第12話 少年
あれからアーサーは、あの少年の件には一切触れてこなかった。
いつものように気だるげな様子で、冗談まじりにアリサたちを指導し──まるで、何事もなかったかのように振る舞っている。
けれど。
アリサの胸の奥には、あの日の記憶が今も澱のように沈んでいた。
***
朝の食堂は、パンとスープの香りで満ちていた。
テーブルの前で、アリサはじっと手を動かさずにいた。
焼きたての丸パンがひとつ、白い皿の上にぽつんと残されている。
──そんなアリサに、向かいの席から声がかかる。
「食べないの? いつもならおかわりまでしてるのに」
ロイが椅子を引き、腰を下ろす。
怪訝そうに眉をひそめた彼の視線に、アリサは慌てて顔を上げた。
「え? ……あ、ちょっと最近、体重が気になってて……」
とっさにそう答えるものの、視線は泳ぎがちで、どこか歯切れが悪い。
「このパン、お昼にまわそうかな〜って。えへへ」
ぎこちない笑み。
ロイは内心でため息をついた。
──ごまかしが下手すぎる。
こういう顔をしているときは、きっと例の子の件だ。
だが、表情には出さず言葉を返す。
「……ふうん。そんなこと気にするんだ」
さらっと流しつつ、一拍置いて探るように尋ねる。
「なあ、今日は非番だろ。何か予定あるの?」
その一言に、アリサの肩がぴくりと跳ねた。
……図星。
ロイは笑いを噛み殺すのに必死だった。
「え? え? ……うーん、いつも忙しいし……」
アリサはどこか落ち着きなく言い訳を探し、手元をもじもじとさせていた。
「そう! 今日は、寝てようかな。うん」
──いつもは非番の日も、じっとしてないくせに。
「なんだよそれ、若くねーな」
軽口を叩けば、アリサはむっとした顔をこちらに向けた。
「ちょっと、さっきから失礼じゃない? これでも年頃なんだからね?」
「ああ、悪い悪い。そうだよな、お年頃だもんな」
苦笑しながら手をひらひらさせるロイ。
アリサはまだ何か言いたげだったが、口をつぐみ、スッと立ち上がった。
「それじゃ。ごちそうさま」
トレイを手にして、そのまま早足で去っていく。
──なんて、わかりやすいんだろう。
そんなふたりの様子を、少し離れた席でリュシアンが静かに見守っていた。
ふと、目線がロイと合う。
にやりと笑うロイ。
そのイタズラっぽい顔に、リュシアンも思わず苦笑いを返していた。
***
数刻後。
騎士団本部──正門前。
アリサは人気のない時間を見計らい、そっと門を抜けようとしていた。
着ているのは、騎士団の制服ではなく普段着。手さげのバッグを持っている。
──いまなら、誰にも気づかれずに出られる。
そう思った、そのときだった。
「アリサさん」
背後から、聞き慣れた柔らかな声がした。
驚いて振り返ると、そこにはリュシアンが立っていた。
白いシャツに青の上着。彼もまた非番らしいラフな装いだ。
「お出かけ、ですか?」
にこやかに問いかけるリュシアンに、アリサは思わず手に持っていたバッグを背中に隠した。
「え……うん、ちょっとだけ。街に行ってみようかなー、なんて」
曖昧にごまかす言葉。 けれど──
「例の子を、探しに?」
間髪を入れず、核心を突いたひと言。
アリサの表情が、わずかに引きつる。
リュシアンはそれを見て、小さく微笑み、ふぅとため息をついた。
「非番の日は帯剣してませんよね。
裏通りなんかは、けっこう危ないですよ。最近、事件も増えてますし」
やさしく告げられたその言葉に、責めるような色はなかった。
ただ、彼女の無鉄砲さを案じる、真っ直ぐなまなざしがあった。
アリサは、言葉を詰まらせながら、それでも胸の内を吐き出す。
「……それは分かってるけど。でも……どうしても、気になるの。
お願い、誰にも言わないで。特に、アーサーさんには──」
──中途半端な同情で、野良猫に餌でもやるつもりか?
きっと、そんな言葉が返ってくるに違いない。
それでも──目を背けることなんて、できなかった。
うつむくアリサの前に、そっと小さな包みが差し出される。
「僕も行きますよ。それと──」
リュシアンの視線を追うと、門柱の陰からロイが手を振っていた。
「ひとりで何とかしようとすんなよな」
その言葉に、アリサの顔がほころぶ。
どこか照れくさい笑みがにじんでいた。
三人は顔を見合わせ、それぞれに小さく頷く。
そして、朝の街へと歩き出した──。
***
商店街には、多くの人々が行き交っていた。
露店の呼び込み、焼き菓子の甘い香り、子どもたちのはしゃぐ声──
賑やかな風景に包まれていると、あの日の出来事が幻だったかのように思えてしまう。
だが、アリサの目は真剣だった。
路地の隅々まで視線を走らせながら、彼女は一歩一歩、確かめるように歩く。
ロイがため息まじりにもらす。
「やっぱり、難しいな」
この人ごみの中から、あの少年を見つけ出すのは容易ではない。
分かってはいた。それでもアリサは、諦められなかった。
(また、どこかでお腹を空かせてるかもしれない……)
痩せた体と、不安げな目元を思い出すたび、胸が痛んだ。
リュシアンが通りの先を指差した。
「もう少し、あっちの方も見てみましょうか?」
アリサが頷こうとした、そのときだった。
視界の端に、ふと見覚えのある姿が映る。
三つ編みを揺らし、本を小脇に抱えながら書店の前を歩いていたのは──
セリーナだった。
落ち着いた色合いのブラウスにスカート。
制服とはまた違う、知的で品のある私服姿。
だが。
そんな感想は一瞬で消え、アリサは焦った。
(……どうしよう。見つかったら、何て言おう)
うまく言い訳できる自信はなかった。
けれど、戸惑う間もなく──セリーナの視線がこちらに向く。
「あら……?」
反射的に背筋を伸ばし、アリサは声を上げた。
「セリーナ先輩っ! お疲れさまです!」
「アリサさん、今日は非番なのね。奇遇ね、私もよ」
穏やかな微笑みとともに返された言葉に、思わずほっとしかける。
──だが。
セリーナの視線が、わずかに横へずれ、リュシアンを捉えた。
眼鏡が、キラリと光る。
たちまち空気が変わる。アリサと向き合う空間に、目に見えぬ圧が生まれた。
「は、はい……」
なぜか緊張する。
セリーナの微笑みは変わらないのに、何かを探られているような感覚があった。
(セリーナ先輩……あの子のことは知らないはずなのに。
なんだろう、この雰囲気……)
アリサはぎこちなく笑みを浮かべたまま、耐える。
その横で、リュシアンが気づかぬまま声をかける。
「その本……『星と幻獣の物語』ですよね? 新刊、出てたんだ」
「あら。知っているの?」
──圧が消えた。
「はい。村の教会に一巻だけあって、姉さんと一緒に何度も読んでました。
懐かしいなあ……」
リュシアンが、ほんのり微笑んで呟いた。
セリーナは小さく息を飲み、静かに問う。
「……お姉さん?」
「はい。もう、いないんですけど」
ふっと憂いの表情を浮かべ俯く。
その様子に、セリーナの手元がわずかに震えた。
ほんの一瞬──呼吸のリズムも乱れたように見えた。
「そう……なのね」
かすれるように吐き出された声には、確かな温度が宿っていた。
そして少し間を置いてから、セリーナはそっと視線を向ける。
「よかったら……今度、貸してあげましょうか」
「え?」
「私、全巻持っているの。
大事にしてる本だけど……読んでもらえるなら、嬉しいわ」
リュシアンの顔が、ぱあっと明るくなる。
「本当ですかっ!? ありがとうございます!」
そして、ずいっと距離を詰めて天使の笑顔。
セリーナはそのまなざしに耐えきれず、反射的に目を伏せた。
眼鏡の端が、わずかにずれる。
「ええ……また今度、ね」
眼鏡を押さえながら、セリーナは小さく息を整え、踵を返した。
そして早足で、通りの向こうへと消えていく。
その背が消えていくのを、アリサはそっと見送った。
そして、朗らかな声でリュシアンに微笑みかける。
「よかったね、リュシアン」
リュシアンも、ゆっくり頷いた。
「はい。セリーナさんって、もっと厳しい人なのかと思ってましたけど……。
優しいんですね」
「うん、そうだよ」
アリサはぱっと明るい表情になって、力強く言葉を重ねる。
「セリーナ先輩はね、優しいよ。
リュシアンのことも、“すごく才能がある”って、褒めてたし」
そのやりとりを聞いていたロイが、あきれたように肩をすくめて、ぽつりとこぼす。
「お前ら、ほんと、のんきだな」
「えっ?」
「なにがですか?」
きょとんとした表情で振り向く二人に、ロイは何も言わず、ただ苦笑いを浮かべた。
***
ふたたび少年を探そうと歩き出したそのとき──
アリサの耳に、かすかな怒鳴り声が届いた。
「……遅いんだよ。チンタラしてんじゃないぞ!」
通りの先。
商店の前で、年配の男が、子供に袋を押しつけながら怒鳴っていた。
──あの子だ。
アリサの胸が、ドクンと音を立てる。
思わず駆け寄ろうとしたそのとき──
ふいに腕が伸びてきて、アリサの動きをそっと制した。
ロイだった。
「もう少し様子を見ようぜ。
いま飛び出してって“騎士団の者です”なんて言ったら、あのおじさん、びっくりするだろ」
一瞬、戸惑うアリサだったが……こくりと首を振る。
やがて男が店内へと引っ込むと、少年は袋を抱え、そっと通りを歩き出した。
アリサは静かに歩を進め、その背に向かって、やわらかく声をかける。
「ねえ、きみ……あのときの──」
少年が、ぴたりと足を止める。
ゆっくりと振り返ったその顔に、アリサは確かに見覚えがあった。
「……お姉ちゃん」
かすかに、ほんのかすかに──
その口元が、緩んだ気がした。




