第11話 正義の重さ
フレッドは手元の書類を静かに伏せた。指先が一度だけ紙の端を撫で、そのまま視線を窓の外へ向ける。
傾きかけた陽が石畳に長い影を落としていた。
「なるほど……やっぱり、アリサくんの様子がおかしいと思ったよ」
穏やかな口調だが、芯のある声だった。
その言葉にアーサーは肩をすくめる。椅子の脚がわずかに軋んだ。
アリサとのやり取りの後、小隊の控え室に戻ったアーサーを待っていたのは、フレッドとカインのふたりだった。
──何かあったな?
そう無言で問いかける視線に、長年の付き合いから観念する。黙っていても無駄だと悟った。
「ちっ。勘がいいな……って、あいつは顔に出すぎなんだよな。
おい、アリサのこと、上に言うなよ」
軽く牽制するように言うと、フレッドは静かに頷いた。
組んでいた腕を解き、背もたれにゆったりと体を預ける。
「分かってる。大ごとにするつもりはないさ。
ただ、アーサー。きみならどうしてた?」
その問いかけに、アーサーはわずかに眉をひそめる。
──優しい顔して、そういう意地の悪い質問するんだよな、お前は。
言葉に詰まるが、叱った手前、逃げるわけにもいかない。
数秒の沈黙。
やがてアーサーは視線を伏せ、ぼそりと漏らした。
「あのガキ、浮浪児か契約労働者だろうな。
痩せててボロ着……もし契約労働者なら、捕まったら──」
そこまで言って、ふう、とため息を吐いた。
「……労働で借金返してるんだ。契約不履行なら、即返金。
多少の分別がありゃ犯罪なんてしないんだが……ガキで空腹じゃあな」
そして、やけにあっけらかんとした口調で言い放つ。
「まあ、見逃すかな。俺も、やっぱ」
フレッドは呆れたように、しかしどこか諦めを含んだ声で返す。
「その言葉は、くれぐれもこの場だけにしておいてくれ。
……それに、きみも同じなら、アリサくんにずいぶん厳しいじゃないか」
アーサーは悪びれた様子もなく、平然と応じた。
「俺は分かっててやるから、いいんだよ。
けどアリサのは──ただ可哀想って気持ちだけだ。そんなもんじゃ、すぐ潰れる」
「きみのだって、良くはないだろう……」
フレッドは苦笑めかして呟いたが、それ以上の言葉は口にしなかった。
そのとき、部屋の隅で黙って聞いていたカインが、ふと顔を上げた。
薄暗がりに沈んでいたその瞳が、わずかに光を帯びる。
「……契約労働者か。子供まで。多いな」
誰にともなくこぼされたその一言が、静かに床に落ちる。
アーサーは皮肉な笑みを浮かべ、肩を揺らす。
「規制緩和だとさ。綺麗事並べりゃ聞こえはいいが、実態は使い潰しの奴隷と同じだ。
……で、それに便乗して肥えてるのが、ヴァルトみたいな連中ってわけだ」
その名前が出た瞬間、フレッドの眉がわずかに動いた。
「ヴァルト……」
繰り返す声には、警戒と不快が滲んでいた。
「最近、騎士団にも顔を出してるらしい。何を企んでいるのか」
アーサーは少し意外そうな顔をした。
「お前なら、何か掴んでると思ってたけどな」
そう返すと、フレッドは軽く首を横に振って答える。
「いや……ガーランド団長が何か動いてるって噂があるくらいだ。
本人の動きまでは掴めていない」
アーサーは面白くもなさそうな笑みを浮かべた。
「へぇ。政商にゴマすりとは、ご立派な騎士様だな」
棘を含んだ言葉だった。
だが、フレッドは真正面からその言葉を受け止め、小さく目を細める。
「……アーサー」
その名を静かに呼び、少し間を置いてから続ける。
「騎士団は、王都の“治安維持機構”なんだ」
「それがどうした」
挑むような口調に、フレッドは構わず淡々と重ねる。
「つまり、騎士団の正義というのは──“国家秩序の守護”だ。
……そういう仕組みで、僕たちは動いている」
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気がわずかに軋んだ。
見えない何かが、場の温度を変えていく。
しばしの沈黙。
やがて、カインが低く呟く。
「……その秩序は、誰のためのものなんだ?」
誰も応えなかった。
その問いは、あまりにも静かで、鋭かった。
「正義の騎士、か……」
アーサーが天井を見上げる。
その視線は、どこか遠くを見ていた。
「アリサも、これから大変だな」
***
アリサは、アーサーが去ったあとも、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥に渦巻くのは、答えの出ない問いばかりだった。
──私は、あれでよかったのだろうか。
そんな迷いが、じわじわと心を締めつけていた。
「アリサさん!」
背後から声がして、アリサはふと振り返る。
リュシアンが駆け寄ってきた。
「巡回、お疲れ様でした……え、ちょっと?」
その顔が曇っていることに、すぐ気づいた。
瞳が、わずかに潤んでいた。
リュシアンは慌ててアリサの手をとる。
「アリサさん……場所を変えましょう。ね?」
無理に問いただすことはせず、彼女を中庭のベンチへと連れていく。
やわらかな夕日と、涼しい風がそこにはあった。
しばらくの沈黙のあと、アリサはぽつりぽつりと、今日あったことを話しはじめた。
リュシアンは隣に並び、静かに耳を傾ける。
途中で何度か相槌を打ち、最後まで聞き終えると、そっと頷いた。
「……そうだったんですか」
アーサーの物言いは、たしかにきつい。
だが、間違ってはいない。
きっとアリサがこのまま誰にも相談せず、ひとりで抱えていれば、もっと大きな傷になったかもしれない。
──それを避けようとしたのだろう。そう思えた。
(アーサーさんらしい……)
リュシアンは心の中でそうつぶやく。
だが、言いたいことだけ言って後は放置、というやり方には、少しだけ呆れもしていた。
──自分で考えろ。
そういうことなのだろうけれど。
そんなリュシアンの思いをよそに、アリサはうつむきながら、小さな声でぽつりとこぼす。
「あの子を見逃したのは、正しかったのかなって……。でも、可哀想で……捕まえるなんてできなくて……」
言葉はだんだんと細くなり、やがて風に溶けていくように消えた。
その問いには、すぐには答えを出せない。
──自分だって、もしその場にいたら。
リュシアンは、ほんの少しだけ考えてから、ふっと微笑んだ。
「……アリサさんの、そういうところ。ほんと、姉さんに似てます」
ふいにこぼれた言葉。
やわらかな光を宿したその瞳は、どこか遠い記憶を見つめていた。
「騎士には、ときには厳しい決断も必要だと思います。
でも、正しさって……人の痛みに目を向けることを忘れないこと──それが、一番大切なことなんじゃないですか」
リュシアンの瞳が、そっとアリサの視線に重なる。
「僕は……アリサさんには、強いだけじゃなくて、優しい騎士でいてほしいです」
それは、慰めではなかった。
まっすぐな──心からの言葉だった。
アリサははっとしてリュシアンを見上げた。
そして、わずかに目を潤ませながら──それでも、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとう、リュシアン」
──そのとき。
「……そういうことか」
背後から、聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、ロイが手を頭の後ろで組みながら、二人を見下ろしていた。
「なんか、あれから様子がおかしいと思ってたんだよな。やっぱりな」
アリサの目に動揺が走る。
「えっ? 私、そんなに変だった?」
焦って身を乗り出すと、ロイは苦笑して肩をすくめた。
「バレバレだっての」
そう言って、ベンチの背にもたれかかる。
「でも、まあ……オレでもそうしたかもな。
アーサーさん、良いこと言うよ。
子供がお腹をすかせてるなんて、国の方が悪いってさ」
その言葉に、アリサは静かに頷いた。
だが──
ロイも、アリサも、このときはまだ知らなかった。
“国”という言葉が、どれほど重く、複雑な意味を持つのかを。
もちろん、リュシアンも。
西の空が、朱に染まっていく。
通り過ぎる風が、夕暮れの匂いを運んでいた。
三人の影が、ゆっくりと──ひとつに重なっていく。




