お母さん
母が亡くなってから2年ほど経ったある日、父が女の人を連れて来た。僕に紹介したい大事な人だというのだ。
「翔太、お前が許してくれるのなら、この人と再婚したい。とても優しい人でな、翔太もすぐに仲良くなれると思うんだ」
父はそんなことを言っていた。父の隣に座るその女性は、亡くなった母と同い歳くらいで、どことなく母に雰囲気が似ている気がする。
「翔太くん、私頑張るから、頑張って翔太くんのお母さんになるから!」
「僕の母さんは亡くなった母さんだけだよ。でも、父さんが寂しいのならいいよ。よろしくね、明美さん」
他人が母さんになんてなれるわけないだろ。でも僕ももうすぐ中学生になる歳だ。父さんの気持ちを考え、明美さんを迎えることを承諾した。
「ごめんね翔太くん、お母さんは私なんかよりもっと大事な人だもんね、代わりになんてなれないよね⋯⋯でも、翔太くんが寂しくないように私頑張るから!」
「僕の方こそごめんなさい」
この元気さ、母さんみたいだ。でも、母さんは母さんだ。どれだけ頑張ってくれても、母さんにはなれっこないんだ。
それから明美さんは僕や父に出来る限り尽くしてくれた。僕も最初は中々彼女に気を許すことが出来なかったが、僕を落ち着かせるためか亡くなった母の服を着たり、父に聞いたのか母がよく歌っていた子守唄を歌ってくれたりと、彼女の優しさに触れていくうちに、僕もいつしか心を開いていた。
「ね〜んね〜ん、なんでやね〜ん、なんで〜やね〜ん♪」
彼女が継母になり4年が経った今でも、未だに子守唄を歌ってくれる。歌いすぎのせいか、わずかに掠れた声で。子守唄って⋯⋯僕はもう高校生だぞ。でも、ありがとう。
だいたいいつも明美さんは僕を寝かしつけてから洗い物をして、それから眠っている。彼女の立てる物音で目を覚ます時は、いつも夜中0時を回っていた。
僕たちのために夜中まで起きて家事をしてくれているんだ。朝だって僕より早く起きてお弁当を作ってくれる。愛情も僕が本当の息子であるかのように注いでくれている。
そんな明美さんのことで、ひとつだけ気になっていることがある。彼女は年中長袖なのだ。真夏の35度を超える日であっても絶対に半袖を着ようとせず、いつも母の形見の長袖だけを着ている。
僕は刺青が入っているのではないかと疑っていた。まぁ、疑っていただけで特にマイナスな感情を抱いたわけではない。確かに刺青は怖いが、入っていようが入っていなかろうが、継母の優しさに変わりはないので、正直どうでもよかった。
しかし、謎である期間が長ければ長いほど気になってくるもので、ここ最近、僕は明美さんの袖をめくるチャンスを伺っていた。
そして今日、ついにその日が来た。僕を寝かしつけていた明美さんがそのまま僕の横で眠ったのだ。亡き母が遺したクワガタ&ミミズ柄の長袖をゆっくりとめくっていく。
「えっ⋯⋯」
僕は思わず息を飲んだ。腕の皮膚が爛れており、血が滲んでいるのだ。こんな状態でいつも家事を!?
さらに袖をめくってみる。ゆっくりと、起こさないように肩のところまでめくった。
めくったところは全て同じような見た目になっていた。大火傷をした過去があるのだろうか。痛くないのだろうか⋯⋯
「ふあぁ⋯⋯寝ちったか⋯⋯って、えっ!? 翔太くん何してるの! あ、さては⋯⋯私に欲情したな! 変態め!」
「いや、そんなことは⋯⋯!」
僕は必死に否定した。
「あ痛てっ、⋯⋯はっ!」
明美さんは袖がめくられているのに気が付き、僕から見えにくい位置に腕を隠した。
「あの、病院に行った方が⋯⋯」
「いいの、大丈夫だから。気にしないで」
そう言って明美さんは僕の部屋から出て行った。
僕は心配になった。あんなの、痛くないはずがない。腕だけなのだろうか、それとももっと広範囲なのだろうか。
「ね〜んね〜ん、む〜しむしお〜ねんねよ〜、お〜まえのめ〜だまをえ〜ぐりだす〜♪」
相変わらず僕の隣に寝転がって子守唄を歌ってくれる明美さん。日に日に声も枯れていっているような気がする。歌いすぎでここまで枯れるものなのだろうか。もしそうなら歌手なんてみんなすごい声になってるんじゃないか?
僕はふとこの前見た明美さんの腕を思い出した。今見えている部分は全て健康な肌の色をしている。なのに、袖をめくると痛々しい腕をしている。腕に熱湯でもこぼしたのだろうか。
次の日の夜、僕は明美さんのお風呂を覗くことにした。人としてこんなことをするのはダメだと分かってはいるものの、それ以上に明美さんが心配なのだ。
服を全部脱ぎ、風呂場に入っていく明美さん。息を殺し、足音と気配を消して風呂場の戸に近づく。覗き歴7年の僕にかかればこんなこのは造作もないことだ。
カ⋯⋯⋯⋯チャ⋯⋯
ゆっくりと、ゆっくりとアハ体験のように肉眼で分からないレベルのロースピードで戸を開ける。シャワーを出しているので音はあまり聞こえていないようだ。
明美さんの背中を見た僕は唖然とした。ちょうど服の形に皮膚が爛れており、背中のど真ん中に真っ赤な手形のようなものがついている。
しばらく呆然としていると、突然明美さんが前に倒れた。僕は戸を開け、風呂場の中に入った。
「なんだ今の音は! 大丈夫か!」
居間で晩酌をしていた父が飛んできた。
「倒れたみたいなんだ、救急車呼んで!」
僕は父に救急車を呼ぶように頼んだ。5分ほどで救急隊が到着し、明美さんは病院に運ばれた。
「父さん、明美さんの背中⋯⋯」
「翔太、見たのか⋯⋯!」
父は驚いたような顔で言った。
「あの手形のような痣と皮膚の炎症はな、まだ原因が分かっていないんだ。何軒も皮膚科を回ったんだが、全員お手上げだった」
父は思い詰めてるようだった。
「結婚する前はなんともなかったんだが、一緒に住むようになってからああなったんだ。この家に何かあるんじゃないか、引っ越さないか、って言ったんだが、『環境が変わると翔太くんも友達作りとかまた大変だろうし、このままで大丈夫だよ』と言って引っ越そうとしなかったんだ」
明美さん、そんなに僕のために⋯⋯
自分があんなになっても僕を優先してくれていただなんて。引っ越さないとダメだ。これ以上明美さんに辛い思いをさせるわけにはいかない!
「吉田さん、こちらへどうぞ」
待合室で待っていると、白衣を着た先生が僕たちを部屋に呼んだ。
「心してお聞きください。彼女はもってあと1時間といったところです。なんとか意思の疎通をはかることは出来ますが、目を開けることも出来ない状態です」
僕は頭が真っ白になった。同時に、今までにないほどの涙が溢れてきた。前のお母さんが亡くなった時はこんなに急じゃなかったからなんとか覚悟は出来ていたけれど、こんなにいきなり母親を失うことになるなんて⋯⋯!
「翔太⋯⋯ひっぐ、残された時間、大事にしよう⋯⋯」
父が涙を流しながら言った。
そうだ、泣いている場合じゃない 。明美さんとはあと1時間しか一緒にいられないんだ。
「明美、聞こえるか!」
父の声に明美さんは、なんとか小指を動かして答えた。
「明美さん、死なないで⋯⋯」
僕の呼びかけにも同じように小指を動かす。今までの明美さんとの思い出が蘇る。
「明美さん⋯⋯会ったばかりの頃は冷たくしてごめんね。まだ心の整理がついてなかったんだと思うんだ。そんな僕を毎日励ましてくれて、優しくしてくれてありがとう。僕は幸せだったよ」
明美さんは目を閉じたままにっこりと笑ってくれた。ちゃんと聞こえているんだ。
「今まで本当にありがとう。僕にとって明美さんはかけがえのない〝お母さん〟でした! 心からそう思っています」
お母さんはにっこりと笑ったまま涙を流した。しかし、次の瞬間、お母さんは苦しみ始めた。
「うっ⋯⋯!」
お母さんは苦悶の表情を浮かべたかと思うと、動かなくなってしまった。その時、耳元で前のお母さんの声がした。
「うそつき」