第13話 笑顔は光のなかに
「ゆっくり食べてね?」
アリサはそっと包んでおいたパンを取り出し、少年の前に差し出した。
少年はうなずくだけで、それを掴むと勢いよく頬張った。
樽のふちに腰かけた小さな体が、むさぼるようにパンにかじりつく。
その勢いに、喉に詰まらせないかと心配になるほどだった。
アリサはその様子を見守りながら、小さく息をついた。
「ねえ……あのお店の人、あなたのお父さん?」
少年はパンを口にしたまま、ふるふると首を振った。
返事はなかったが、それだけで充分だった。
「……そうなんだ」
アリサはひとつ、ゆっくりと瞬きをした。
目の前にいるのは、自分よりもずっと幼い子ども。
けれど、彼が背負っているもののほうが、きっと重たい。
アリサの家は、貴族といってもほんの端の端。
家柄を誇れるほどの立場ではなく、田畑を耕し、鍬や鋤を手にするのが日常だった。
裕福とはいえなかった。だが、食卓の皿を奪い合うような生活ではなかった。
空腹に震え、物を盗む──
そんな極限の選択を、自分は一度だって迫られたことはない。
パンにかじりつく少年を見つめながら、アリサは胸の奥が静かに痛むのを感じていた。
(私よりも、ずっと小さいのに……)
この子の肩の震えは、寒さのせい?
それとも、心の中の何かが揺れているのだろうか。
アリサはそっと膝をつき、少年と同じ目線に降りた。
けれど、何か言おうとしても──言葉が出てこない。
この子を助けたい。
それが騎士の正義だから? それとも、ただの同情?
問いは、胸の奥にそっと沈んでいった。
「──ありがとう」
小さな声に、アリサはふと我に返る。
少年はパンをすっかり平らげていた。
その表情は、ほんの少しだけ柔らいで見える。
アリサの胸の重しが、わずかに溶けた気がした。
意を決して──けれど、少しだけ戸惑いながら、アリサは問いかけた。
「……きみ、名前は?」
少年は、口の端にパンくずをつけたまま、アリサを見つめる。
「セロ……です」
小さな声だったが──どこか確かな強さがあった。
アリサは、その名を心の中で繰り返す。
セロ。
そして、そっと微笑んだ。
言葉を選びながら、ゆっくりと問いかける。
「ここで……働いてるの?」
セロは膝の上で指をいじりながら、こくりと小さく頷いた。
働いているのに、どうしてお腹を空かせているのだろう。
そんな素朴な疑問が、自然に口をついた。
「……じゃあ、お給料は?」
一瞬、セロの指が止まった。
顔を上げずに、ぽつりと答える。
「……ないよ。ごはん……すこしだけ、もらえるの」
アリサは、ギュッと胸が締め付けられた。
同時に、背中に氷を入れたような感覚に襲われる。
ごくり、と喉を鳴らして問いかける。
「いつから……ううん、それは──いつまでなの?」
セロは答えなかった。
ただ、困ったようにうつむき、パンくずを指でつまんだ。
***
アリサとセロのやり取りを、ロイは黙って見つめていた。
あんな小さな子どもが、働かされて──
しかも、給料もなくて、ろくな食事もない?
その事実が、言葉のひとつひとつが、胸にのしかかる。
(……まともじゃねえ。なんなんだよ、いったい)
ふと隣に目を向けると、リュシアンの顔色が青ざめていた。
「……契約労働者」
ぽつりと、低くしぼり出すような声。
「え?」
思わず問い返すロイに、リュシアンは遠くを見るような目で語り出した。
「村の大人たちが……話してるのを、聞いたことがあるんです。
生活が苦しい家が、家族を“契約労働者”として働きに出すって。
残された家族には、少しだけまとまったお金が入って。
でも、その労働条件はひどいって。
逃げられないように、特殊な魔法で契約を結ばされるらしくて……」
ロイは息を呑んだまま、何も言えなかった。
リュシアンは静かに続ける。
「うちも、あまり裕福じゃないんです。
でも、ボクが騎士団の特待生になれたから……。
家族に仕送りできて……それで、今はなんとか──」
その顔からは、表情の色がすっと抜け落ちていた。
***
アリサは、セロの隣でぎゅっと拳を握りしめた。
「……そんなの、間違ってるよ」
契約労働者──
詳しいことは分からない。けれど、そんな理不尽があっていいはずがない。
誰が、こんなひどいことを?
あのお店のおじさん?
それとも、セロをここに縛りつけている“もっと悪い誰か”がいるの?
こんなとき、物語なら“敵” が誰かを教えてくれるのに。
でも……分かったところで、何ができるだろう。
騎士団に入ったばかりの新兵──きっと今の自分は、何ひとつ変えられない。
アリサは、自分の非力さに、うなだれた。
ただ、それしかできなかった。
沈黙が落ちる。
ロイは、目を伏せたまま。
リュシアンは、表情をなくし視線を泳がせていた。
「私には、どうすることも……」
アリサの声はかすれ、宙に漂った。
無力感が肩に重くのしかかり、今にも崩れそうだった。
だが、そのとき──
静かな、けれど澄んだ声が耳に届いた。
「……あったかかったんだ」
「……えっ?」
アリサは驚いて顔を上げる。
セロは目を伏せ、小さな手を膝に置いていた。
「お姉ちゃんが、あのとき……頭をなでてくれたでしょ?」
その肩が、わずかに震える。
「……あのとき、なんか……あったかい気持ちになったんだ」
照れくさそうに言いながらも、その声は真剣だった。
そして、ぽつりぽつりと続ける。
「お母さんとお父さんの顔を、思い出したんだ。
……ぼくが最後に見たときは、ふたりとも泣いてた。でもね──」
彼は伏せていた目を、そっとアリサの視線に重ねた。
「頭をなでてもらったとき、笑ってたときの顔が見えたんだ」
目元には涙の跡。
それでも、その瞳には小さな光が宿っていた。
アリサは胸を衝かれたように言葉を失う。
握りしめていた拳が、すうっと開いていく。
セロは、しっかりとした声で言った。
「だから、いつになるか分からないけど。
いつかまた、お母さんとお父さんに会いたいから……」
ひと呼吸おいて、まっすぐに。
「お腹すいても、もう盗んだりしないようにしようって。そう思ったんだ」
アリサは、何も言わなかった。
ただ静かに、何度も頷いた。
そして思い出す。アーサーの言葉。
──お前がその“可哀想なガキ”に向き合うのが恐かっただけだろう。
……そうだ。
私は無力で、何もできない。
でも──それを言い訳にして、また背を向けようとしていた。
セロは、たったひとりで、つらい現実に立ち向かっていた。
希望を信じて、あきらめずに。
その姿が、言葉が、瞳の光が、私に勇気をくれる。
私はもう逃げない。
いつか“本当の正義の騎士”になるんだ。
そして、アリサはセロの小さな体をそっと抱きしめた。
***
そのとき──
リュシアンは、ふとした気配に、胸の奥から抜け落ちかけていた感情を呼び戻された。
風がそっと木の葉を撫で、淡い光が揺蕩うように空間を満たしていく。
それは、ただの風ではなかった。
ただの光でもなかった。
目には見えないはずの“何か”が、そこに“在る”──そんな確かな感覚。
……精霊だ。
彼が精霊とふれあうときに感じる、あの気配。
それが今、アリサに寄り添っている。
(この感じ……間違いない。でも、どうして?)
見ると、アリサの内に揺らめく“炎”──
不可視のそれが、やわらかな波動となってセロの胸へと流れ込み、そっと、小さな灯をともしていた。
それは、共鳴。
彼女の心が迷いながらも前を向こうとする、その在り方──
“価値”あるものを、見つめる精霊のまなざしだった。
風が音もなく流れ、ひとひらの光がアリサの髪にそっと触れる。
ロイも、気づいていた。
だが、何も言わなかった。ただ静かに、その場に満ちた“何か”を受け止めていた。
そしてアリサは──
ただひたすら、優しく、セロを抱きしめ続けていた。




