意味で、アリサはこの国の「普通の人」だった。
情報は、ごく一部の層が独占している。
魔導ギアのない王国では通信はなく、印刷物も厳しい校閲を受ける。
フリー記者の表の活動すら、満足にできないのだ。
物事の判断基準となる情報も、比較の対象も、アリサには与えられなかった。
けれど──
知ったところで絶望するだけなら、知らないほうが幸せだ。
それも、ひとつの親切心なのかもしれない。
だが今、アリサは──
そっと優しくかけられていた目隠しの手を、自ら振りほどこうとしていた。
「教えてください、レイラさん。他の国はどんなところなんですか?」
その声には、迷いの影はなかった。
レイラは一度、深く息を吸い、静かに語り始めた。
正しい、正しくないの評価は口にしない。
それは、アリサ自身が見つけ、考えるべきものだと分かっていたからだ。
──エルフ国。
王室はあるが、それは象徴にすぎない。
国を動かすのは、国民が選んだ代表たちだった。
彼らが集い、語り合い、国の道を定めていく。
王はただ、民の誇りであり、心のよりどころだった。
──ドラグーン帝国。
多くの種族と属州の群をひとつに束ねる国。
「皇帝」は国民の投票で選ばれ、非常時には強権を発動できるが、平時はその力を議会によって厳しく制限される。
属州の政治は、住民が選んだ代表が担い、任期が設けられていた。
──獣人連合。
各種族の大小国家が集う連合体。
相互の安全保障と経済圏を築き、国家間の利害は、各国代表者とは別に選出された議長が調整する仕組みだった。
──魔王領。
魔族が立ち上げた、経済活動に特化した企業国家。
富と技術の力で国を動かし、利益の上に秩序を築いていた。
トップの魔王でさえ、絶対の権力者ではない。
国の方針は経営会議で決まり、利害関係者たちの監督を受けていた。
……最後のは「旧・魔王カンパニー」だけど、とレイラは心で付け加えた。
邪神カンパニーになり、何が変わったのか──それは彼女にも、まだ見えてはいなかった。
アリサにとって、どれも初めて耳にする話ばかりだった。
心の奥に、まだ見ぬ異国の風が吹く。
今すぐにでも旅に出たい──そんな衝動が湧き上がる。
知らない景色、知らない人々、知らない国々を見てみたい。
──あなたの国は、どんなところですか?
そして……私の国も、どうか見てください。
そんな日が、きっと来る。アリサの胸に、またひとつ新たな夢が生まれていた。
レイラの声が、そっと現実へ引き戻す。
「そして……この王国のことですね」
この国では、封建貴族と呼ばれる領主たちが、王室から土地の自治を任されている。
王都に住まう貴族は、王室直属の家臣、あるいはその親族たち。
土地に根付く封建貴族は、各地で独自の権力基盤を築き、王室は今や君主というよりも、ただの盟主に近い立場になっていた。
──アリサは思い出していた。
フレッドやアーサーの言葉。
WSOとの関係が悪化したとき、王室はそれを取りまとめることができなかったと……。
アリサの唇から、自然と言葉がこぼれた。
「私たちの国は……何が問題だったんだろう?」
レイラは少し考える。
「それは……難しい質問ですね」
そして、ゆっくりと言葉を選んだ。
「国というものは、結局その時代、その場所で、人々の必要によって生まれるものです。
ある時代ではうまくいっていたやり方も、時代や周りの環境が変われば、立ち行かなくなることもあるんです」
アリサは黙って、その言葉を胸に刻んだ。
***
俺は考えていた。
……この国の政体は、生前の俺がいた国に似ている。いや、正確に言えば──近代化以前のあの頃の姿だ。
各地に領主がいて、単一国家としてのまとまりがない。
近代化、そして国際化には、国家としての一体化が必要だ。お飾りではない中央政府が要る。
そして、WSOとの関係を改善するには──民主化の道も、その一つかもしれない。
けれど俺の価値観は、転生前の人生で育った国の、それも一時代のものにすぎない。
その価値感を押し付けて、「これが正義だ、これが正道だ」と語る資格なんてない。
俺は異邦人だ。
答えを選ぶのは、この国に生きる人たち自身なのだ。
ただ──もし、俺の知識が、この国が変わるきっかけになれるのなら。
それなら、やってみる価値はあるんじゃないか。
少なくとも、俺はもう……傍観者ではいられなかったのだ。
***
「同じような課題を克服し、近代化を成し遂げたのは、エルフ国ですね。彼らも、かつては王国と似た統治機構でした」
レイラは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
迷いはあった。国の形に、絶対の正解などない。アリサに思想を押しつけるつもりも、誘導するつもりもなかった。
けれど──手がかりになるロールモデルは、あってもいい。そう思ったのだ。
「参考にする分には良いと思いますよ……。いずれにせよ、契約労働者の問題をなんとかしたいのなら、やはり近代化は必要でしょうね。産業も、政治の形態も」
アリサには、まだすべてを理解できたわけではなかった。
けれど、少しずつ──ほんの少しずつ、自分の目が開かれていく感覚があった。
ライネルが言った、「この国を作り直したい」という言葉。
これまでの自分は、目の前の人を救うことだけを願っていた。いや、それは今も変わらない。
けれど今、その奥にある“仕組み”にも目を向けなければならないのだと、気づき始めていた。
「レイラさん……私、もっと考えてみます」
アリサは深く頭を下げ、立ち上がる。
「またいつでも。困ったことがあったら言ってくださいね」
レイラは、いつもの快活な笑みで見送った。
***
事務所を後にしたアリサは、石畳の道を歩きながら考え込んでいた。
(エルフ国……近代化……私に、いったい何ができるんだろう)
そのとき、不意に声がかかった。
「ねえ」
はっとして顔を上げたアリサの視線の先にいたのは──ミレーヌだった。




