第15話 行動再開
ミレーヌはひとり、廊下を歩いていた。
靴音だけが、虚ろな耳に響いている。
けれど、その胸の内には、アリサの声が残響していた。
──いま、何ができるか分からなくても……諦めたくありません。
そのときアリサに感じた、淡くあたたかな炎。
絶望の底に沈みかけていた心が、ふいに、熱くなった。
ほんの一瞬──。
アリサの手を取って、声を張り上げたかった。
私たちは、まだ終わっていない。
諦めたくなんてない。
けれど、それは……。
それは光の信仰に背くことなのだろうか?
私の魂は、ベアトリス様のそばにあるべきもの。
あの秩序の中でこそ、満ち足りていたはずなのに──。
なのに。
アリサに、確かに感じてしまった。
希望を。
そして、思い出していた。
理想の騎士を目指していた、まだ幼く、まっすぐだった、あの頃の自分を。
いけない。
こんな思いは捨てなければ。
ミレーヌは小さく、けれど力強く首を振った。
(私は……)
ベアトリス様の守る秩序こそ、すべてだ。
たとえ──その秩序が、いまにも崩れそうなものだったとしても。
必死に、そう言い聞かせた。
……そのとき。
「おい」
不意の声に、肩が跳ねた。
振り返る。
「大丈夫か? おまえ」
アーサーだった。
「あ……アーサーさん」
言葉がうまく出てこない。
「なにか……?」
「なにか、じゃねえよ。鏡見てみろ。ひでぇ顔してるぞ」
その口調は、いつもどおりのぶっきらぼう。
けれど、その目は──温かかった。
……その優しさが、胸の奥で波紋になった。
「まあ、あんな話のあとじゃな……。にしても、うすうす気づいてると思ってたぜ」
ドキリとした。
ミレーヌの家は、王都の中級貴族。
父は経営のことを語らなかったが、契約労働者の問題には、知らずに“加担する側”だったのかもしれない。
アーサーは、そんな気配を見て取ったのだろう。
頭をかきながら、言った。
「深い意味なんてねえよ。優等生なら、何かおかしいと思ってても不思議じゃねぇ。それだけだ」
「わ、私は優等生なんかじゃ……。その……ベアトリス様の隣にいるのに、ふさわしい人間になりたいだけで」
声が震えた。
思わず、うつむく。
今回の調査で、まだ何ひとつ成果を挙げられていない。
こんな自分が、“ふさわしい”だなんて──。
「ふさわしい、ね。けっこう頼りにされてんじゃねえか? 少しは自信持った方がいいぜ」
自信。
いままで、それは、ベアトリス様の光が与えてくれるものだった。
けれど、今は──。
何をどうしたらいいのか。
そんなふうに思う自分になるなんて、夢にも思わなかった。
迷いなど、なかったはずなのに。
「ほんと、おまえ。どんな顔してんだよ」
ふと顔を上げた。
「迷子のガキみてぇだな。ベアトリス様一筋! って言ってた頃は、もっとイキイキしてたじゃねぇか」
「迷子って……ひどいです。……でも、そうかも」
ミレーヌは自嘲気味に薄く笑った。
アーサーは、ふと真剣な顔つきになる。
「俺にはお前が何に悩んでるのかは分かんねぇ。けど、一つ考えてみろよ。ベアトリスが、お前への態度を変えたことがあったか? ……俺には、そうは思えねぇけどな」
「何があっても、信頼している。さっきだって、そう見えたぜ」
──はっとした。
光に満ちていた日々と、失われつつある今。
けれど。
ベアトリス様は、変わってなどいなかった。
いつだって、優しさで包み込んでくれていたのに。
私は、バカだ。
何を見ていたんだろう。
「……アーサーさん、ありがとうございます」
あの光は、過去に消えつつある。
けれど、彼女はいま、ここにいる。
なら、私は──。
「私は、私にできることをします。ベアトリス様のために」
アーサーは口の端を少しだけ緩めた。
「そういう顔の方が、ベアトリスも安心するんじゃねえのか」
そして、くるりと振り向く。
「それと、相棒にも心配かけさせるなよ」
アーサーが顔を向けた方向を見ると、柱の陰にセリーナの姿があった。
もしかして、アーサーが声をかけてきたのは……。
ミレーヌは、肩をすくめて、思わず笑った。
(やっぱりバカね、私。セリーナは見てくれていたのに)
ふと振り返ると、アーサーはいつの間にかミレーヌの横をすり抜け、廊下の先を歩いていた。
そして、確かに聞こえた。
「……信じろよ。心の 灯を」──その声が。
アーサーはひらひらと手を振り、廊下の先に消えていった。
***
「……で、次はどうするか、ね」
ミレーヌの声が小さく響く。
小さな部屋にアリサ、リュシアン、ミレーヌ、セリーナ。
調査班の四人だけが集まり、打ち合わせを行っていた。
(なんだろう、ミレーヌ先輩……)
アリサはふと、違和感を覚えていた。だが、それは不快なものではなかった。
うまく言葉にできない。けれど、ミレーヌの気配がどこか穏やかになっている。
落ち着いている、と言い換えてもいいかもしれない。
ちらりとリュシアンに目をやると、彼も何かを感じ取っているような気がした。
王国の現実を知った四人だったが、それについては誰も口に出さなかった。
言葉にすれば、それは悲嘆へと変わってしまう。誰もが、その不安を抱えていたのだ。
(いまは、前を向かないと)
ミレーヌは話を続けた。
「まあ、闇雲に歩き回っていても意味はないわ。何か情報が欲しいわね」
(情報……)
アリサはそっと懐に手を入れていた。
そして、静かに口を開く。
「あの、いいですか?」
ミレーヌは一瞬、複雑な表情を浮かべた。ほんのわずかに、影が差したように見えた。
だが、気のせいだったのかもしれない。
「どうしたの?」
「えと、覚えていますか? 教会で会った、レイラさん。記者の方」
「ああ、あの何か軽そうな」
「もしかしたら、何か情報があるかもしれないな……って」
ミレーヌは眉をひそめ、頼るようにセリーナの方へ目を向ける。
「どう思う? 私は、あの人なんかうさんくさい感じしたのよね」
セリーナもわずかに頷いた。
「確かに、ひと癖ありそうね……」
一拍置き、眼鏡にそっと触れる。
「でも……」と言葉を継いだ。
「職業上、表には出てこない情報に触れている可能性はありえるわ」
「意外ね。すぐに反対すると思ったのに」
「あなたの言う通り、闇雲に探っていても仕方ないわ。そう思っただけ。でも、あの名刺はクラリス教官が捨ててしまったし、どこにいるか分からないんじゃない?」
アリサは、おずおずと懐から名刺を取り出す。
「あの……私、貰っていて。あの後、レイラさんに声をかけられて……それで、その……」
ミレーヌは呆れたような顔になる。
「あなたまさか変なこと喋ってないわよね?」
アリサはギクリとした。
咄嗟に笑顔を作ったが、どう見てもあやしい。
「え? いや変なことなんて全然! ちょっと世間話を少しです。えへへ……」
必死に取り繕った。
(義賊についてどう思うか、聞かれて思わず答えちゃったけど……やっぱりダメだったよね)
明らかに焦りが滲んでいるアリサを、ミレーヌはじっと見つめる。
静かな沈黙が数秒流れた。
そこへ、リュシアンが柔らかく声を挟んだ。
「まあまあ、ミレーヌさん。アリサさんはおかしなことを喋ったりしませんよ。ね?」
そう言いながら、さりげなくアリサに目配せする。
「は、はい。おかしなことなんて、少しもありませんよ。レイラさん、話してみると良い人だったし」
ミレーヌはまだ釈然としない様子だったが、追及の手は止めた。
「良い人、ね……まあ、いいわ」
わずかに怪訝そうな表情だが、それ以上は言わなかった。
アリサは小さく息を整えて、心を落ちつかせた。
(ありがとう、リュシアン)
「セリーナの言う通り、可能性に当たってみるのも悪くないかもね。行ってみましょう」
こうして、アリサたち調査班は、新たな行動に踏み出した。




