第15話 残照
ミレーヌとセリーナ……。
盗賊団討伐にかかわるキーキャラクターのふたり。
このふたりは直接的に討伐の状況を左右するわけではない。
表シナリオでは単なるベアトリスの腰巾着コンビ。
しかし、裏シナリオでアリサの足枷となる。
もしもミレーヌまたはセリーナルートに突入してくれていたら、破滅エンド回避の目もあるのだ。
特にミレーヌ。
裏ルートだとヤンデレ化して、アリサと『私のベアトリスお姉様』を巡る殺意交じりの心理戦。ドロドロの三角関係。
攻略? 何それ? 画面は常に修羅場。陰湿な女の戦い……。
セリーナ裏ルートもなかなかの破壊力だ。
アリサが文学少女に覚醒して、戦闘能力がごっそり削られる。
“読書と紅茶と語らい”の日々。ほのぼの仲良し姉妹。
牙を抜かれたアリサは実質バッドエンド直行だ。
可能性は低いだろう。 しかし、ふたりの活躍に期待したい……そう思った。
***
夕陽が静かに差し込む資料室の片隅で、アリサは剣術書を開き、熱心にページをめくっていた。
「えーと……こう来たときは、こう……で、いいのかな?」
思わず漏れた独り言。と、背後から穏やかな声が届く。
「そこ、静かに。あと、本に折り目はつけないで。基本よ」
はっとして振り返ると、セリーナが数冊の本を抱えて立っていた。
深緑の三つ編みが肩に沿い、薄いレンズの奥の瞳は静かな翠を湛えている。 整った制服に一切の乱れはなく、その姿はまるで文官か秘書官のようだった。
「あっ……す、すみません!」
アリサが慌てて頭を下げると、セリーナは小さくため息をつき──それから、ふと表情を和らげた。
「熱心なのは良いことだけど……本は、静かなほうがよく語りかけてくれるのよ」
差し出されたのは、初心者向けの教本だった。
「あなたが読んでいる本……それは少し早いわ。まずは基礎を固めてから。返却期限は守ってね」
「はいっ、ありがとうございますっ!」
するとセリーナは、もう一冊の小ぶりな布装丁の本をそっと差し出した。
「それと……これも。気が向いたら、読んでみて」
アリサがページをめくると、あらすじにはこう記されていた。
──王都の小さな薬草店に、雨の日だけ現れる青年。
言葉少なな彼と少女の間に、傘を挟んだ会話が少しずつ芽吹いていく。
名前も知らないまま、季節が巡る。
何度目の雨で、少女は彼の名を知るだろうか──
アリサは、ベアトリスに付き従う静かなセリーナの姿しか知らなかったが、新たな一面を見た。
(本が、好きなんだ……)
アリサの母も静かな人で、本をよく読んでいた。
「似てないね」と、友達によくからかわれたのを思い出す。
ふと、懐かしい気持ちになった。
「セリーナさんって、こういうのが好きなんですか?」
その問いに、セリーナはほんのわずかに目を伏せて、静かに頷いた。
「技術だけを磨いても、心が置いていかれたら意味がないわ。……ときどき、こういう本を読むのも悪くないのよ」
アリサが子供の頃に夢中になって読んでいたのは、女性騎士の物語だった。
正義を貫き、剣と拳で悪を討つその姿に、憧れを抱いた。
血と汗と涙、勇気と努力と勝利。
──それが、アリサが騎士という道を選んだ原点だった。
(こういう本は読んだことないけど、なんだか素敵かも)
アリサがしばらくページに目を落としていると、セリーナは話題を変えるように問いかけた。
「ねえ、あなたの小隊にいる……特待生の彼。最近はどうかしら?」
「え? リュシアンですか?」
意外な名前に、思わず聞き返してしまう。
「ええ。よくこの資料室に来て、精霊関連の書を熱心に読んでいたのだけれど……最近はあまり見かけなくて。新しい資料も入ったから、伝えてくれると助かるわ」
その口ぶりはあくまで事務的だったが、リュシアンの名を出したときの目は──どこか、宝物に触れるような柔らかさを帯びていた。
アリサは、少しだけ驚いた。 厳しい人だと思っていたけれど……本当は、こんなふうに優しい目もするのだ。
「わかりました! セリーナさんが気にしてたって、伝えておきますね!」
アリサの明るい返答に、セリーナは小さく目を伏せた。
「……べつに“特別”に気にしているわけじゃないわ。ただ、魔法適正のある騎士は貴重だから。それだけのことよ」
“特別に”の語気だけを、少しだけ強調して。 そうして、彼女は静かに眼鏡を押し上げた。
そして、ふと思い出したように言った。
「そういえば、ごめんなさいね」
「えっ?」
「ミレーヌ。いつもはあそこまで感情的になることはないのだけれど」
アリサは、ベアトリスと初めて出会ったときに浴びた、あの鋭い視線を思い出していた。
「彼女も反省していたみたいだから……許してあげてね」
「そ、そんな。許すだなんて。……私も失礼だったと思うので……全然!」
アリサがあわあわと慌てて手を振ると、セリーナはその様子をじっと見つめた。
(この子に、何かあるようには見えないけれど……。ミレーヌも、ベアトリス様も、どうしたというのかしら)
アリサと出会ってから、ふたりの様子は明らかに変わっていた。 その違和感に気づいてはいたが、その“理由”がつかめない。
こうして言葉を交わしてみても、目の前のアリサは、ごく普通の新兵にしか見えない。 それとも、自分の思い違いなのだろうか。
セリーナの疑問を知る由もなく。
「ありがとうございました。失礼しますっ」
アリサはぺこりと頭を下げると、足音も軽やかに資料室を後にした。
彼女の足音が消えても、セリーナの中に残った“何か”は、しばらくその場に居座り続けていた。
***
資料室を出て、廊下を歩いていたアリサの目に、鮮やかな赤が飛び込んできた。
──ミレーヌだ。
彼女もアリサに気づいたようだったが、口元をわずかに引きつらせ、視線をさまよわせている。
整った顔立ちと華やかな雰囲気はそのままだが、どこか戸惑いの色が滲んでいた。
アリサは、さっきのセリーナの言葉を思い出す。
そして、小さく喉を鳴らすと、意を決して明るく声をかけた。
「こんにちは、ミレーヌさん!」
ミレーヌは「へ?」と、気の抜けたような表情を浮かべたあと──
「あ、えっと……こんにちは」
と、少し遅れて返してきた。
その顔は、以前よりもいくらか柔らかく見えた。
アリサは、新兵たちのあいだで聞いていたミレーヌの噂を思い出していた。
教練では歴代トップの成績。
剣の腕も申し分なく、家柄は王都でも名の知れた名門。
いずれは間違いなく上級騎士になる──そう評される才女。
常にベアトリスに寄り添い、忠実な裏方に徹しているが、その美しさも相まって、彼女自身の人気も高かった。
アリサがそんなことを思っている間に、ミレーヌはちらりと資料室の方向を見やり、アリサの持つ本に視線を移した。
「調べもの?」
「あっ、はい。セリーナさんが貸してくれて……」
その言葉に、ミレーヌは意外そうな顔をした。
「セリーナが? 珍しい……」
どこか言葉をのみこんだような口調。そして、何かを探るような視線。
本は、きっかけに過ぎない。
──そう言いたげな目だった。
だが、アリサには次の話題が見つからない。
気まずさを紛らわせるように愛想笑いを浮かべていると、数秒の沈黙が流れた。
背中に、じわりと汗。
そのときだった。
「ねえ……」
ミレーヌが、不意に声をかけてきた。
「はいっ」
声が少し裏返った。
「あなた。先日、ベアトリス様と、何か話していたようだけど?」
……え?
ミレーヌが何を気にしているのかは分からなかったが、それほど重要な話をした記憶はない。
けれども、ベアトリスが自分のことを見てくれている。
そう思うだけで、アリサの心は天上に昇るようだった。
「あ、はい……その……騎士団の生活には慣れたか、気にかけてくださって」
「……気にかける?」
アリサはこくりと頷く。
ミレーヌは考える。
(やっぱり……単なる新兵をベアトリス様が気にかけるなんておかしい)
──そして、私も。
ミレーヌは言いようのない不安を覚えたが、誤魔化すように言葉を継いだ。
「そ、そう。まあ、ベアトリス様は優しいから……」
ミレーヌが言い終わらないうちに、目の前のアリサがピクリと反応した。
ぱあっと笑顔が広がる。
「はい、騎士は優しさですよね! あの時のベアトリス様の言葉、私すごく感動したんです! それにすっごく、すっごくキレイで良い香りがして……あー、いつも一緒にいるミレーヌさんが羨ましいです」
キラキラと輝く目で食い気味にベアトリスを称えるアリサに、ミレーヌは面食らった。
そして、ふっと表情を和らげる。
「……ベアトリス様の素晴らしさを分かっているみたいね。まあ、当然だけど」
「それに、先日の小隊訓練。なかなか頑張っていたじゃない」
思いがけない言葉に、アリサは驚く。
アーサーに容赦なく滅多打ちにされた覚えしかないのだが。
「見ていてくれたんですか?」
不意にミレーヌは慌てた顔になった。
「え? べ、別にあなたを見てたわけじゃ……たまたま目に入っただけ」
なぜか顔を赤らめて早口になっていた。
きょとんとするアリサに気付き、「んんっ」と咳払いする。
「でも、なかなか根性あったわよ。騎士はあれくらい前向きじゃないとね」
最初は怖いと思っていたミレーヌの、思いもかけない優しさにアリサの頬が緩む。
胸が、じんと暖かくなった。
「えへへ……。うれしいな」
思わず素直な言葉がこぼれ、自然と笑みが広がった。
その様子を見て、ミレーヌは思う。
(……やっぱり、勘違いだったのかもしれない)
この子に、特別な何かがあると思ったのは自分の気のせい。
何をそんなに戸惑っていたのだろう。
軽く首を振り、胸の奥に渦巻いていた不安をそっと振り払う。
そして、何気ない言葉をかけた。
「これからも頑張りなさい。それと、先輩には敬語ね」
アリサはまっすぐにミレーヌの目を見つめた。
胸の内に宿った、あたたかな思いを抱いたまま。
「はいっ、ありがとうございます。ミレーヌ先輩!」
──その瞬間、ミレーヌの瞳が大きく揺れた。
(……いまのは)
気がつくと、アリサは一礼して駆け出していた。
その背中は、傾いた陽に照らされて、柔らかく輝いている。
ミレーヌは、言葉を失ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、そっと胸に手をあてる。
まるでそこに何かが芽生えたかのように。
そして──今にも泣きだしそうな顔で、空を見上げた。
地平の端で、夕陽の名残が静かに光っていた。