第16話 正義のカタチ
調査班は、クラリスの指示のもと、黙々と炊き出しの手伝いをしていた。
テーブルに器を並べる者、スープをよそう者、後片づけに回る者。それぞれが動きながらも、言葉は少なかった。 最初こそ「なんで私がこんな……」とぼやいていたミレーヌも、今は真剣な表情で器を整えている。
蒸気の立ちのぼる鍋の向こう、アリサはスープをよそっていたクラリスに、ふと視線を送った。
その瞳には、ためらいの色がある。 けれど、一拍の迷いの後、アリサは思い切って声をかけた。
「クラリス教官……ちょっと、いいですか?」
おたまの動きを止めたクラリスが、静かに顔を上げた。
「どうした?」
アリサは両手をぎゅっと胸元で組みながら、少し息を整えた。
「実は……前に、契約労働者の少年に会ったんです。名前はセロっていって、すごくいい子で……お腹がすいていて……」
語るうちに、言葉が自然と熱を帯びていく。 アリサの頬はわずかに紅潮していた。
「私……あの子に何もしてあげられなくて。でも、やっぱり何かしてあげたくて、その……」
話を聞き終えたクラリスは、ひとつ頷いた。
「なんだ、そんなことがあったのか……」
そして、ふっと目元を緩めて微笑んだ。
「──お前らしいな」
おたまを鍋に戻すと、クラリスは静かに言った。
「その子に、ここへ来て私の名前を出せと言っておいてくれ。そう言っておけば、教会の者たちが食事を用意するはずだ。……ちゃんと、伝えてくれ」
その言葉に、アリサの目がぱっと見開かれた。
「本当に……!? ありがとうございますっ!」
思わず頭を下げたアリサに、クラリスは肩をすくめながら背を向けた。
「礼などいらん。さっきも言った通り、これが私の騎士としてのありかただ」
スープの香りが、湯気とともにふたたびあたりに広がっていった。
***
アリサは、教会のテーブルで給仕を続けていた。
湯気の立ちのぼるスープを器に注ぎ、一人ひとりに丁寧に手渡していく。
「どうぞ。熱いので、気をつけてくださいね」
それだけの言葉。それだけの所作。
だが、その声色にはどこかやわらかく、ぬくもりがあった。
器を受け取った男が、不意に立ち止まる。
「……ありがとう、嬢ちゃん」
かすれた声だった。
もう何度も“感謝”という言葉を忘れていたような、それでも確かに胸の奥から絞り出した一言だった。
別の男が、器を受け取ってふと目を細める。
「……その笑顔、故郷に残してきた妹を思い出すよ」
アリサは一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに笑顔で「そうですか」と返す。
そのやりとりを、少し離れた場所でリュシアンは静かに見つめていた。
アリサのまわりだけが、ほんのりと光を帯びた空間のように思えた。
何かが、違う。彼女には──何かが、宿っている。
(やっぱり……アリサさんは)
確信めいた思いが、リュシアンの胸に芽を出しかけていた。
一方で、セリーナとミレーヌは周囲の契約労働者にそれぞれ声をかけていた。
だが──
「いや、よく分からないですね」
「べつに何も知りませんよ」
──返ってくるのは、無表情とわずかな戸惑いだけ。
警戒心は根強く残っていた。ミレーヌは落胆する。
「……聞き込みは空振りね」
彼女たちの言葉には理がある。だが、今この場で、心を開かれていたのは──誰よりも、アリサだった。
どこか人を惹きつける“灯”が、確かにあった。
アリサは、並ぶ人々へスープを手渡しながら、ふと視線の先に目を留めた。
やせた青年が、受け取ったパンを手にしながら、小さな子どもにそっと分け与えていた。
子どもはまだ10歳にも満たないだろう。礼も言わずにパンにかじりついている。
その様子を見て、アリサは思わず声をかけた。
「……優しいんですね」
青年は、パンを裂いた手を見下ろしながら小さく笑った。
「いや……僕も昔、いつもお腹を空かせてたから。ほら、こういう子、放っておけなくて……」
目を伏せる彼の表情には、どこか痛みがにじんでいた。
「まだ、あんなに小さいのに……契約労働者だなんて、な」
その一言が、アリサの胸に突き刺さった。
セロのことが、脳裏をよぎる。
胸が、きゅっと締めつけられる。
けれど、それ以上に返せる言葉は、今のアリサには見つからなかった。
そんな沈黙をやさしく破るように、ひときわはっきりした声が響く。
「おい、ライネル」
クラリスだった。
大鍋の前から歩み寄ってきた彼女は、器になみなみと注がれたスープを青年に差し出す。
「貴様も腹いっぱい食え。まったく……そんなんじゃ、自分が倒れるぞ」
口調はいつも通りだったが、目元にはどこか母性にも似たやさしさが滲んでいた。
ライネルは一瞬きょとんとし、それから照れくさそうに頭をかいた。
「……ありがとう、クラリスさん」
そのやりとりを眺めながら、アリサは胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。
(なんだか……いいな、こういうの)
困っている誰かに手を差し伸べることが、特別なことじゃなくて、ごく自然に交わされるやりとりとしてそこにある。
まるで、ささやかな光が灯ったような場面に、アリサは思わず、そっと微笑んでいた。
***
やがて、炊き出しの列が途切れ、現場には緩やかな余韻だけが残った。
器の山と、冷めかけた鍋、洗い場へと運ばれる道具の数々。
セリーナは片づけの段取りを確認し、ミレーヌは最後まで残った労働者に簡単な聞き込みを続けていた。
アリサは、一人で鍋の内側をこすっていた。
湯気が抜けていく鍋の底に、映り込む自分の顔。どこか、ぼんやりしていた。
「アリサさん……で良かったよね?」
不意に、背後から声がかかった。
振り返ると、そこにはレイラが立っていた。
さきほどの快活な笑みではない、少しだけ落ち着いた表情だった。
「ちょっとだけ、お時間いいかな?」
アリサの手が、洗いかけていた鍋の縁で止まった。
***
「そんなに警戒しないで。取材じゃないから」
穏やかな口調だった。
アリサが身構えていたことを、彼女はすぐに察したのだろう。
アリサはわずかに姿勢を直しつつ問い返す。
「……あの、何か御用でしょうか?」
「“御用”ってほどでもないんだけどね」
レイラは洗い場の反対側に腰を下ろし、湯気越しにアリサを見つめた。
「さっき、私が言ったこと覚えてる? 義賊についてどう思うか──って」
アリサはこくりと頷いた。
「記事にするつもりじゃないわ。約束する。……ただ、アリサさんがどう思ってるのか、知りたかっただけ」
レイラの眼差しは真っ直ぐだった。
商売人のような軽さは消え、そこには一人の“聞き手”としての誠実さがあった。
アリサは視線を落とす。
迷いがあった。だが、嘘をつこうとも思わなかった。
「……わかりません」
率直な一言だった。
けれど、そこにこめられた感情は深かった。
「少し前の私だったら……たとえ義賊でも、悪いことをしている人は悪いって、そう思ってました」
手の中の濡れた布巾が、じんわりと体温を奪っていく。
「でも……契約労働者の人たちは、ほんとうに困っていて。自分は皆を守る“騎士”になりたかったのに、結局、何もできていなくて──」
うつむいたままの言葉は、途中で小さく震えた。
「……だから、たとえ間違ってるとしても。もし義賊の人たちが、あの人たちにとって“救い”だとしたら……」
「──その気持ち、今は少し分かるんです」
アリサは顔を上げた。
その目には曇りはなかった。
ただ、まっすぐに。
「……でも、それは私の思う“正義”とは違います。だから……うまく言えないけど」
ひと呼吸置いて、胸の奥から湧き上がる想いを──レイラへ向けて告げた。
「義賊と私は違います。でも……私だって、何とかしたいんです!」
涙がひとしずく。それに気づくこともなく、アリサはレイラの目を見つめていた。
その声はどこまでもまっすぐで、どこか幼さや拙さも含んでいた。
けれど、その奥に宿るものは──誰にも揺らせない、確かな“意志”だった。
その瞬間。
胸の奥に、小さな灯が燃えるような感覚があった。
空気がわずかに震え、見えない何かが波紋のように広がっていく。
レイラの目がふと揺れる。
一拍の沈黙ののち、何かに触れたかのように、そっと目を細めた。
まるで、胸の内で何かを噛みしめるように──。
「……どうしてなのかな、って思ってたけど」
ぽつりと、誰にともなく呟く。
その声音は、さっきまでの軽さとは違っていた。
「あなた──何か違うわ。お姉さん、ちょっと興味が湧いてきちゃったかも」
くすっと笑みをこぼすと、ジャケットから取り出した名刺をアリサに押し付け、くるりと踵を返した。
「困ったことがあったら、声かけて。力になれることがあるかもしれないから」
それだけ言い残し、レイラは背を向けて歩き出す。
残された湯気のなかに、彼女の気配だけが、しばらく漂っていた。




