曲馬団の少女
女ハードボイルド探偵上条翼シリーズ第4作目です。珍しくさわやかな依頼が舞い込むが、調査するにつれ、驚くべきことが判明していく。
1
上条探偵事務所としては、珍しい、気持ちの良い依頼人による、気持ちの良い依頼だった。
「この女の子が今どうしているのか知りたいのです」
訪れた品の良い老人はブレザー姿の背筋をぴんと伸ばしたまま、1枚の写真を、上条翼に示した。
12歳くらいの男の子と女の子が並んで写っている白黒写真である。男の子はなかなかハンサムで、幼いながらも誠実そうな感じの漂う好少年。その短い半ズボン姿は相当に古いものである。
女の子のほうは、うりざね顔の、やや大人びた美しさを持った子である。少し化粧をしている。白っぽいタイツに、上半身は腰に大きなフリルのついた水着のような服を着ている。そして頭には天使の羽のついたティアラを載せている。背景には波打った幕らしきものが垂れ下がっており、ふたりとも初々しい、恥ずかし気な笑顔で立っている。
「65年前の写真です。男の子は私です」時田実と名乗った老人は続けた。「女の子は、山下ルリ子、山下サーカスという曲馬団で、ルリ姫という名で出演していました」
「65年前ですか」
さすがの翼も少し身構えた声を出した。
「ええ、私は当時小学校5年生でした。相手も同じくらいだったと思います」
「だったと思うとおっしゃられるのは?」
「彼女は学校に行ってなかったのです。当時は学校に実質通わずに働いていた子などがときおりいたのです」
時田氏は次のように説明した。
山下サーカスが、自分の住んでいた街に巡業に来た初日に自分は、父に連れられ、生まれてはじめてサーカスというものを見た。時田氏自身は親にそんなことを言われたことはなかったし、本当のことなのかどうかはあやしいものであったが、自分が子供の時には、言うことを聞かなかったらサーカスに売るぞなどという脅しが、まだ子供に対してときおり使われていた時代でもあった。だから自分もサーカスには暗いイメージを抱いていた。しかし、そんなイメージを吹き飛ばしてくれたのが、山下サーカスの素晴らしい曲芸であり、なかんずく、ルリ姫と呼ばれる綱渡りを披露する女の子なのであった。
「私の初恋でした。もう綱を渡るだけでなく、その上で片足でしゃがんで立ったりと……そんなことが自分と同じ年頃の子供にできるというだけで、もう彼女は輝いていたのですが、何よりその子のかわいらしさときたら! 私は翌々日も、貯金をはたいて、ひとりでサーカスを見に行ったほどです。そしていよいよ彼女のとりことなり、その次の日には、彼女に会いに行ったのです。小学生の分際で、ませたことに、ちょっとした花束など持ってね」
翼はやさしい目でうなずいた。顔面を紅潮させた時田氏は笑いながら、うなじに手をやった。
「いや、赤くなるなんて何年ぶり以来のことでしょうか。そういえば、そのときの彼女もそうでした。真っ赤になって。それでもとても喜んでくれたのです。私のほうも同じで、赤くなりすぎて失神するかと思ったほどでした。それから私たちは友だちになったのです。私は毎日、彼女に会いに行きました。彼女も毎日会ってくれました。サーカスが休みの日には、一緒に遊びにも行きました。
一度、勇気を出して、サーカスの人たちは、あちこちに移動して生活しているから、サーカスの人同士で結婚することが多いのかいと訊いてみました。すると彼女は、そうみたい。でも私、サーカス以外の人と結婚するなら、サーカスをやめてもいいわって答えました。そのときの、うれしさはまさに天にも昇るという表現がぴったりのものでした。うぬぼれと思われるかもしれませんが、互いに幼いながら、彼女も私に友だち以上の好意を持っていたことを私は確信しているのです。
しかし別れの日はすぐに来てしまいました。ルリは手紙を出すことを約束して、サーカスの動物たちと一緒に私の住んでいた街を去り、次の巡業地に向かいました。その後、手紙は一度来ただけで、私が返事を出すと、それは先方の住所なしということで、私のところに戻ってきて、連絡はとれなくなってしまいました。そして、それっきりになってしまったのです」
時田氏は「山下サーカス」の文字でインターネットを検索してもいっさいヒットしない。そんなに大きな曲馬団ではなかったし、もうとうに廃業したということだと思うと語った。
「女の子のお名前、山下ルリ子さんとおっしゃいましたね。そうであれば、団長さんの娘さんでいらっしゃったってことですか?」
「いや、それがですね」
時田氏は、古くなった封筒と便箋を出して探偵に示した。差出人には確かに、子供らしいが、しっかりした文字で「山下ルリ子」とある。
「私も、そしてまわりの団員さんがたもみんな、ルリちゃんとだけ呼んでいて、山下ルリ子が本名かどうかわからないんです。というのもルリちゃんは、団長さんのことをお父さんと呼んでいたんですが、本当のお父さんじゃないと言っていたからです。だから養子なのか、それか、単に山下サーカスだから山下と名乗っていたのか。そこがわからない。もっとも私にとっては、永遠に、ただ、ルリちゃん、でいいんですが」
情熱的にそういうと、時田氏はまた赤くなったが、すぐにせつなげにうつむき、こう続けた。
「死んだ家内には申しわけないのですが、あれが、私の人生における最高の恋でした」
「それで、この女の子が今、どこで何をなさっているかお知りになりたいということですね?」
「ええ、あれからどういう人生をたどったかということも。ただ……」
「ただ?」
「会いたくはないのです。多分、今でも彼女は美しいのだと信じます。でも私のルリちゃんは、あのときのルリちゃんで、その面影はそのままにしておきたいのです。完全な私のわがままです。ルリちゃんからのメッセージも要りません。ルリちゃんに、私が今のルリちゃんの様子を知りたがっているということすら知られたくないのです。もちろん調査の中で、尋ねていく人に対しては、私のことは目的も言っていただいて結構です。そのほうが相手のかたも、変に身構えないで、素直に教えてくださるでしょう。でもルリちゃん本人にはそれを知られたくないのです」
翼は黙した。時田氏はつづけた。
「私は、ただ、ルリちゃんがその後どうなったかを知りたいだけなんです。この齢になって、私が唯一やり残したと思っていることなんです。最後のお金の使いどころなのです。こんなことを今更考えた理由のひとつとしては、おそらく、先ほど申し上げた、サーカスの暗いイメージが私につきまとっていたということがあるのだと思います。もしかして、彼女の人生もその後、暗く進んでしまったのではないかと思うときがある。そう思うと、悲しくて、せつなくて、いたたまれなくなる。彼女には幸せになっていてほしい。だから、そうなっていることを確認したい。もう、それさえ、わかったらもう私はこの世に何も未練はない」
やや場の雰囲気が重くなった。顔を上げた時田氏の目はうるんでいた。
「もちろん、調べていただいた結果が、私の意に反する可能性もあるでしょう。しかし、それはそれで受け入れたいと思います。でも、私は彼女が幸せになっているほうに賭けたい。そういう意味では、これは老いた私の人生、最後の賭け、冒険でもあるといってもいいでしょう。分かっていただけるでしょうか?」
「もちろんです」
翼は小さくも力強い声で返事をし、その場で、契約を交わしたのだった。
2
インターネットも文献も、ほとんど役に立たないので、翼は、「山下サーカス」について、日本中のサーカス団を訪ねてまわってみたが、なかなか手掛かりは得られなかった。
調査2週間目にして、やっとのことで、有名な三島サーカスを引退した84歳の老人が、かつて山下サーカスに所属していた男性を知っていると教えてくれた。それは、今から40年くらい前に、前に居た団、つまり山下サーカスが廃業したから三島サーカスに移ってきた人物で、三島サーカスでは、王子の衣装をまとって馬の曲乗りを見せていた人物とのことであった。
その元王子の男性は、秋田県の湯沢市に住んでいるとの情報が得れたので、翼は古い酒造所の残るその北の街まで会いに行った。元王子であることがまだ十分わかる63歳のなかなか端正な風貌の男性だった。
翼が、正直に、65年前に山下サーカスにいたルリ姫と呼ばれた綱渡りの少女が今どこでどうしているか知りたくて調査していると告げ、例の写真を見せたが、元王子は、自分は、山下サーカスには40年前に1年ほどいただけにすぎないといった。
「この女の子、もし、わたしがいたときにいたとしても、35歳以上になっているわけでしょう? それじゃ、わからねえなあ。どちらにせよ、その当時、ルリと呼ばれていた女性がいたことは記憶にねえです」
「あなたは、山下サーカスさんが廃業されたので、三島サーカスさんに移ったとお聞きしたのですが、それは確かでしょうか?」
「ええ、私が入ったときに山下はもうすっかり赤字経営だったのですが、そんなときに団長が違法賭博で逮捕され有罪になっちまったんですよ。団長もかなりすさんだ生活していましたね。酒浸りだった」
「その団長さんは今、どこに?」
元王子は首をふった。
「いやあ、あれから40年でしょう。正確な年齢は知りませんが、当時で50歳くらいだったのかなあ。少なくともそう見えた。生きていたら90歳だ。アル中みたいでしたから、とても生きてねえと思いますよ。もちろん、その後、連絡はおろか、なんの噂も聞いたことがありません」
翼は、山下サーカスにいた人間で存命の方を知らないかと訊いた。 探偵のこの問いに、元王子は、腕を組んでうなりだすと、こういった。
「顔は思い出せても、名前が思い出せんなあ……。フルネームで思い出せるっちゃあ、まかないのマキおばちゃんくらいかなあ。確か猛獣使いの人と結婚して、それで、名前が原マキになったって自分でネタにしてたから覚えてる。確かあの人は、ずっと昔から山下にいたはずだ」
翼は顔を輝かせ、その女性が存命か尋ねた。
「うーん、この人も当時で50歳くらいだったかんなあ。だからちょっと生きてるか難しいかもね。確か山下が廃業した時、仕事の当てがあるっつうて、だんなさんと故郷に帰るって言ってたな。確か……広島だった」
元王子が教えてくれたのは以上だった。
翼は、原マキという人間を、インターネットで探してみた。幸いなことにヒットした。原真紀。広島県下のある美術市展、その手芸の部で準大賞をとっていたからだ。さらに調査すると、すでに夫には先立たれ、今は広島県呉市の高齢者施設に入っていることがわかった。
施設に電話してみると、その場で本人に代わってもらえた。かつて山下サーカスにいたことを電話の向こうの女性はうべなった。ルリ姫のことをきいてみたが、どうも耳が遠いらしく、電話ではらちが明かないと、翼はすぐさま広島に飛んだ。入り組んだ海の室に牡蠣の養殖地が広がる島の南の方に、その施設はあった。
実際に会ってみたマキおばちゃんは、92歳にしては若々しく、杖もついてなかった。頭もしっかりしていて、幸いなことに、ただ耳だけが遠いだけのようだった。
翼は、例の写真の複製を見せた。
「この女の子をご存じありませんか。65年前に山下サーカスでルリ姫と呼ばれていた子です」
「ルリ姫?」
何度も聞き返した上でマキおばちゃんが眉間にしわを寄せたので、翼は不安になった。
マキおばちゃんは、ゆっくりと自室に戻って、老眼鏡をとってきた。そして、それをかけると、写真を手にとり、眉間にしわを寄せ、目を細めて見た。
「ああ、ああ、ああ」とうなずきはじめるとマキおばちゃんはいった。
「これは女の子じゃないよ」
「いえ、右側の子ですよ」
翼は相手が、ぼけて男の子を見ているのだと思い、指先を女の子にあてたが、マキおばちゃんはこう言い返してきた。
「いや、これは女の子の恰好させられてたんじゃ。シゲオちゃんだ。シゲオ」
探偵は呆然となった。
「ものすごお可愛い子だったけんね。普通にしてても女の子に見えとった。それで、団長が女の子の恰好させて、綱渡りやらやらせとったんよ」
さらにマキおばちゃんは「ああ、ああ、ああ」とまたうなずきの声をあげた。
「こっちの男の子もなんか覚えとる。この子、シゲオちゃんに花束持ってきたんじゃ。うん、うん。でも、みんな、シゲオが男だってことは教えんかった。まあ、教えんでええじゃろ。どうせ、じきに、わしらは他に行ってしまうんじゃし、ええ雰囲気で仲良くしとるのに、水さすこともないし、なんかシゲオちゃんもえらいその男の子が気に入ってたみたいで、そんなこと言ってもらいたくなかったみたいじゃったしのう。ああ、ああ、面白いことがいろいろあったもんじゃ。懐かしいわ」
翼はあっけにとられた顔で、マキおばちゃんの他の思い出話まで聞かされていたが、やがて自分の職務を思い出すと、相手に聞き取れるよう一字一句はっきりと発音しながら、こう尋ねた。
「シゲオさんは、その後、どうなったのですか?」
「どうって? どうもなっとらんよ」
「というと?」
「ずっと山下におったよ。まあ女の子の恰好は、途中でやめたんじゃったかのう。女の子みたいなのはその後もそうだったけど、それでも体つきも変わって来たし、声変わりもしたしな。その後は、ピエロとかもやっとったかのう」
「あのう、40年前に山下サーカスさんは廃業されてますよね。じゃあ、シゲオさんはそのときまでおられたんですか」
「そらおったよ。あたりまえじゃあ。団長になったんじゃけん」
3
シゲオちゃんが、どこからどうして山下サーカスに来たのか、マキおばちゃんも知らないということであったが、ともあれ、前の団長が戸籍に入れていたので、名前は山下茂男となっていたはずだとのことだった。マキおばちゃんも、山下サーカスが廃業してからは、サーカス業界とは縁を切り、広島に移ってしまったので、山下茂男のその後の消息は何も知らなかった。しかし40年前の廃業のさい、山下茂男が違法賭博で逮捕され、服役していることは、探偵にとって、十分すぎる手がかりであった。
翼は、殉職した兄の上司であった元県警本部長、元岡浩一にすがることとした。元岡は、翼の兄を部下として高く買ってくれており、また翼の兄が殉職したときには、身寄りを失った兄のひとり息子、明の身のみならず、明をひきとった自分にも、その当時、いろいろ手を差し伸べてくれた人物だった。
「元気そうで何よりです。上条さん」
元岡は自宅の応接間に翼と向かい合うとそういった。丁寧な言葉使いながら、武人の風格は失せていなかった。天下りを拒否し、今では出身校で、強豪で名をはせている剣道部の指導をおこなっている。
「探偵業のほうは順調のようですね。よく噂も耳にしますよ」
「恐れ入ります。また、ずうずうしくもお力にすがりに参りました」
ひととおり、お互いの現在のことを語りあったのち、元岡のほうが話を本題に移した。
「電話では、山下茂男という人物について知りたいとのことでしたね」
「ええ」
「どのようなことで調べてるのかは、そちらにも依頼人さんのプライバシーがあるでしょうから、聞きませんが……」
と言いながら、元岡は結構な厚みのある書類を、どんとテーブルの上に置いた。
「ちょっと関連のものを集めてみました」
「こんなに!?」
さすがの翼も驚愕、恐縮しないわけにはいかなかった。
その資料によればこうであった。
山下サーカスの団長、山下茂男は40年前、違法賭博に加担していたことで、逮捕されたが、もう5年近くもそれに関与していたので執行猶予はなし。懲役5年の実刑で某刑務所に収容されたとのことであった。
「そのようなことに関わったのには、サーカス興業がうまくいかなくなったことが原因だったようですね」
元本部長がそういうのに、翼はマキおばちゃんの次の言葉を思い出していた。
『ああ、一応、前の団長のひとり息子ということになっとったからな。前の団長が死んだときにサーカスを継いだのよ。解散廃業する5年くらい前のときだったかのう。でも、元々あまりそういうことには向いてない子じゃったからの。すぐに興業はうまくいかなくなってしもて、それでアルコールびたりになってしもうたんじゃ。それからは、怒りっぽくなるわ、おかしな言動はしだすわで、ついに博打にまで手を出してしもうた』
元岡の資料によれば、出所後、身の軽さを生かしたのか、空き巣、スリで生計を立て、ずっと服役と出所を繰り返していたのだが、10年前、あきすに入った家で、転倒、その家の者に発見されてしまい、そのさい、はずみもあったのだが相手に傷害を与え、結果的にその相手が死んでしまったので傷害致死となり、再び服役したとのことであった。
暗い顔で呆然としている探偵に、元県警本部長は言葉をついだ。
「懲役15年の実刑を受けています。前科がありすぎたので、重くなったのでしょう。今は、M医療刑務所にいますね」
「医療刑務所というと、どこが悪いのでしょう?」
「どこもかしこものようです。M医療刑務所には、懇意な者がいますので訊いてみたのですが、今76歳ですか、まあ年齢も正確なものかわからないが、あまり長くないということのようですよ。おそらく外に出ることはもうありますまい」
「どうしてそのように道を踏み外してしまったか、そういうことがわかる資料はないでしょうか」
探偵がそう言うと、元岡は急に気まずい顔になった。
「何か?」
「それなんだが……」元岡はピンクのふせんのついた一綴じを取り出すとこういった。「この付箋のついたところに山下が幼い時のことをしゃべった記録があります」
翼は調書のコピーをうけとり、そこを読んだ。
自分は、小さい時から、この世界に居場所がなかった。何も楽しいことがなかった、などという言葉が記録官の達筆な字で書きとられていたが、さらにそのあとをよむと、翼は顔色を変えた。
「男娼……」
その探偵のつぶやきを聞くと、元岡は来客者と目を合わせないようにしながらこう言った。
「道を踏み外したのは、そこらに根があるんじゃないでしょうか」
部屋にはしばらく沈黙が続き、外を元気よく飛ぶひよどりのさえずりだけが通り過ぎていった。
「元岡さん」やがて翼は顔を上げて言った。「あつかましいのですが、もうひとつお願いを聞いていただけないでしょうか」
「私にできることなら」
「この人と面会できるよう、お力添えいただけないでしょうか」
4
長い廊下だった。刑務所を囲う高い塀以上に、中と外との隔絶を示す長い廊下だった。やや先立って歩く50歳くらいの制帽制服の職員が、翼に言った。
「運がよかったですよ。面会できるのかと思っていたのですが、今日は病状が特別に良くなったというのですから」
「そんなに悪いのですか」
「ええ、半年もたないとのことらしいです」
職員は、山下茂男の面会者は、翼が初めてだとつけくわえた。
窓のない小さな白い部屋に招じられた。真ん中に通声孔のある透明アクリルの大きな板が向こうとこちらの世界を画然と隔てていた。
職員は「どうぞ」と通声孔の前の椅子を指し示し、自分はその斜め後ろのスチールの折り畳み椅子に座った。
長く、空調機の給気音だけが静かに聞こえていた。
やがて向こう側の奥の扉が開き、これも制帽姿の職員が現れ、そのうしろから、動くのもやっとといった、痩せた、背筋を稲穂のように垂らした老人が姿を見せた。受刑者服と思われる淡いグリーンの上下をまとい、やせこけていながらも同時にむくんでいるので皺は案外とすくなかったが、顔色はどす黒くなっていた。
受刑者の老人は、自分が何をしにここに連れてこられたか分からないといったていであったが、職員が前の椅子を指し示すと、助けも借りず、ゆっくりと椅子のところまで来て、うつろな、白目の部分が濃い黄色に変わった何の感情もこもっていない目で、椅子から立ち上がった面会者の若い女の顔を見やった。
翼が軽く会釈をすると、老人をつれてきた職員が、ふたりに座るよううながし、ふたりはぎこちなく着席した。向こう側の職員は、扉の向こうに消えた。ドアの閉まる音がこちらと同じ世界のものであるのが不思議な感じがした。
「山下……茂男さん……ですね?」
翼は、自分の素性を明かしてから、相手にそう問うたが、写真とのあまりの違いに、自分はここに何をしに来たか刹那、忘れかけそうになった。
老人は、歯が一本もなくなった口をあけて、うなずいたのち、
「山下茂男です」
とかすれた声で言った。姿から推すよりは、声も頭もまだしっかりしているようだったので、翼は、用件を述べ始めた。
「私は、時田実という方に頼まれて、ある女の子を探しています。その女の子のことを山下さんがお知りにならないかと思って、今日、話をうかがいに来ました。時田実さんというのは、あなたとちょうど同じくらいの年齢の方なのですが、65年前、11歳のときに、あなたのいらした山下サーカスに出演していた同じ年頃の少女に恋をしました。その女の子に花束をもっていって仲良くなり、それからは何度も会いにおもむき、遊びにも行ったりして楽しい時を過ごしたそうです。しかし2か月でサーカス団さんのほうは別の地に移動しましたので、それっきり会えなくなりました。時田実さんにとって、その女の子との思い出は、何にも変えがたいものだったので、実さんは、今、その女の子がどうしているか、それだけを知りたいと申されて、私に調査を依頼なさったのです。ただし、会わなくていい。むしろ会う必要はない。いえ、会いたくはない。あれから、どうなったのか、今どうしているか、それだけを知るだけでいいというご依頼でした。なぜ会わなくていいのかといえば、今、会って、昔の思い出が少しでも形を変えてしまうことを実さんは恐れたからです。それほど、実さんにとって、彼女の思い出は大切なものなのです。実さんは自分の人生の中でその女の子をもっとも美しい子、もっとも美しい思い出だと今もって大事にされているからです」
そこまでしゃべると、翼は祈るような目で、相手の顔を見つめた。受刑者の老人の顔は、探偵の話が進むにつれ、生気を取り戻しだしていっていた。そしてそれは最後には、呆然たる驚きの表情にまでなっていた。
ここではじめて、翼はあの写真の複製を、アクリル板越しにかざした。
「この右側の女の子です。当時、山下サーカスで、ルリ姫と呼ばれていた子です。左が、私の依頼人の時田実さんです。65年前の写真です」
受刑者の老人は目を大きく見開くと、カウンターに手をついて身を乗り出し、その写真をじっと見ていた。しばらくまた空調の給気音だけが聞こえていた。
やがて老人は中腰のまま、探偵の顔に目を転じた。探偵はまばたきもせずにじっと老人を見つめていた。老人もその目に射抜かれたように探偵の顔を見返していた。
やっとのことで老人は腰をおろすと、下あごをふるわせ、視線を下方にゆっくりさまよわせながら、こう言った。
「それは……その少女は……ルリというのは……」
翼はかざしていた写真をカウンターの上に置いただけで、何も言わず、老人が言葉を継ぐのを待った。老人はさまよわせていた視線を正面で止めると、ようやく言葉をこう継いだ。
「その子は……ルリは……あるお金持ちにもらわれていきました」
ややあって翼が訊いた。「養女、ということですね?」
「そ、そう……その写真の1年後くらいのことです」
「どちらの方にもらわれていらっしゃったのかご存じありませんか?」
老人は痙攣するように首をふった。
「それは分からない。身なりのいい夫婦だったことだけ覚えている。それがどこの誰かは、前の団長しか知らないと思う」
翼は歪みかけた口元を引き締めると、さらにこう質問した。
「それから、ルリさんは、まったく音信不通になられたのですか?」
また長い間があったのち、老人は言葉を継いだ。
「いや、一度、手紙が団長のところに来ました。ルリは元気みたいだぞ、幸せみたいだぞと、団員たちにうれしそうに言っていたのをおぼえている。それ以上のことはわしには分かりません。それ以上のことは何も……」
そういうと老人は首を垂れた。そして両肩を震わせはじめた。声はいっさい出なかったが、嗚咽しはじめたのだった。
「ありがとうございます」そう投げかけた翼の声も震えていた。そして立ち上がると、深く頭を下げてもう一度言った。「本当にありがとうございます」
涙に濡れた顔を老人はあげた。
「探偵さん」
「はい」
老人は立ったままの探偵に言った。
「実くんに……いえ……ルリが実くんと呼んでいたのを思い出したので、わたしも実くんと呼んでしまったのですが……実くんに、ルリもあなたが初恋の相手だったと、あなたのことを大好きだったと言っていたと伝えてください。ルリは、将来、結婚したらサーカスをやめると言っていました。それはあなたのことを言っていたのだと思う。そう、伝えてください……」
翼はうるみを帯びながらも強いまなざしでこう返した。
「必ず、お伝えします」
そのとき、鳥のようなかん高い音を老人は発した。嗚咽が、号泣に変わったのだった。
5
『……ルリもあなたが初恋の相手だったと、あなたのことを大好きだったと言っていたと伝えてください。ルリは、将来、結婚したらサーカスをやめると言っていました。それはあなたのことを言っていたのだとそう、伝えてください……』
録音の再生をそこで止めると、黙ってうなだれている時田氏に向かって、翼はいった。
「これが、今、ある施設に入っておられる山下サーカスの最後の団長さんの証言です。ご病気で、あまり長くないというところを無理にお願いして、お話しを聞いて参りました。それからは、お金持ちの方というのも、がんばって探してみたのですが、何も手掛かりをつかめず、このような形でのご報告になってしまいました」翼は頭を下げた。「申し訳ありません」
「何を言うのですか。上条さん!」
時田氏は、目に涙をためた顔をふりあげると言った。
「最高です!……最高の結果です! いや、私のほうこそ、あなたにあやまらなくてはならない」
翼は顔を上げた。時田氏はつづけた。
「実は、私は、途中で、あなたに、あまり詳しく調べないでほしいと、追って要望しそうになったのです。私は、ルリちゃんに会いたくはない、ただその後どうなったか、今どうしているかを知りたいと言いましたが、あとで思い直してみると、私は、ルリちゃんが、幸せになっていようと、あるいはその逆であろうと、あまりに具体的なことを聞けば、それだけで、今持っているルリちゃんの姿が遠くへ行ってしまうと気づいたからです。だから、幸せになっている、しかし、そのつまびらかなことは分からないというのが、一番、望んでいた答だったのです。そして、あなたはそのとおりの報告を私に持ってこられた。まさに一番良い結果が出たのです!」
時田氏は、失礼をお許しくださいと言うと、身を乗り出して、両手で翼の右手を握り、頭を下げた。翼も左手を添え、「ありがとうございます」と返した。
やがて、老人は手を放すと、顔を大きくあげ、陶然とした笑みを浮かべこういった。
「ああ、今、ルリちゃんの笑顔で綱渡りをしている姿が、あざやかによみがえってきました。この笑顔と姿、輝き、あのときのときめきがよみがえってきます」
そういって時田氏はしばらく目を閉じていたが、不意に目をひらくと、こう続けた。
「ありがとう、上条さん。これで、私も、何の未練もなく、この世を去れます」
「まだお若いのに、そんなことを言われては……」
翼が困った顔で答えると、瀟洒な老人は案外と明るい表情でこう続けた。
「いえ、私もこの団長さん同様、長くないのです。ガンが進行していまして……このような酔狂なことをお願いしたのも、それがためでもあったのです。でも、最後にやり残したことをやれました。そして、それを最高の形で終えることができたのです。もう思い残すことはありません。私の人生の最高の美しい思い出は、最高の思い出のまま、永遠のものとなったのですから」
「相手の方も、きっとそう思ってらっしゃると思います」
翼は泣きそうな笑みを浮かべて言った。
「ありがとう」
「いえ、間違いなく」
翼は、今一度、目の前に置かれた65年前の写真を見つめた。
ふたりの子供がはにかんだ初々しい笑みを見せて並んでいるその写真。それは過去の一場面の記録ではなくて、それ自体が永遠の肖像であるかのように見えた。
『曲馬団の少女』 終