第14話 鋼の素顔
東区の教会へと足を運ぶと、冷たい外気の中にふわりと広がる良い香りが鼻をくすぐった。
背後に響いていた石畳の足音も、しだいに湯気と人のざわめきにかき消されていく。
敷地内には、くたびれた作業着を着た男女――契約労働者と思しき人々が十数人、列になって木の器を手にしていた。
器の中から立ちのぼる湯気を、誰もが慈しむように見つめている。
「ここですね……なんだろう、この匂い……」
リュシアンが思わず呟いた。
「炊き出し、かしら。……なるほど。これが“慈善活動”なのね」
セリーナが静かに言った。
「じゃあ、さっそく聞き込みですね! あの人に話を聞いてみましょうか!」
そう言って、アリサは手近な一人の給仕のもとへ駆けていく。背を向けて配膳している女性だ。
「ちょっ……ちょっとアリサ! もう少し慎重に……」
ミレーヌが慌てて制止の声を上げたが、アリサはすでに声をかけていた。
「あの、すみません。お話を──」
そこまで言って、アリサの足が止まった。
給仕の女性が振り返ったのだ。腰まである整えられた金髪、しっかりした眉と鋭さを湛えた瞳。
「……え?」
アリサの前に立っていたのはクラリスだった。
「……なんだ? グランフィールか? それに、そっちの連中も……」
アリサは思わず足を止めた。
けれど、それ以上に──言葉が、出てこなかった。
──淡いラベンダー色のフリル付きワンピース。
──肩には白のカーディガン、袖口には小花の刺繍。
──手には木のおたまと、湯気の立つスープ鍋。腰にはフリルエプロン。
そこにいたのは、いつもの鋼の意志と地獄の訓練で知られる「鬼の教官」ではなかった。
まるで、家庭的な“お姉さん”のようだった。
「く、クラリス教官……!?」
アリサの震えるような声が漏れる。
背後のリュシアンたちは完全に硬直していた。
クラリスはきょとんとした表情で一同を見回し、そして自分の格好に気づくと、ほんのり頬を染めた。
「……なんだ。私服くらいあるし。着るときだって、ある」
わずかに声を落としつつ、いつもの調子で眉をしかめる。
「何か文句があるのか?」
その“可愛い”見た目とのミスマッチに、場に妙な沈黙が流れた。
アリサはハッと我に返り、慌てて手を振った。
「い、いえっ! その……! クラリス教官も女の子? ですから! その、すっごく似合ってて……! す、素敵です!」
後ろから、ミレーヌの「やめときなさいよ……」という視線が飛んできたが、動揺しているアリサには届かなかった。
***
アリサはしばらく頬を紅潮させたまま、スープの湯気越しに立つクラリスを見つめていた。だが、ふと我に返ると小さく首を傾げる。
「それで、クラリス教官は……どうしてここに?」
アリサの問いに、クラリスはおたまを鍋に戻し、わずかに目を伏せてから、ゆっくりと息を吐いた。
「ああ……目の前で困っている民を救うのが、私の──騎士としての務めだ。
剣を取るときも、そうでないときも。……自分にできることは、きっとあると思った」
その言葉には、静かに滲むような“覚悟”が宿っていた。
しばし、鍋の湯気だけが間を満たす。
そしてクラリスは、まっすぐにアリサを見つめる。
「──お前が、思い出させてくれたんだ」
アリサははっと息を呑み、目を見開いた。
その視線がまっすぐにクラリスのものと重なる。
やがて、こくりと小さく──けれど力強く、頷く。
ミレーヌは黙ってその様子を見ていた。
(……また、あの子が)
胸の奥でそう呟いた彼女の眼差しには、言葉にならない感情が揺れていた。
それは羨望か、焦りか、それとも──名もなき痛みか。
ミレーヌの指先が、そっと拳を作ってはほどけた。
一方、アリサはミレーヌの視線には気づかず、クラリスの言葉にじんわりと胸を熱くしていた。
ふと、セロの顔が浮かぶ。
空腹に耐えながらも、両親に再会する日を信じて、照れくさそうに笑っていた、あの表情。
彼の元を訪れて以来、ずっと心のどこかで思ってきた。
──ほんの少しでも、誰かのためになれたらと。
でも、その“誰か”とは──セロだけだっただろうか?
今、目の前にいる人たち。
街の片隅で、静かに列をなし、湯気を見つめる契約労働者たち。
あの子のように、何かを失い、何かを諦めかけて、それでも生きようとしている人々。
「誰かのために」という想いは、きっとこの場にも、届くのではないか──
そんな思いが、胸の内でそっと芽吹いていた。
「そうなんですか……! 私にも、手伝わせてもらえませんか? 少しでも、できることがあるなら!」
アリサの声は、まっすぐで、にじむようにあたたかかった。
だが──
「アリサさん、任務中です」
セリーナの落ち着いた声が、その熱をそっと包み込むように空気を引き締めた。
彼女にとって、今はベアトリスの命が最優先である。
アリサの想いがわからないわけではない。
だが、だからこそ──感情に流されてはいけない場面もあると、セリーナは知っていた。
アリサはギクリと肩をすくめた。
クラリスは、そんなやりとりに少しだけ眉を寄せ、おたまを鍋の中で揺らしながら問いかけた。
「任務……か? お前たち、一体何の用で来たんだ?」
「あっ、そうでした! えっとですね……」
アリサがようやく任務のことを思い出し、口を開きかけた──そのときだった。
「こんにちはー」
明るく弾むような声が、背後からふわりと届いた。
アリサが振り返ると、そこには見覚えのない若い女性が立っていた。
髪は肩口で軽く揺れる長さに整えられ、跳ねた毛先は風になじむように自然だった。
きりりとした目元に、あけすけな好奇心の光が宿っている。
動きやすそうなパンツスタイルにジャケット。
控えめな装いではあったが、その立ち居振る舞いにはどこか場慣れした余裕が漂っていた。
クラリスはむすっとした声を漏らす。
「……また来たのか」
女性は気にする様子もなく、ジャケットの内ポケットから名刺をすっと取り出した。
「レイラ・セフィアと申します。フリーの記者です」
ひらりと差し出された名刺には、簡潔な文字とシンボルマークが印字されていた。
淡い柑橘の香りがふわりとアリサの鼻孔をくすぐる。
「ほんの少しだけ、お話、伺ってもいいですか?」
にっこりと人懐っこい笑顔だった。




